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「神楽井 くん。君はどうして自分の好きなものの企画を提案しないんだ」
「……はい?」
「神楽井くんは本当にファッションが好きなのか?」
「ええと……」
「残念だけど、熱意のない記事には読者の心を動かす力はないよ」
「…………はい」
プレゼン後、上司に呼び出された一部始終が脳裏に甦 る。
会議室で吊るしあげられるような職場でなかったのが、せめてもの救いといえるのだろうか。
けれど、あの時注がれていた視線が企画への興味関心などではなく、呆れた眼差しであったならば。いや、間違いなく呆れられていたのだ。
そう分かってしまった時、神楽井 直緒 は羞恥 の濁流 へとのみこまれた。
そもそも、直緒はスポーツ誌を希望していた。
にも関わらず、どういうわけか人気の高いファッション誌に配属されたのだ。
異議申し立てするような勇気もとんと湧いてこないまま、あれよあれよと社会人二度目の夏を迎えてしまっている。
◇◇◇
飛び乗った終電には直緒と同じように、残業から解放されたであろうサラリーマンが数人、はしの方の席で眠りに落ちていた。
ファッションが好きかって? もはや嫌いになりそうだよ!
直緒はスマホの画面を無表情に高速でタップした。
腹の底では沸騰寸前の苛立ちをグツグツと煮込みながら、散々つづりたおした愚痴を勢いのままに送信しようとした。
直緒の手は、すんでのところで硬直する。
ふと、絵を描くことに没頭する晶 の横顔が浮かんだ。
筆が水を浴びる。バケツと柄が重なる軽やかな音。
紙の上では、色彩の全てが晶の言うことをきく。
子供のような無邪気さが、ぴかぴかに磨かれた技術に裏づけられる。
その時ばかりは直緒でさえ、晶の綺麗な横顔を覗き見ることしかできなくなってしまう。
絵を描く晶を、何者も邪魔をしてはいけないから。
晶に甘えたい気持ちに蓋をするしかないと思った。結局、メッセージは送らなかった。
直緒は寝落ちするサラリーマンたちに奇妙な親近感を覚えながら、このまま彼らのように眠ってしまおうと思った。
ガタ、ゴト。ガタ、ゴト。車内には列車の走行音が無機質に鳴り渡る。
冷房の風が心地よく、直緒の火照った体に染みこんだ。逃れようのない睡魔が直緒を襲う。
――直緒の手の内で、スマホが電子音を発した。
その瞬間、まどろんだ意識は完全に覚醒した。
開きっぱなしだったトーク画面に、かじりつくように目を見張る。
『準備して待ってるから早く帰ってきて』
「え、え?! は、はぁ……!」
直緒の全身が歓喜に騒ぎ立った。血管は広がり、頭のてっぺんからつま先まで、ありえない勢いで血液が駆け回った。
もうすぐ帰るとか、久しぶりに話したいとか、進捗どう? とか、無理してないかとか、有り余るくらい伝えたいことは沢山あるのに、いざ文にしようとすると何もまとまらない。
感極 まって動作が大きくなった直緒の手は、スマホをほとんど落としかけた。
「わ、危な……」
手から滑り落ちたスマホを雑に掴みなおすと、メッセージの送受信を知らせる音が鳴る。
直緒はイヤな予感がした。
画面に目を戻すと、やたらと幅をとる吹き出しが増えていた。
「あぁーー!!」
間違えて送った……!
