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第1話 ランチはイェーガーシュニッツェル

梅雨の足音が聞こえてきそうな6月の金曜日、おれは東京を離れ、中学・高校の6年間を過ごした地方都市に引越した。 通っていた学校は、各種のスポーツにおいて強豪として名高い私立の中高一貫校で、おれは棒高跳びを主種目とした陸上選手として遠方からの推薦入学だった。 自分を含むスポーツ特待生は大半が県外出身者。完全寮生活と多忙なトレーニングで自由時間など皆無で、学校外のことはほとんど知らないまま、東京にある付属の大学にエスカレーターで進学した。 それ以来、この土地を訪れる機会は無かった。 それゆえ、”戻ってきた” という感覚にはイマイチなれないものの、転職活動中に見かけた古知の地名に、親近感のような、なにか惹かれるものがあったのは確かだった。 独身男の荷物量なんてたかが知れたもので、引越し業者は昼前には引き上げていった。 あとは細々とした小物が入った段ボールが数個と書籍類が残っているだけだ。 ざっと掃除機をかけてから財布と携帯だけをポケットに入れて、愛車のロードバイクを部屋から出す。 寝床と仕事道具さえ出しておけば月曜の出社には困らないから、残りは暇を見つけて、ぼちぼち片付ければいい。 なにしろまだ金曜日だし、せっかくの有給を部屋の片付けだけで潰すのは惜しい。 学生時代に友人に進められてロードバイクを始めてからそろそろ10年。ポタリングからキャンプまで、今では欠かせない相棒だ。 今までは都内の狭い賃貸で、自転車はベランダが定位置だったが、新居にはガレージのように使える自転車専用の部屋を用意した。これから天候や夜間を問わず、好きな時に自転車いじりができる。タイヤの種類を交換したり、微妙な位置調整なんかも。 2LDKのマンションに一人暮らしなんてやや贅沢だろうけど、おれも今年で30歳で、そろそろ 寝に帰るだけの部屋を卒業し、プライベートな時間も大切にしたい。 ロードバイクを片手で担ぎ、自室のある3階から1階まで階段を使う。さほど広くないエレベーターに自転車を乗せるのは気が引けるから、部屋選びの際に階段が使える階数を選んでおいた。建物自体は12階建てで、最上階にも空き部屋が出る予定とのことだったがさすがに12階を階段で上り下りするのはつらい。見晴らしの良さに、かなり後ろ髪を惹かれたが。 外階段からマンションのエントランス前に出て愛車に跨り、スマートフォンをホルダーに固定する。MAPアプリには会社の住所を目的地として設定してある。 週明けからは、念願の自転車通勤。 息の詰まるような——実際に詰まって倒れる人もいる——満員電車とは、もうこの引っ越しで縁を切った。 アプリが表示する最短ルートによると会社までは自転車で約15分。とりあえず指示に沿って漕ぎ出す。 自宅マンションがある住宅街を抜け、東西に伸びる大きな街道に出る。それを西に向かって直進すると、10分足らずで駅周辺まで到着した。 街道には自転車専用レーンがあり、上手くスピードに乗ることができたが、出勤時は渋滞に備えたルートも探しておいたほうがいい。経験上、ラッシュ時の自転車専用レーンはバスや停車中の車でふさがっていることが多い。 この街は駅を中心としたドーナツ上に計画されているらしく、駅を取り囲むように高層の商業施設群があり、その外周に中層のビルが立ち並ぶ。 さらに外側になるにつれマンションが混ざり始め、円の一番外側は一軒家の多い住宅街となっている。 夜に上空から街を見下ろしたなら、雨が降る前の晩の月みたいな、ぼんやりした輪になっていることだろう。 そういうわけで、今回の新居を決める時には、会社から円の外側となる住宅街側に直線を伸ばした辺りに目星をつけた。 自転車通勤は居宅と駅までの距離に縛られないから、家賃面でも住環境でもメリットがある。 そのまま社屋周辺をぐるりと回って自転車置場を確認する。屋根付きで、かつ車輪止めがあるためアースロックが掛けられて安心だ。 帰りは、来た時に通った街道ではなく、MAPアプリを徒歩設定に変えて出てきた経路を試してみようと、そのまま社屋裏手の小道でペダルを家方向へ進めた。渋滞対策でもある。それに、自転車の場合、徒歩経路のほうが交通量が少なくて走り易く、結果的に早く到着することがよくある。 ただ、徒歩設定だと階段や歩道橋が出てきてしまうから下調べは必要だ。 どうやら、こちらの経路の方が正解だったようだ。道は細いが、車通りが少なくて大変に漕ぎやすい。 特に急ぐわけでもないからポタリングを兼ねてのんびりと漕いでいると、突然、目先の空が開けた。 たどり着いてみると、道路側に生い茂る植え込みの傍に遊具と藤棚が見えた。少し遠くには大木が何本もそびえている。それらを左に見ながら沿道を進むと、池やベンチが見えてきた。思ったよりも規模の大きい公園だ。 そして右手側には、どれも邸宅と呼ぶ方が相応しい豪邸ばかりが建っている。