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第81話 春死なむ⑬

「時代は変わる。いや、もう変わった! 刀はいずれ奪われて、必要悪だった人斬りはただの悪になる。そもそもそんな後ろ暗いこと、やる必要もなくなる! 人斬り狐だって、いなくなる。面を被ったあなたと向き合える機会は、今だけだった!」 「面を被ろうが被らまいが、俺は俺だろう」 「そのあなたは、刀を捨てるんだろうが!」 「……?」  言えば言うほど、直澄は困惑を深めていく。幻乃自身でさえ、自分が何を伝えたくてこんなにも無様に喚いているのか、正直なところ分かっていなかった。 「俺を負かしたあなたが刀を捨てるなんて、許せない。堪えられない……! 俺は……、俺にはこれしかないんです。あなたと斬り合うのが一番楽しかった。あなただけが俺を分かってくれた。でも、刀がなければ、俺はあなたに向き合うことすらできません」  声が震える。情けなくも滲んだ涙を、腹の傷の痛みのせいにして、幻乃は駄々をこねるように喚き続けた。 「藩が廃止されたって、皆あなたを慕っている。刀を捨てたあなたは奥方を迎えて、家庭を作って、人に囲まれて、穏やかな時代を生きていくんでしょう。俺は、そんな風に腐っていくあなたを見たくない……!」  堪えきれなかった涙が一筋、眦から流れ落ちていく。引きつる頬をなんとか嘲笑の形に歪めて、幻乃は直澄を睨みつけた。   「愚か者でも気狂いでも、なんとでも言えばいい。緩やかに死んでいくあなたを見るくらいなら、あなたが一番強く美しい今、殺し合いたかったんです。直澄さん……!」 「――なぜ俺が刀を捨てなければならない?」  血を吐くような幻乃の言葉に耳を傾けつつも、心底理解できないとばかりに、直澄は眉間に皺を寄せた。  こちらを見つめる直澄の目があまりに澄んでいるものだから、幻乃もそれまでの勢いをなくして、「なぜって……」と口ごもるしかなかった。   「だって、維新は為りました。もう人斬りの必要はないでしょう」 「たかだか年号ひとつ変えるだけで、悪人すべてが法の下で裁かれるようになると、お前は本気で思うのか? 対立する意見を誰もが聞き入れ、皆が喜んで話し合うようになるとでも? そんな世界があるのなら、俺もお前も、後ろ暗い仕事などしてこなかっただろうよ。時代の枠が変わったところで、そこに生きる人間がそう簡単に変わるものか」 「だけど! 刀を持つ者は、きっと減っていく。それが時代の流れです」 「なぜ俺が大多数に合わせる必要がある?」 「な……!」  あっけらかんと告げられた言葉の衝撃に、幻乃ははくはくと口を開閉する。幻乃を突き動かしていた理由が、ひとつずつ理路整然と封じられていく。それは直澄と切り結ぶとき、一手、また一手と取れる手段を封じられていくときの恐怖とよく似ていた。 「……あなたは藩主で、人斬り狐でしょう! 維新のために必要だから、誰より多く人を斬ってきた。新時代を迎えるためにやってきたのではないのですか!」 「強者と斬り合うには都合が良かったから引き受けていた。それだけだ。藩主の座とて、別に望んで手に入れたものではない。その立場にあったから、必要だと思うことをしていただけだ」  つまらなさそうに語る直澄の声音に嘘は感じられなかった。元より、幻乃と違って直澄は必要のない言葉遊びを好むたちでもない。  幻乃が怯んだことを感じ取ってか、直澄は皮肉げに唇の端を上げて、逃がさないとばかりに顔を近づけてくる。 「時代が刀を必要としなくなったとしても、俺が俺であるためには必要だ。お前だってそうだろう、幻乃。刀が必要でなくなることなんてない」 「それは……、そうですが……」 「俺は刀を捨てない。人斬りは裏に潜ることはあれど、不要になることはないだろう。どうとでもやりようはある。……それで? それ以外は? お前の理由を教えてみろ、幻乃。なぜ急に俺を殺そうとした。今まで寝首をかこうとしたことすらないくせに。それとも、なぜ死のうとしたのか、と聞いた方がいいか?」 「俺……、俺、は……」    廃刀令の話を聞いたから。  冬馬に誘いを持ちかけられたから。  三条藩に居づらくなったから。  どれも正しいのに、どれも理由のすべてではない。  救いを求めるように、幻乃はぎこちない動きで腕を持ち上げる。そのまま直澄の顔に手を伸ばし、自分がつけた頬の傷を確かめるように指でなぞった。幻乃は腹を切られたというのに、幻乃が直澄に与えられたのは頬と肩の傷だけだ。そう思うと猛烈に腹が立って、幻乃は手加減なしに直澄の傷に爪を突き立てた。   「……――っ」    痛いのだろう。かすかに眉間に皺を寄せた直澄が、声にならない浅い息を漏らす。その表情がひどく官能的に見えたものだから、そんな状況ではないと分かっているのに、思わず目を奪われた。  傷口から離そうとした幻乃の手を、直澄は自らの手を重ねることでその場に留めた。幻乃の手に頬をすり寄せた直澄は、何を考えているのかも分からぬ無表情のまま、目を細める。  しばし無言で見つめ合い――やがて、直澄は穏やかに口を開いた。   「俺を恨んでいるか、幻乃」 「……生かしたことを言っているのなら、恨んでいますよ。ずっとね。二度も負かしておいて、よくも生かしてくれたものだ」 「そうだな。だがこれで、お前の主人への義理も果たした」 「え?」  なんでもないことのように、直澄は続ける。 「半年前、お前が昏睡している間に、榊藩から三条藩への討ち入りを偽装した。報復という名目で、榊藩を落とすためだ。先のことを考えると、被害は最小限に留める必要があった。争いは一昼夜続いた。榊俊一殿の首を斬ったのは、俺だった」  それは、今まで聞いてこなかった俊一の最期の話だった。興味はないと言ったのに、なぜ今さら語って聞かせるのか。幻乃が口を挟む間もなく、直澄は語り続ける。 「榊俊一殿は、焼ける屋敷の中央で、堂々と座しておられた。これも時代の流れかと語り、最期まで微笑みを崩さぬ態度は、敵ながら立派なお姿だった。家族のことも藩のことも後に任せてあると言っておられたが、命を落とす寸前、思い出したように彼は笑った」  淡々と語られる俊一の様子は、幻乃の記憶の中にある主人の姿そのものだった。端的な言葉だけで、どんな風に主人が最期を迎えたのか、ありありと想像できる。 「『あなたとの斬り合いに焦がれる狐を一匹、飼っておりましたよ』……」  俊一の最期の言葉を語る直澄の声に、俊一の声が重なって聞こえるような気がした。    ――散歩に出たきり、まだ帰ってきておりませんが、もしも生きているのなら、いずれ相見える機会もありましょう。その時は、どうか刀を合わせてやってはくださいませんか。見かけの割に狂暴なもので、野に放って人里を荒らさないかと、どうにも気掛かりなのです。  死の間際だというのに、きっと普段通りの柔らかな笑顔を浮かべていたのだろう。風がそよぐような、低く優しい声を覚えている。『狐』と苦笑いする主人の声の響きを思い出し、幻乃は静かに目を伏せた。 「……人を獣扱いしないでくださいと、何度も申しましたのに」

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