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第75話 春死なむ⑦

「ぁ――」    たった一秒が、永遠のように長く感じられた。  半年前、直澄に斬られてできた傷をそっくりそのままなぞるように、直澄の刃が食い込んでいく。赤い血肉がぱっくりとのぞく。 (お見事)  清々しい気持ちで、幻乃は己が身を割く刃を受け入れる。  この半年、療養の傍らで腕を磨いてきたけれど、とうとうこの人には届かなかった。悔しくはあったけれど、直澄に斬られて死ねるのなら、これ以上の幸せはない。  口角が上がる。  反対に、直澄は笑みを歪めた。高揚と悲しみが混ぜこぜになったような無様な顔。今にも叫び出しそうな揺れる瞳を見ていられなくなって、思わず手を伸ばす。しかし、届かなかった。  肩を斬られる反動で、刀が手から離れていく。終わってしまうことが、惜しくてならなかった。   (ああ、未練だな)    まだ斬り合っていたい。まだ終わらせたくない。まだこの人の視界に映っていたい。もっと語り合って、この人を知りたかった。  けれどそんな贅沢は叶わない。だからせめて、と目を細める。  最後の最後まで見つめ合ったまま、直澄の刃が己の命を刈り取っていく感触を、じっくりと堪能したかった。    やがて、残酷で愛おしい一秒は、終わりを告げる。  つくべき決着の結末としてではなく、轟音とともに倒れ込んでくる炎の塊と、文字通り全身を焼かれるような、熱風によって。 「屋敷が――!」 「崩れるぞ! 離れろ!」  動き出した時間の外で、喚く声が聞こえた。  刻一刻と迫る炎が肌を炙る。悲鳴のような音を上げて、屋敷を支えていた柱が崩れていく。焼け焦げた壁と屋根とが、視界いっぱいに近づいてくる。  幻乃は、迫り来る炎の塊をただ見つめていた。 (……報いか)    欲を言えば、直澄に命を捧げたかった。けれど、直澄の刃が幻乃を殺すより、焼けた屋敷に潰されて事切れる方がきっと早い。最後の最後に計算外ではあるが、これだけ多くの人々を巻き込んでおいて、自分だけが願いをすべて叶えようというのは、あまりにも強欲が過ぎたのだろう。  勝負はついたのだ。それで良しとしよう。  迫り来る死を受け入れて、幻乃はそっと目を伏せようとした。  しかし、屋敷が倒壊するまさにその瞬間、腹に叩きつけるような衝撃を受け、視界がぐるりと回る。 「……っ⁉︎ な――」  直澄だった。刀を手放した直澄は、体当たりをするように幻乃の体を押しやって、全身を盾にするように覆い被さっていた。押し倒される過程で、後頭部をしたたかに地面に打ち付ける。何をしているのかと怒鳴る間もなく、くわんと頭が芯から揺れて、意識が急激に遠ざかっていった。  轟音が響く。  幻乃が最後に感じたものは、一切の手加減なく幻乃を抱きすくめてくる腕の感触と、炎に呑まれる熱さだけだった。

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