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戀する痛み 15
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最低最悪な日だった・・・。
ボクは冷たい風が吹く夜の街を、駅に向かって歩いていた。
寒がりなボクは腰くらいまであるネイビー色のダウンコートを着て、足元はスネまである黒いブーツを履いて、白い息を吐きながら溜息をついた。
かじかみそうな手はポケットに入れて、今日やらかしたことを思い出して、また盛大な溜息を吐き出した。
最近は理事長のせいで患者様が転院する事態が相次いでいたけれども、それでも悠貴さんでしかできない手術、他の人でもできるけど難しくてあまりやりたくない手術が回ってきて、以前ほどではないが忙しい日々を過ごしていた。
理事長も一応医師なので、命に関わるような状況や、緊急を要する場合には横槍を入れてくるようなことはなかった。
まあ、理事長てきにはちょっとした嫌がらせ程度のつもりだからだろう。
徹底的に潰そうと思っている状態だったら、こんな生温(なまぬる)い方法なんかじゃなく、もっと直接的に仕掛けてくる。
あの人はそういう人だ。
そんな中で今日は先日入院した患者様の手術があった。
そろそろ手術助手の仕事も覚えたほうが良いと、部長である悠貴さんが判断して、ボクを含めて数人いる研修医がまずは見学からさせてもらえることになった。
今までは手術室を上から見れる別室にいて見ていたので、初めて間近で見れることに興奮していたし、倒れたりしないか不安もあったりした。
めちゃくちゃ緊張したまま悠貴さんの後について手術室に入って。
今まで別部屋から見ていた景色が目の前に広がっている。
思ったよりも手術台が小さく感じたし、心電図とか人工呼吸器とかが、決められた位置に整然と並べられているのを見て、なんか感動してしまった。
同時にこれから手術が始まるんだって実感して、少し怯(おび)えて大いに緊張して心がそわそわしてしまう。
心を落ち着かせようと、思わず悠貴さんの姿を探してしまう。
ぐるっと手術室を見回して、悠貴さんは少し離れたところで手術担当の看護師さんと話しをしているのが見えて、それだけで心が少し落ち着くのがわかった。
小さく息を吐き出して、ボクは手術台に寝ている患者様へと視線を固定させた。
手術着に着替えていて、麻酔医の先生が話しかけながら、神業の素早さで麻酔を打っているのを見えた。
そういえば麻酔を打たれた患者様がどういう状態で眠りに落ちるのか、間近で見たことないな・・・見たいな。
ボクは麻酔を打っている状況を近くで見てみたいと思い、思わずそっと近づいてしまって・・・これが良くなかった。
麻酔の先生が仕事が早い人だったので、ボクが近づいた時には既に仕事を終えており、心電図を見ようと顔が振り返って。
急に振り返った事にびっくりしてしまって、慌てて避けようと、一歩体を横に移動して。
ガッシャン・・・!!!
カラカラ・・・
派手な音を立てて、手術用のメスやら鉗子(かんし)やらを、ひっくり返してしまった。
看護師さんが準備してくれた、消毒済みの器具を、全部ひっくり返した。
絶対にやってはいけない、あってはいけないミス。
全身の血が凍るのを感じた。
やっちゃった・・・!!!
バカバカバカバカバカ!!!!
「すみません!!」
脊髄反射で叫んでボクは思わずしゃがんで器具を拾おうとした。瞬間。
「花織」
悠貴さんの声が響く。いつもの優しい口調とは全然違う、厳しい冷たい声。
しゃがみこもうとした体が、固まった。
そんなボクに、悠貴さんは容赦(ようしゃ)なく言い放った。
「出て行け」
慄(おのの)きながら、硬直した体を無理に動かして悠貴さんを振り返る。
自分が泣きそうな顔をしていることはわかっていたけれども、取り繕(つくろ)うこともできないくらい、ボクは動揺していた。
悠貴さんは凛と佇(たたず)んだまま、少し呆れたように息をついて、動けないでいるボクにもう一度言った。
「出ろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい。申し訳御座いません」
絞り出すように、震えた声でやっと言えた。
何をどう言っても、この状況は無理だ。
手術は時間との勝負なのに、新しい消毒された器具を用意しなきゃいけない手間と、ただでさえ忙しい看護師さんの手間を増やしてしまったこの状況は。
最悪。
この一言しかない。
ボクは泣きそうになっている心を押し込めて、悠貴さんを始め、手術室にいる人全員に頭を下げて、出口から出て手術室を後にした。
後ろで手術室の自動ドアが閉まる音がする。
完全に隔絶(かくぜつ)される。
手につけていた手術用の手袋を取り、ヘアキャップとマスクを取って、専用のゴミ箱に捨てると、ボクは手を洗いながら大きく息を吐き出した。
絶対にやっちゃいけない、あり得ないミスを犯した自分に幻滅(げんめつ)していた。
ボクは誰にも会いたくない話したくない気持ちを抱えて、医局に戻る。緊急時のために残っていたベテランの先生が、おにぎりを食べながら顔だけこちらに向けた。
「あれ?どうした?」
「あ・・・やらかしてしまって・・・」
「そうか」
先生はそれだけ言うと、またおにぎりを齧(かじ)った。
悠貴さんの右腕とも言われている先生は、悠貴さんがこの病院に配属されてから、ずっと一緒に仕事をしているらしい。
悠貴さんの一年後輩で、仕事の面でも精神面でも悠貴さんを支えてくれた人だと、悠貴さんから聞いたことがある。
彼がいなかったらオレはこうやって前線に立っていることはなかったと、そう言っていた。
この先生は自分で手術をすることは嫌いで、悠貴さんと一緒に術式を考えたり、患者様や研修医のケアをしたり、悠貴さんの愚痴を聞いたり叱り飛ばしするほうが好きだと言って、悠貴さんができない部分を担(にな)ってくれている。
それでも知識や経験は豊富なので、急病の患者様が発生した時なんかは、誰よりも早く状態を確認して、病巣を探し出すから、こうやって一人で留守を任されることが多い。
口をもぐもぐさせておにぎりを食べているところみていると、とてもそうは見えないんだけどね・・・。
少しだけ心がほっとしたのを感じていると、先生はかけていた黒縁のメガネを、人差し指でくいっと上げて微笑む。
「ま〜失敗なんて今しかできないから、どんどんやっとけ」
「・・・・・・・・・手術器具ひっくり返しました」
「あるある、オレもやったわ〜。オレなんて去年やらかして、部長にめちゃくちゃ怒られた・・・・・・」
「え・・・・・・去年・・・・・・」
ボクは先生と会話しながら自分の席に座って、パソコンを立ち上げたところで、衝撃的な言葉にびっくりしてしまった。
去年なんて・・・全然最近じゃん・・・。
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