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第85話 春死なむ⑰※

 目の前の男が欲しくて、どうにかなりそうだった。見上げれば自分の鏡のように、欲望にぎらつく瞳が一心に幻乃を見つめている。それだけで、絶頂してしまいそうだった。  肌を重ねることにどれだけの意味があるのかなんて、分からない。けれど、言葉では間に合わないことだけは確かだった。体を這う手がまどろっこしく思えて、わざと肩の傷口を押すようにして直澄を押しのける。脱がせた袴の間から取り出した直澄のものは、すでに熱くそそり立っていた。  浮き出た血管を指でなぞりながら上目で見上げれば、直澄はもどかしげに肩を揺らす。そういう顔を見ると、嗜虐心をそそられてならない。  互いに座りもしないまま、隔てるもののない肌を触れ合わせる。たったそれだけで、ぴくりと揺れた性器の先端から雫が湧き出てくるのだから、笑いそうになった。    ずるずるともつれ込むように、ふたりして冷たい床に座り込む。体を高めるための行為さえじれったいと感じているのは、幻乃だけではないらしい。腿を撫で上げた直澄の手が、強引に幻乃の腿を割り開いていく。  乾いた指で後孔に触れて初めて、濡らすためのものがないことに気が付いたのか、育ちに似合わぬ品のない舌打ちが聞こえてきた。見たこともないほど余裕を失っている直澄に吹き出しそうになりながら、幻乃は剥ぎ取られたばかりの袴を足で探り、見つけた軟膏を投げ渡す。  まぐわいもろくに知らぬ童子かと揶揄ってやりたくなったけれど、開いた口から出たのは、直澄に負けず劣らず切羽詰まった声と、およそ正気とも思えぬ熱い吐息だけだった。 「さっさと……してくださいよ……っ、この、愚図……ぅ……あっ」 「本当に……、聞くに、耐えない……! 俺にそんな口を聞くのはお前くらいだ。昔も、今も……っ」 「気に入らないなら、塞いでみてはいかがです? ――んっ」    飽きずに口吸いを繰り返しては、互いの体をまさぐりあう。きしみとともに後孔へと埋め込まれた直澄の指が、性急にその場所を拡げようと忙しなく動いていた。  解されるのを待つのすらもどかしい。軟膏が塗り込まれるや否や、幻乃は直澄のものを片手で掴み、急かすように自らの尻へと押し当てた。    どちらのものかも分からない、荒い吐息が耳につく。飢えたような目をした直澄を見ると、余計に我慢が効かなくなった。  背を支える直澄の手に体を預けながら、幻乃は逸る心を宥めて、ゆっくりと腰を降ろしていく。ずぶずぶと埋め込まれていくものが、幻乃の体と心を、ともに満たしてくれる気がした。興奮にこぼれかけた唾液を、音を立てて幻乃は飲み下す。   「あ、……っん、直澄、さん」 「幻乃……っ!」  舌を出して誘えば、噛みつくような口付けを与えられた。思うがままに腰を揺らし、今にも弾けそうな己のものを直澄にすり付けると、足が震えるほどの快楽を感じる。わざと締め付けるたび、歪む直澄の表情がたまらなかった。 「は、いい顔、ですね」 「お前は……っ」  引きつった顔をした直澄を、止める間もなかった。腰を強く掴まれたかと思えば、直澄はそのまま幻乃の体を抱え上げ、力任せに立ち上がる。 「……う、わっ」  背を叩きつけられるように、体を壁に押し付けられる。慌てて直澄の首に手を回せば、直澄はその大きな手のひらで、幻乃の背と尻をしっかりと支えてくれた。 「馬、っ鹿じゃないんですか……っ、こんな……、ひっ!」 「馬鹿で結構。お前は、自由にさせると……ろくなことをしない!」 「腕! 俺は、殺す気で刺したんですよ……!」 「十年前から背も伸びていないような狐一匹、片腕だけで事足りる!」 「はあ? ……くそっ」  揺れる足が心許なくて、両足を直澄の体に絡めると、交わりが一気に深くなった。ぞわりと下肢に走った甘い感覚に、幻乃はたまらず声を上げる。 「あ、深……んっ! あぁ……、うっ、ひあっ」 「は……っ」  主導権は完全に直澄の手にあって、幻乃にできることといえばただ、突き上げられるたびに走る快楽に啼くことだけだった。蕩けきっただらしのない声が、飲み込みきれない唾液とともに勝手にこぼれていく。己の媚びた掠れ声を恥じる間もなく、耳元で直澄が、笑い声なのか喘ぎ声なのかも分からぬ甘やかな声をこぼすものだから、聞いているだけで達してしまいそうだった。 「幻、乃。幻乃……! 俺は、お前が欲しかった。きっと、ずっと、欲しかった……ん……っ、は、あは……、はっ」  笑いたいのか泣きたいのかも分からぬような見るに耐えない顔をして、直澄は幻乃を見つめていた。その目で焦がれるように見られると、身も心も疼いてたまらなくなる。  直澄の隻眼は潤んでいた。興奮のせいなのだろうと思ったけれど、瞬きをした次の瞬間、赤く染まった目の縁から、一筋の涙がこぼれ落ちていく。    あ、と思った。  こちらを刺すような鋭い視線。恥じることもせずに流される涙と、潰れて開かない左目。  クナイを見せると反射のように緊張感を纏わせる、おかしな態度。まるで誰かの言葉をなぞるように投げかけられた、刺々しい言葉の数々。  適当に遊んで逃してやろうと思ったのに、切っても切ってもしつこく追い縋ってきたあの執念。  どれもこれも、覚えがある。 「あは……、はははは!」  思い出した瞬間、笑いが止まらなくなる。  恨まれているのも当然だった。   「ああ……戦場で泣く馬鹿なガキが、いましたね。あの日は虫の居所が悪くて、痛ぶってやった覚えがあります。……なるほど、たしかに十年前だ。立派に育ちすぎて、ちっとも気づきませんでした」  直澄がかすかに目を見開いた。その瞳の淵から流れ落ちる涙を舌で舐め取って、幻乃は笑う。 「あのお子さまが、よくもここまで強くなったものだ。あの時殺し損ねて、本当に良かった……! そうは思いませんか、直澄さん」  額を合わせて微笑みかければ、ぷつりと理性を切らしたかのように、直澄の瞳孔が広がる瞬間が見て取れた。

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