思わず叫んだ。がらんどうの車内に直緒の叫びが騒々しく響く。
あまりにも大声を出してしまったことに、自分でも驚いた。直緒は気もそぞろに辺りを見回してみる。
向かいの席で眠っていた中年サラリーマンが、ピクリと肩を揺らした。けれど、それきり顔をあげる気配はなかった。
サラリーマンの後方に大きく広がる車窓 は、夜の青に染まっていた。
夜闇に沈んだ明かりのない住宅街が右から左へとながれてゆく。追い越してゆく。ガタ、ゴト。列車が揺れる。
直緒は言い訳したい気持ちが暴れ回るのを鎮 めながら、メッセージの取り消しを実行した。
『あ消した』
間髪入れず、晶からメッセージが届く。
『でも秒でスクショしたから』
「げっ……!」
直緒は小さく悲鳴をあげた。
『読まないでください。』
と、お願いしてみる。
『ばかあほまぬけ』
『ひどい』
『俺が抱いていいなら読まずに消してあげる』
「えぇ…………」
『ダメ』
『つまんねー』
つまんないって………。俺に抱かれるのがつまらないって意味だったら、どうしよう。
『まあ。とりあえず寄り道しないでね』
『もうすぐ帰るよ』
これを最後に既読はつかなかった。
晶とメッセージのラリーが続いたのは久しぶりだった。
直緒はうざったくのびた前髪を手荒くかきあげ、冷静に、考えを巡らせてみる。
締め切りが明日に迫って制作中の晶が、スマホにうつつを抜かすことは考えずらい。
『準備』といえば、思い当たることは一つしかなかった。
晶が抱かれる準備をして家で待っているに違いない。
そんな可愛いことがあっていいのか?
あるんだな、これが。あるんだよ!
「ふふ……。ふはは、ふははは!」
直緒は愉快な気分が抑えられず、笑い声をあげた。
この車両で眠っていないのは直緒だけであった。
明日も六時起きだし仕事がある。けれど、そんなのは全然理由にならないほど、また今度なんて考えは浮かばなかった。
直緒は浮き足立って帰路についたのだった。
◇◇◇
「ただいまー!」
暑い外気にさらされ火照 っていた体は、部屋に入ると冷房の涼しい空気に包まれた。
家は横並びの2DKで、玄関を開けるとすぐにダイニングがある。
脱ぎ捨てたままの白いワイシャツや、晶のTシャツ、中身が微妙に残ったペットボトルや、通販のダンボールその他諸々が床に散乱していた。
掃除をする余裕がないのだ。そして、顔をあわせて言葉を交わすタイミングもなかった。
ダイニングの右側が晶の自室になっている。
冷房の空気を取り込むために部屋の扉は全開だった。奥からカタリと物音が聞こえる。
それは筆や鉛筆が重なる音だと直緒には分かった。
おそるおそる、部屋を覗いた。
ちゃぶ台に向かい、あぐらをかいて筆を走らせる晶の姿があった。集中しているようで、こちらには見向きもしない。
床には所狭しと、乾かされている絵が並んでいた。足を踏み入れるには空気が重かった。
その絵をよく見れば、全て羽化をする蝉を描いたものだった。
水彩絵の具の淡い色彩が、羽化したばかりのエメラルドグリーンの羽を綺麗に描いている。
「待て。キリのいいところまで描くから」
晶は筆洗 のバケツに筆を突っ込み、カタカタと絵の具を洗い落としながら言った。
「あ、うん……。てっきり、もう完成したのかと」
晶の返事はなかった。
完成するどころか、何枚も同じ絵を描いている晶は、ゆきづまっているとしか思えなかった。
晶はパレットに運ぼうとした筆を置き、その瞳に直緒の姿を映した。
「おかえり、直緒」
「ただいま……」
晶にまっすぐ見つめられて、全て見透かされているような感覚に陥 った。
あのメッセージの内容は、やはり晶に知られたくないことばかりであった。一時の感情に流されて、失態を犯してしまったかもしれない。
晶は読んだのだろうか? もし『読んだ』と言われたら、それはとても恐いことだと思った。
直緒がうだうだ考え込む間にも晶は立ち上がると、絵と絵の隙間を縫うように歩いてきて直緒の目の前にまで迫っていた。
「直緒、ハグがしたい」
「…………俺も」
直緒はそう答えて、両手を広げる晶を抱きよせた。
晶の体温が腕の中で温かく広がる。
首元にうずまった後頭部を優しく撫でると、晶の柔らかい黒髪が指の間からするするとこぼれ落ちた。
直緒に抱きつく晶の腕が、わずかにこわばるのを感じた。
「晶」
呼びかけに呼応した晶が顔を向ける。
氷のように鋭い目が、優しく弓なりにほほ笑んだ。
直緒の体の芯の部分が熱くたぎる。
晶の白い輪郭を右手で覆うと、なんの迷いもなく唇を重ねていた。
けれど直緒の欲望に反して、晶は唇が触れ合ったその先を求めようとはしなかった。
直緒は焦りの色を露 わに、離れようとした晶の身を強く引き戻した。
ゆるやかに抵抗を示す晶の顎に掴みかかり、無理矢理開かせた口の中に自身の舌を差し入れる。
「んっ……」
晶は静かに目を閉じると、直緒の舌を受け入れた。
甘い。さっきまで何か食べていたのだろうか。直緒はふと、冷蔵庫のプリンを思い出した。いや。それともアイスか?
