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戀する痛み 16
「そう去年。ちょっと難しい患者さんがいてさ、間近で状態を確認しながら手術したほうがいいってなって。んで、めっちゃ久しぶりに手術室入ったら、速攻でひっくり返した!あの時の羽屋総の鬼の形相・・・見せたかった・・・花織はまだ研修医なんだから、全然大丈夫!」
「あ・・・ありがとうございます」
こんなベテランでも、ひっくり返すのか・・・そうか・・・やっちゃうのか・・・。
なんかそう言われてしまったら、大丈夫な気がしてきた。
たしかにまだ研修医だからこそ、失敗できるんだろうな。
もちろん生死に関わる失敗はダメだけど、器具をひっくり返すのもダメなんだけど、研修医だからまだ許される気がしてきた。
先生の優しい言葉に感謝しながら、ボクは日誌を書いていく。前半は普通に書いていったけど、後半はほぼ反省文になってしまった。
もう謝ることしかできない・・・しょうがないんだけど。
かといって謝罪なしで終わらせることなんかできない。
ボクは情けなさに、不甲斐(ふがい)なさに泣きそうになりながら日誌を書き上げて、明日の仕事の確認や患者様のカルテを整理したりして、手術が終わるのを待っていた。
入院している患者様の巡回をしたり、看護師と治療に関して話していたりしたが、予定時間をすぎても手術が終わることがなかった。
もしかしたら何かトラブルがあったのかもしれない・・・。
もしかしてボクのせいで・・・。
そんなことを考えてしまって、やきもきしていても、終わる気配がなく、勤務時間が終了してしまったが、帰る気にはなれなくて、終わるのを待っていた。
太陽が落ちて窓の外が暗くなっていくのを横目で見ていたら、不意に医局の電話が鳴ったので急いで取ろうとしたら、先に先生に取られてしまった。
「はい・・・はい・・・承知しました」
先生はそれだけ言うと電話を切ってしまい、ボクをさっと振り返ってにっこりと微笑んだ。
「まだ終わらないから先に帰っていいって」
「え・・・でも・・・・・・」
ここで本当に帰るのもどうかと思うし・・・。
でも悠貴さんがそう言ってるなら、上長命令だから従ったほうがいいけど・・・。
ボクが戸惑っていると、先生はあっけらかんとした態度で、
「大丈夫、大丈夫。今日は早く帰ってゆっくり休みなよ。明日からまた頑張ってもらわなきゃいけないんだから」
「でも・・・」
「羽屋総も説教は明日するから、今日は帰って体力温存しろって」
「う・・・」
そう言われてしまうと・・・帰りたくなる・・・。
明日めちゃくちゃ怒られることを考えたら・・・帰りたい。
そう思ってしまったボクは、言われた通りに荷物を抱えて挨拶を済ませて病院を出た。
あっと言う間に暗くなってしまった帰り道を歩きながら、光り輝く半月を見上げる。月はいつ見ても清廉(せいれん)で美しくて、自分の醜さを思うと、羨(うらや)ましくて憎らしくて、泣きそうになる。
こういう・・・逃げちゃう性格直さなきゃって思ってるのに・・・。
今日だって本当は残って怒られなきゃいけないのに。悠貴さんが甘やかしてくれて、それに全力で乗っかって。
わかってるのに。わかっててそれを利用してる・・・。
最低だ。
いつも以上に重く感じる、肩にかかった荷物を引き上げる。
その時、後ろから車が近づいてくる音がしたので、ボクは軽く振り返って、体を道の端に避けた。
ぴかぴかに磨きあげられた車体が月の光を反射しながら、外車特有の大きな車がすーっと近づいて、ボクの横でピタっと止まった。
「・・・っ」
嫌な予感しかしない。
この車・・・もしかして・・・。
運転席のドアが開いてスーツを着た運転手が降りてくる。表情ひとつ崩さない鉄面皮がツカツカと歩いて、ボクの方へ歩いてくると、真っ白な手袋をはめた手で後部座席のドアを開けた。
恭しくお辞儀をする様子を眺めて、深い溜息をついた。
その時。
「乗りたまえ」
予想していた通りの、低くて冷徹な声が、車の中から聞こえてきた。
今日は本当に最悪だ。
厄日なのかな・・・。
*
ああ〜〜〜嫌だ嫌だ。
絶対にろくな話しじゃない。
ましてやこんな最悪な気分の時に。
なんでこの人の相手をしなきゃいけないの?!
それでも勤めている病院の理事長だから。
悠貴さんの父親だから。
無視するわけにもいかない。
ボクは仕方なく、本当に致し方なく、渋々車に乗り込んで、隣に座っている仏頂面(ぶっちょうづら)の理事長よりも、更に不機嫌な顔をして、イライラしていた。
ボクが車に乗り込んだのを確認して、運転手さんは見事な技術で、一切揺れる事なく車を発進させた。
車内は無言が満ちていた。
理事長の顔を見たくなくて、ボクは窓の外に顔を向けて、ビルの隙間から見える月を追いかけていた。
車内は暖房で暖められていたが、冷たい空気に満ちていた。
そろそろ何か話して欲しいと思った時、理事長の冷たい低い声が響いた。
「別れる決心はついたか?」
やっぱり、その話しか。
ボクは心の底からの溜息をつきたいのをぐっと堪(こら)えて。鼻から息を吐き出して。
視界に入れたくもない理事長のほうを、振り向いた。
「何度言われても、別れるつもりはありません」
「ふっ・・・」
鼻で軽く嗤(わら)われる。
その余裕しゃくしゃくな物言いにも、イライラする。
いつもだったらビクビクと怯えるボクだけど、今は極限まで機嫌が悪い。
自分のせいなんだけど、でもそれを反省してじっくりと自分の中で落とし込もうとしていた矢先に現れたから、理事長の言動の全部が全部鼻について、神経を逆撫(さかな)でされて仕方ない。
そんな状態だったから、いつものボクだったらとてもじゃないけれども言えないようなことが、口をついて出てきてしまっていた。
「・・・ずいぶんと古典的な汚いやり方しますね。無理矢理お見合いさせたり、噂流したり」
知らずにきつく睨(にら)んでいたボクを、理事長は横目で見て、口角だけ上げて鼻で嗤(わら)う。
「古典的だが効果的だろう。人間というのは噂話が大好きだからな」
「・・・・・・っ!病院を・・・病院を継ぐだけだったら、悠貴さんじゃなくても・・・娘さんがお婿さんもらうんでもいいんじゃないですか?!」
「継ぐだけならな。だが問題はそこではない」
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