いい場所には、良い家が建っているもんだな、とつくづく思う。 公園散策に有給の午後をあてるのも悪くない。 一旦どこかで昼食を取って、コーヒーでも買って戻ってこようか。 と、会社があるオフィスエリアの方へ引き返そうとしたその時、やや前方の角に、石造りの洒落た建物があるのが目に入った。 周囲の豪邸と比べるとこじんまりとしているがずいぶん本格的に欧風で、どしんと重そうな年季の入った石壁が古城のようだ。 公園の木々とその建物だけを切り取ってみれば、誰もここが日本だとは分からないかもしれない。 なのに、周囲の住宅と不思議とうまく混ざり合って違和感は無い。 近づいてみると年季が入っているように見えたのは石壁にびっしりと蔦が伸びているためで、建物自体はさほど古くなさそうだった。石壁からは公園の小径に向かうように、おなじ石の階段が数段伸びている。 まるでヨーロッパの童話本にある挿絵のような風景で、ちょっとした異空間だ。 写真を撮りたいが民家だとマズイよな、と躊躇しながらも近づいてみると、階段元に ”OPEN” と書かれたスタンド黒板があった。 「店か!」とつい喜びの独り言が出てしまう。 店舗ならおそらく写真を撮らせてくれるだろうし、それにこんな素敵な外観だもの、もちろん中も気になる。 しかしこんな閑静な住宅街で、一体何の店なんだろう。駅から徒歩で来るのも厳しそうだが。 黒い格子のはまった窓ガラスが見えるが、公園の木々が鏡のように映り込んでいるせいで中の様子は伺えない。 ドアへと続く階段脇にはちょっとした駐車スペースがあり、おれは自転車を邪魔にならないようできるだけ隅において、改めて階段に向かう。 上がりきると、黒茶色の重厚なドアと、その横には背の高いランタンが2つ置いてある。 正直、何の店かも分からず入るのは勇気がいる。美術ギャラリーのような専門店だったら場違いすぎるし。 もしそうなれば外観の写真だけ撮らせてもらってお暇しよう。 ま、なるようになれ、だ。 重厚なドアには真鍮の取手があり、握るとカチャリと小さい音がしてアンロックされたことがわかる。 そのまま引くと、見た目通りどっしり重い。 ちょうど身体が入るくらい扉を開けたところで、コロン、と小さく鐘が鳴った。 「いらっしゃいませ」 低く、よく通った声が身体にズンと響く。声の矢に身体を貫かれたような衝撃だった。 反射的に顔を上げて更に驚いてしまう。 スラリと背の高い白人男性がにっこりと微笑んでいる。白いシャツに黒いロングの腰エプロン、オールバックにした金色の髪。 この建物にあまりにマッチした容姿で、ジェットコースターのように急激に現実感が薄れて行く。 ……ここ、日本だよな……? 「空いているお席にどうぞ」 男が全く訛りのない日本語で促してくれ、ハッと我に返る。 言われるがままに周りを見渡すと、カウンター席と、窓際にはテーブル席がある。 最初に目に入ったカウンターの一番奥に向かうと、「どうぞ」とスツールを回して着席を促してくれた。 カウンターの背後には整然とボトルが並べられており、おそらくバーのようだが、コーヒーの香りが微かに鼻孔をくすぐる。この時間に営業しているからにはカフェバーなんだろう。 分厚いカウンターテーブルに、弾力のあるスツールが座り易い。 朝から何も食べていないおれには渡に舟ではあるものの。雰囲気や立地を鑑みると、少々高い店かもしれない。 いつのまにカウンターの内側にいたのか、金髪碧眼の男は水やおしぼりを手早くおれの前に置き、メニューを手渡してきた。 「ようこそ」 囁くような声なのにビリビリと鼓膜が震え、少しだけ戸惑いながら顔を上げると、正面からまともに目が合った。ずいぶん端正な顔立ちだが、微笑みが優しくて温かみが感じられる。 髪は長髪を後ろで結んでいるようで、オールバックが完璧なシンメトリーの顔を際立たせている。 ギャラリーかと予想したのはあながち間違いじゃなかったな。芸術品みたいな容姿の人間がいるなんて。 バーテンダーが少し小首を傾げているのに気付き、おれは凝視してしまっている不躾さを恥じた。あわてて視線を外してメニューを開く。 全く心構えなく飲食店に入ったこともあり、目が滑って内容が全く頭に入ってこない。 言葉が分からない旅行先のレストランに来ているのかと錯覚しそう。 いっそ、尋ねてみるか。 「あの、食事って、できますか?」 「はい、ランチがまだあります。今日はイェーガーシュニッツェルですが、いかがですか?」 「それって、」 恥ずかしながら初めて聞く料理だ バーテンダーは料理内容を丁寧に教えてくれた。まったく訛りのない日本語から予想するに、おそらく日本育ちだろう。低く、落ち着いたトーンで、話の内容がスッと頭に入ってくる。 イェーガーシュニッツェルは仔牛肉をよく叩いて薄くしたカツに、キノコ数種類をグレービーと生クリームで煮込んだソースが掛かっているようなもので、ドイツの定番料理とのことだった。 