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戀する痛み 13
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おかしい・・・。
ここ数日前から、明らかにおかしい。
決まっていた手術がキャンセルになり、転院していく患者が出てきていた。
もちろん、ちゃんとしたセカンドオピニオンとか、止(や)むを得ない事情で転院するのは構わないが、患者自身がよくわかっていない様子のまま、何かに急かされるように転院していく。
部下に何か聞いているか確認しても、特に聞いていないと、誰もが口を揃えて言う。
こんなことは今までなかったし、通常有り得ないことだ。
何が起きているのか全くわからない薫が、不安そうに顔を曇らせて病院を出る前にオレの部屋まで訪ねてきていた。
他に誰もいないことを確認すると、安心したように肩の力を抜いて、机に座ったままのオレの前まで、小走りに近づいてくる。
小動物のようなその動作が面白くて、可愛くて、思わずくすくす微笑(わら)ってしまっていた。
ここんところずっと・・・神経が張り詰めて緊張状態にあったから、薫のこういう所に触れられて、ものすごく肩の力が抜けて、泣きそうに安堵(あんど)している。
薫はオレが笑っているので、ちょっとほっとしたようにはにかんで、直後に眉根にシワを寄せて不安そうに口唇を引き結んだ。
オレは椅子から立ち上がると、柔らかくて細い、緩いパーマのかかったふわふわの髪をそっと、撫ぜた。
「どうした?もう仕事終わったんだろ?」
余計な心配や不安を与えたくなくて、オレはいつもの声色でいつもの調子で話しかけた。
「はい・・・もう帰るところなんですが・・・大丈夫ですか?」
大きな瞳に不安の色が濃く影を落としている。
その瞳に口吻けて舌を重ねて這わせたいと思ってしまう。その欲望をぐっと抑え込んで、オレは薫の頭をポンポンと軽く撫ぜる。
「大丈夫。薫が気に・・・いや、心配してくれてありがとう」
「そんな・・・!ボクが心配したってしょうがないんですけど・・・」
「ありがとう。大丈夫だから、早く帰りなさい。早く帰れる時はちゃんと帰って休んでくれ」
薫はまだ何かを言いたそうに、視線を泳がせて、口を開いては閉じるを繰り返す。
明らかにオレに何か話したそうな素振(そぶ)り。
オレはそれを今回の転院の件だと思い込んでしまっていた。
オレは薫が心配性なのを思い出して、安心させるために、白い肌に覆われた小さな額に、そっと、触れるだけのキスをした。
「大丈夫だから。おやすみなさい」
「・・・・・・・・・おやすみなさい」
薫は何かを諦めたように息をつくと、オレを見上げて微笑んだ。
オレに対しては警戒心のない、無邪気な可愛い笑顔を向けてくれる。
この時もっと薫の変化に気づけば良かったと。
もっと薫が何を言おうとしていたのかを、追求して聞けば良かったと、激しく後悔することになった。
でも、この時のオレはそんなこと全く気づかなくて、薫の優しさに甘えたままだった。
薫の小さな綺麗な背中を見送ってから、オレは机に残されたままの書類を手に取る。
目を通して決裁の判を押したり、注釈を書いたりしている内に、日付が変わりそうな時間になってしまったので、ある程度の書類を片付けてから、帰り支度をした。
ほとんどが転院する患者の紹介状に添付する書類なので、明日処理をしても問題はないと判断して、オレは車を運転して自宅へ帰っていった。
荷物を置いてさっとシャワーを浴び、髪を拭きながらソファに座ったところで携帯電話が鳴った。
病院用ではなく、プライベートのほうだったので、思わず薫からの電話かと期待して慌てて携帯を手に取った。
表示されていた番号は、あいつだった。
オレは思いっきり顔が歪むのを自覚しながら、聞きたいこともあったし言いたいこともあったので、仕方なく通話状態にした。
「もしもし」
『先方から話しを進めて欲しいと連絡があった』
「はあ?」
『このまま進めるからな』
挨拶もせず名乗りもせずに、言いたいことだけを言ってくる。
例によって例の如(ごと)く、くそ親父だ。
いい加減慣れてしまっている自分が憐(あわ)れになる。
おまけに内容はオレが断ったはずの見合い話しだ。
オレは盛大な溜息をわざと聴かせてから、電話の向こうのくそ親父に声を荒げた。
「断ってくれと言ったはずだ!オレは彼女と結婚できない!」
『駄々をこねるな』
「違う!オレは彼女を愛せないし大切にできない。そんなのお互い不幸になるだけだ」
『青臭いことを・・・』
そう言うと親父は電話の向こうで深い溜息をついた。
耳障りな、呼吸音。
鼓膜も脳も、ざらりとした不快感。
溜息つきたいのはこっちなんだがな。
『お前は跡取りなんだぞ。早く身を固めて子供を作れ』
いつもの戯言(ざれごと)を聞かされて、オレは深く息を吐き出しながら、髪を拭いていたタオルを床に叩きつけるように投げ捨てた。
「跡取りなんかになった覚えはない。アンタの家なんか継ぐわけないだろう」
『お前の意思なんか関係ないということくらい、わかってるだろう』
「・・・っ!最近の転院の件も、アンタが・・・手を回してんだろう?」
『当然だ』
悪びれるでもなく、あっさりと認める。
こいつはオレに思い知らせたいんだ。
オレがこいつの息子で、支配下にいるという事を。
自分に楯突(たてつ)いたら医師として働くことなんかできなくなるという事を。
そんなことは嫌と言うほど思い知らされている。
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