直緒は晶の舌を味わうように深く触れ合おうとした。
けれど、晶のそれは逃げようとする。
「はぁ……んっ……あふ……」
晶はまるでそんな経験なんてないような、ぎこちない息継ぎをして、直緒の背中をぱたぱたと叩いた。
それの意味する所を直緒は知っていたが、止まる気になんてなれなかった。
晶が行為にのり気じゃない時に示す反応だった。
無理に逃げようとするから余計に舌が動き回って、息継ぎが下手くそになってしまう。
晶のそんな反応が、直緒はお気に入りだった。扇情 をこの上なく煽 られる。
晶に絵を描くことを投げださせて、奪ってしまおう。
画材や描きかけの絵が視界によぎる。このまま強引に襲ってしまいたくなった。
直緒は晶の腰を抱き寄せ、自身の熱くなった下半身を密着させた。
「んんっ……!」
晶は口を塞がれ、声を上ずらせた。肩がわずかに震え、反応をみせる。
あまり身長差のない二人が身を寄せると、互いの性器が服越しに擦れ合った。
晶のそれも、たしかに反応を示していた。
あぁ、興奮する……。
直緒の欲情は一段と増した。腰を掴んでいた手を更に下へとすべり落とし――
直緒の頭皮に痛みが走る。
後方に髪の毛が引っ張られて、否応 なしに顔が天井を向いた。
「いっ、たぁ!」
「バカ野郎!!」
晶は眉をつり上げて声を荒らげた。充血した瞳と、ほの赤い頬が可愛いらしい。
「へ………? だって、今日は」
「あのなぁ。俺はするなんて一言も言ってないぞ」
その言葉に直緒は、メッセージの文面や晶の言動を丁寧に思い起こしてみる。
「ほ、ほんとだぁ……」
「んじゃ。そういうわけだから」
晶はそう吐き捨てると、踵 を返して部屋へと戻ってゆく。
「え」
そして、床に落ちていた麦わら帽子を引っ掴んでまた戻ってきた。
「はい、被って」
「え?」
晶は直緒の頭に麦わら帽子を乗せると、もう一度部屋に戻って、リュックサックを背負い、自身も麦わら帽子を被った。
「準備万端だな」
晶は片眉をつり上げ、もう片眉は下げ、口の端はほくそ笑み、器用なドヤ顔をきめた。
「一体、なんの準備が整ったんだ……?」
「あ? 蝉の羽化を見に行く準備だ」
「………今から?」
「今しかねぇんだよ」
海の底のような静寂をたたえていた窓の外から、蝉の鳴き声がジィージィーと響いた。
まるで晶の言葉を聞いていたかのようなタイミングだった。
こんな時間でも鳴くんだな。
時刻は午前一時を少し過ぎた頃であった。
「勃っちゃったんだけど」
直緒がそう言うと晶は視線を下げ、鼻で笑った。
「ばーか。まあ、夜中だしな。見られるほど人もいないだろ」
「ひ、ひどい」
晶は直緒の非難を無視してさっさと玄関の方へと歩きだした。
「はやく行こ!」
振り返った晶が満面の笑顔を輝かせる。
その笑顔に堕ちて、八度目の夏が果てようとしていた。
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