ただしこの店では仔牛ではなく、より入手しやすい豚肉を使用しているとの断りが添えられた。確かに、仔牛だと気軽にランチとはいかない値段になるだろうな。 とにかく、美味そうじゃないか。 料理が来るまでの間、カウンターから振り向いてゆっくり店内を見渡す。 窓際には4人がけのテーブル席が3つ。窓のない方の壁は天井までびっしり本が詰まった棚が造りつけられていて、その横には奥に続く廊下が見える。しかし赤いロープが張られ立ち入りはできないようだ。 あとはおれがいるカウンター。 全体的にシックな深いトーンで、映画で見るような海外の古い図書館を彷彿とさせる。 店内の観察が終わって、再びメニューを手に取った。 ようやく気持ちが落ち着いたのか、今度はまともに内容が把握できる。 19時からはバータイムで、つまみ類がいくつかとスイーツも記載がある。夜もカフェ利用ができるんだな。 酒はウイスキー、ブランデー、テキーラなどが数種類。カクテルやワインは知っているものも、知らないものも。 住宅街のカフェバーか。まさに、隠れ家的な店だな。 これまで独りで呑みに行く習慣はなかったが、こういう静かな場所をお気に入りのお店として持っておくのは大人の男のようでとても憧れる。——なんて思う時点でまだ大人になりきれていないか。 「お待たせしました」 滑らかな声に、反射的に顔をあげる。 皿からはみ出す大きいカツに、キノコがたっぷり入ったベージュ色のソースが浸るほどかかり、その横には薄切りのじゃがいもを炒めたものが山盛りになっている。サラダの小鉢も一緒に。 「ボナペティ」 皿を並べ終えたバーテンダーはそう言って微笑むと、少しの間おれの目を真っ直ぐ見てから、ゆっくりと瞬きした。 それが驚くほど優しい表情で、また見入りそうになってしまう。 「え、あ……ありがとうございます」 つい呆けた返事をして、おれはとにかく目の前の料理に取り掛かった。 そうか、パンやライスじゃなくこのじゃがいもが主食になるのか。普段はカツといえば米だが、この料理には断然じゃがいもが合う。カリカリに炒められたベーコンと玉ねぎが主張しない程度に入っていて、とてもコクがある。じゃがいもの端の少し焦げたところと、シュニッツェルのクリスピーな衣がキノコのソースと混ざりあうと、途端にクリーミーになるのがいい。 おれは初めて出会う美味さに夢中になってしまった。 こんな美味い店を発見できたなんて、自転車通勤に大感謝だ。多少高くったって構うもんか、とおれはすでに再来を決意していた。 ある程度食べてひと呼吸しようと水を飲んでいると、カウンター越しにバーテンダーと目があった。 もしかしてがっついてるの見られていたか。 「当店は初めて、ですよね」 グラスを拭きながらバーテンダーが聞いてきた。 「あ、はい。今日引っ越してきて」 「そうでしたか」バーテンダーはグラスを置いて「片付けは終わりましたか?」と続けた。 「今日の寝床だけはなんとか。でもせっかくの有給なので、今日はもうやめて明日に持ち越すことにしました」 「いい決断ですね」 水色の瞳が柔らかく細まる。 残りの食事を平らげ、美味しさの余韻に浸っていると、カチャリ、とコーヒーカップとデザートが載った皿が前に並べられた。 「サービスです。疲労回復にどうぞ。コーヒーはおかわりできますから。時間が許す限り寛いでいって」 一口すすると、香ばしさが身体に染みる。深煎りで美味い。 デザートは表面に焦げ目がついたプリンのような見た目で、こちらもカラメルがほどほどに苦くて調和がとてもいい。 疲れが溶け出していくようだ。 1度コーヒーをおかわりして、気がつくと結局3時間近く経っていた。 おれの話し掛けに、落ち着いた声で返ってくるカウンター越しの言葉が心地よく、去りがたさを感じてついついダラダラと寛いでしまった。 会計を済ませ、自転車のロックを外していると、コロンと小さく鐘の音が鳴ってドアが開いた。 バーテンダーはわざわざ傍らまで降りてきてくれ、 「よかったら、明日も息抜きに来て」と店の名刺を差し出し、ふんわりと微笑む。 これが営業スマイルだとすれば相当なもんだ。 「来ます!あ、あと、食事すごく美味しかったです」とおれの方はお世辞抜きで応え、ロードバイクにまたがった。 漕ぎ出した瞬間に「あの、」と小さく聞こえたような気がして振り向くと、階段下に立っていてこちらを見ているバーテンダーと目が合った。おれは手をあげて、「また明日!」と声を掛けて、そのまま帰路についた。 忘れ物でもあれば、明日受け取ればいい。むしろ、連続して訪問するためのいい口実じゃないか。 最初に心配していたランチの価格は懸念で終わり、毎日とは言わないが平日にも通える価格だった。ただし、1時間の昼休みじゃもの足りないよなぁ。居心地良すぎて。 なにより、あのバーテンダーの醸し出す優しげな雰囲気にすっかり癒やされてしまった。

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