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第80話 春死なむ⑫

 炎が弾ける音がした。家屋が焼ける音にしてはいささかのん気な、まるで焚き火か囲炉裏のような儚い音。  自分がどこにいるのかも分からぬままに、前髪を払われる感触に目を開けた。視界に映った男の手を咄嗟に叩き落として、幻乃は痛む頭を抑えて身を起こす。    そこは民家とも言えぬ狭い古小屋の中だった。辺りは暗く、人の声ひとつ聞こえない。窓からは薄らと積もった雪が見え、赤く頼りない光を散らす小さな囲炉裏(いろり)が、ぼんやりとぬるい熱を放っている。  まかり間違っても、殺し合いをしていたはずの幻乃がいていい場所ではない。  じくじくと痛む腹の傷は、浅くはないとはいえ、腸もこぼれない程度の深さでしかない。その傷さえもきっちりと手当てをされている上、与えた本人に寝顔を見守られている状況ときたら、笑えばいいのか喚けばいいのか、もはや分からなかった。    直澄はどれだけ幻乃を馬鹿にすれば気が済むのだろう。  体の芯から冷えわたる、最悪な気分で幻乃はうめく。 「……なぜ庇ったんです」 「さあ。体が勝手に動いていた」  ふざけた返事に直澄を睨みつける。その時初めて、幻乃は直澄の首から下の無惨な様子に気がついた。上等な作りの着物は焼け焦げ、ところどころが破れている。手当てこそされているのものの、幻乃が刺した傷に加えて、ひどい火傷の跡があちこちに見て取れた。  ――せっかく綺麗な背中だったのに。  わけも分からず腹が立った。幻乃の視線の剣呑さに気付いたのか、直澄がそっと目を伏せる。その視線の動きにさえ怒りを煽られ、唸るように幻乃は吐き捨てた。   「殺せ」 「それは、俺が決めることだ。お前は殺さない」 「ならばその命、俺に寄越すがいい!」  表情ひとつ変えない直澄に腹が立った。もはや口調を取り繕う余裕もない。  恩人たちの町を焼き、世に争いを煽動してまで整えた、唯一無二の機会だった。この期に及んで殺してもらえなかった事実を、とても受け入れられない。吐きそうなほど、幻乃の心はぐちゃくちゃに乱れていた。  目の前が真っ赤になるほどの怒りを、幻乃は抑えない。袴に仕込んだクナイを手に取り、まっすぐに直澄の首を狙う。  けれど、直澄は幻乃の手首を掴むと、やすやすと寝台に縫いつけてしまう。幻乃にできることは、ただ直澄を睨みつけることだけだった。 「殺せ、人斬り狐……!」 「無理な話だ。俺はもう、お前を斬れない」  淡々と告げられたその言葉に、斬り合いの最中の直澄の表情を思い出す。泣きそうな、無様な表情だった。あの時自分は、己の刃が直澄に届かなかったことに、どこかで安堵してはいなかっただろうか。自分が斬る立場にならずに済んだことを、良かったと思いやしなかったか。  締め付けられるような胸の痛みには気付かぬふりをして、幻乃は挑発するように頬を歪めてみせる。    「戯れ事を。刀を向け合った以上、生きるか死ぬかだ。間はない!」 「お前がそう望むなら、斬ればいい。ただし、クナイではなく刀で。その方が早い。お前の忍具で斬られるのは、いい思い出がないものでな」 「……っ、ふざけるな。俺はあなたに負けたんだ。死ぬべきはあなたではなく、俺だ。殺せ!」    幻乃が喚き散らしても、直澄は顔色ひとつ変えなかった。ただ疲れたようにため息をついて、静かに首を振っている。 「なぜそうも死にたがる? どうしてお前は、ここまでのことをした? 敗者はお前だと言うのなら、答えろ。幻乃」 「……なぜ? なぜだって? あなたには分からないでしょうね。主を失い、仕える家も失くして、新時代とやらに居場所もない。ならばせめて剣士として華々しく死にたいと望むのは、そんなにもおかしなことですか⁉︎」 「これだけの人数を巻き込んでまで、今、場を整える必要性を感じない」 「――今じゃなきゃダメなんだよ!」  血走った目で幻乃は喚く。直澄が驚いたように目を見開く様に、ほんの少しだけ胸がすく思いがした。

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