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第82話 春死なむ⑭

「実際、獣だろう。お前の主人は、お前のことをよく理解していた。妬けるくらいにな。……もっとも、刀を合わせたところで、狐は人里を荒らしたが」  力なく笑いながら、直澄は幻乃の上から体を退かす。何をする気かと見ていれば、壁に立て掛けてあった刀を鞘から抜き、刃の先端を手で持つと、くるりと刃を回して、無造作に柄を幻乃の眼前へと突きつけてきた。  幻乃のものでも直澄のものでもない、見覚えのない刀だ。何人斬ったのか、刃こぼれは酷いし、血と油も刃にこびりついている。それでも、人ひとりの命を奪うには十分だろう。  そっと跪いた直澄は、恭しくさえある動作で幻乃にそれを握らせると、凪いだ瞳で幻乃を見つめてきた。 「決着はついた。命が欲しくば、取っていけ。俺はお前の主人の仇で、お前のすべてを奪い、生き恥を晒すことを強いた敵だ。恨みを晴らしたければ、好きにしろ」 「は……?」  あまりのことに、怒りさえ湧いてこなかった。斬り合いの決着というなら敗けたのは幻乃だし、無抵抗に首を差し出す直澄をなぜ斬らねばならないのか。たっぷり数秒もの間絶句して、幻乃はようやく口を開いた。 「あなたは、藩主でしょう。戦はどうなったんですか。同盟軍は。新政府は。俺が言うことではありませんが、直澄さんはこんなところで命を落としていい方ではないでしょうに。何を馬鹿げたことを言っているんですか?」 「三条直澄は死んだ。もう、藩主ではない」 「……はあ?」  ならばお前は誰のつもりだとよっぽど詰ってやろうかと思ったけれど、直澄の顔には、こちらを揶揄っている気配もなければ、退く気配も窺えなかった。  そこでようやく、幻乃は直澄が意味していることを察して、唇を戦慄かせる。   「まさか、三条家を捨てると言うんですか?」 「人斬りが藩主でいられるものか」 「どうとでもごまかせたでしょう、そんなもの。夜の暗がりでの見間違いなり、混乱させるために敵方がでっち上げた言い掛かりなり……藩主が白と言えば白になる。そんなこと、分からないあなたではないでしょう……!」 「罪もない民を手に掛けた。同盟軍も切り捨てた。潮時だ。……俺は、周囲の心も命も、どうでもいい。藩主の立場が俺にとって有益だから利用していた。重荷になるから、捨てる。それだけだ。元々、廃藩に合わせて消えようと思っていた。平和な世には、護久のような者こそ相応しい。過去の主人など、いたところで邪魔になるだけだ。多少消える時期が早まったところで問題はない。命も――」  どうでもよさそうに言いながら、ぐ、と直澄は刃を己の首に押し当てた。 「もう、願いは叶った。生きることへの執着はない。お前が俺を斬ることを、妨げるものは何もない。やれ、幻乃」 「な……っ」  刃が直澄の首の皮を割く。赤い血がじわりと滲む。慌てて刀を引こうとしたけれど、刃は動かなかった。 「離せ……!」 「なぜ?」 「離せと言っているんです!」  柄だけを幻乃に握らせて、刃は自分の手で進めるなど、こんなもの、ほとんど自刃と変わりやしない。わけも分からないまま焦る幻乃とは裏腹に、何かを確かめるようにこちらを見てくる直澄の視線は、痛いくらいに真っ直ぐだった。 「お前を斬れないなら、せめてお前に斬られたい。幻乃」  ゆるりと瞳を細めるその表情を目にしてしまえば、もう耐えられなかった。乱暴に舌打ちした幻乃は、肩を蹴り飛ばすようにして直澄を押し倒し、直澄の手から刀を払い落とす。 「ふざけるな……!」    からん、と甲高い音を立てながら、刀が床に落ちていく。直澄の上に馬乗りになった幻乃は、肩で息をしながら、くしゃりと顔を歪めた。 「俺は……! 俺は斬れない! 斬りたくない!」    気付いた時には、悲鳴じみた怒鳴り声が溢れていた。

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