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第2話 Getting closer
翌朝。
いつもの土曜日なら二度寝をするところだが、引っ越し直後となればそうはいかない。
目覚めたままに起きてすぐにシャワーを浴び、軽く体をほぐすと、さっそく片付けをはじめた。
とりあえず片っ端から段ボール箱を開け、リビングの壁面収納にどんどんしまい込んでいった。細かい配置はそのうちでいい。暮らすうちに、自然と使い勝手で配置は変わってくるだろうから。
昼前には全ての箱を空にし、引越し業者に回収の依頼をすることができた。
もともと、おれは持ち物が少ない。ミニマリストを気取るわけではないが、ほぼ外食のため調理器具等が不要なのと、服装にあまりこだわらないためだ。
通勤着に同じような服を5着、外出着が2着、あとは自転車用ウェアが2着。これに少しの上着類。
これは中高6年間の寮生活による影響だと思う。収納スペースが限られていることと、学外へ出ることがほとんどなかったから毎日トレーニングウェアでどうにかなった。
大学時代も、転学するまでは陸上漬けで……。
とは言え、引っ越しで部屋のサイズも変化し、自転車通勤は時間的な余裕を与えてくれるだろうから、物が増えていく予感はある。夏の通勤には着替えをもっていくことになるかもしれないしな。
ほこりっぽくなった身体を熱いシャワーで洗い流し、部屋を見渡す。
うん、困らない程度には片付いたな。
朝から集中して作業をしたおかげで、まだ外は十分明るい。梅雨の時期にも関わらず、引っ越しが雨に降られなかったのは本当によかった。
さっそく自転車を持ち出し、街道へ出ると東へと向かう。昨日とは逆で、つまり会社がある駅方面から遠ざかる。
暑くもなく寒くもない今の時期の晴れは、自転車乗りにとって最高の気候だ。ほんの少しの時間でも乗っておかないと勿体ない気さえしてしまう。
ペダルを進めていると、少しずつだが工場のような建物が混ざってくる。おそらく準工業用地になるんだろう。
さらに漕ぎ進むと、ホームセンターとショッピングモールが見えてきた。MAPアプリで目星は付けていたが、さすがの郊外店舗だけあり予想よりだいぶ敷地が広い。
その背後には、40階はありそうなタワーマンションが数棟ぴったりと建っていて、低層の工場や空き地に囲まれて一種異様な景色だ。
おれはこういった ”さあどうぞどうぞ、ここに住んでここで買い物してください!” といかにも準備万端に提供されている感じがどうも苦手だ。利便性が良いのは理解できるが、あまりに人工的すぎて。
しかし、家からの近距離に、大規模なショッピングモールにホームセンターまで併設されているのは大変ありがたい。
まずモールのテナントを確認して、次にホームセンターへ。めざすは自転車売場だ。
店舗の隅の方にさしかかると、タイヤ独特の匂いが漂ってくる。これが苦手な人もいるんだよな。ガソリンスタンドの匂いに好感を持つのは若い女性に多いという記事を読んだことがあるが、タイヤの匂いを好む層についてはまだ聞いたことがない。
嬉しいことに、売り場はかなり本格的な品揃えだった。トライアスロン向けの輸入自転車まで取り扱っているとは大したもんだ。
もし何か必要になったらまずここへ来て相談だな。ネットで何でも揃うとは言え、個人輸入は稀にトラブルがある。この品揃えだったら、自転車に詳しいスタッフが居そうだ。
十分に満足し、ホームセンターを後にする。
次に目指すは、引越し前に見つけておいた川沿いのサイクリングロード。
たしか高校の授業中に先生の雑談として聞いた話では、街の中央を流れるその河川は大雨の度に氾濫していたため、江戸時代から大規模な治水工事が繰り返し行われたそうだ。もう氾濫することはないが、極稀に河川敷に作られたテニスコートや野球場が水没することがあるらしい。
サイクリングロードは下流に向かって河川敷の左側に設置されていて、道案内によれば河口の港まで行くことができるようだ。歩行者を巻き込むストレスがないのはありがたい。ロードバイクはスピードに乗るまでに結構な力が必要だから、いちいち歩行者を避けていると、ただしんどいだけのライドになってしまう。
軽く下見のつもりが、平面の滑りがよく、どんどん漕げて楽しくなってしまった。
気がつくとすでに日はとっぷり暮れている。
「さて」
おれは一人つぶやき、昨日見つけた公園横のカフェバーまでの道のりをシミュレートする。MAPを見ずとも辿り着くだろう。
バーテンダーの営業トークを真に受けてしまう形になるが、3連休の中日を独り、インターネットがまだ開通していない部屋で過ごすのはキツい。
そりゃ駅前まで行けば今でも映画のレンタルショップくらいはあるだろうけど。
などと、いろいろ頭の中で言い訳を考えてしまうが……要は、また行きたいんだ。
それに、あのバーテンダーが『明日も来て』とおれに言ってくれた声には、心が込もっていたような気がして。おれは、自分の返事を嘘にしたくないと思った。
自宅付近をそのまま通り過ぎて、オフィス街に差し掛かる前に左折する。
昨日と同じ様に急に視界がひらけ、公園の木々が見えてくる。傍で、群青の空に浮かぶ石造りの建物は、切り取ってすぐにでも絵画にできそうなほどしっとりと美しかった。
近づくと、ランタンの明かりがOPENの立て看板をぼぅっと浮き立たせている。
昨日と同じ場所に自転車を停めようと駐車スペースの隅へ行くと、小さなガーデンライトが刺さっていることに気付いた。淡い明かりでロックがやりやすく、とても助かる。
やや遠慮がちにドアを開けると小さく鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ」
軽く会釈して、カウンター席へ向かう。店内はほどよく混んでいるがカウンターはおれ一人だ。
バーテンダーがおしぼりと水を出しながら、「来てくれたんですね」と、極上の笑顔を向けてくれた。昨日と同じく、低く響く声に身体を射抜かれる。
夜の店内は、全てのテーブルにキャンドルが置かれ、カウンターにも1席ずつに小さいキャンドルが。
店内の明かりはほんのり間接照明で、バーテンダーの手元を照らすライトだけがやや明るいくらい。
キャンドルでメニューを照らしながら、今日は思いがけず体力を使ったことだし、ちょっと甘めがいいかなと思いながらページを捲っていくと、珍しい産地のビールが目についた。
「すみません。この、スウェーデンのビールと、オリーブの盛り合わせを」
バーテンダーは見たこともない黒いラベルのボトルから、これまた見たことないほど黒いビールを冷えたグラスに注いで出す。
口をつけてみると見た目通り濃厚で、ほんのりバニラの風味がある。苦味と甘味のバランスが絶妙だ。
「うまい」
思わず声に出してしまう。
「スウェーデンで一番人気があるビールです」
バーテンダーがラベルをこちらに向けながら応えてくれた。
頼んでいたオリーブの盛り合わせは、グリーンオリーブとブラックオリーブの中にアンチョビやパプリカの入ったもの、オリーブのサイズとおなじくらいの丸いモッツァレラチーズ、プチトマト。それが丸いガラスの器に彩りよく盛られていて、まるでビー玉のようにつやつやと光を反射している。
「引越しの方はどうですか?」
「うん。もうほとんど片付いて、午後は自転車で近所をウロウロしてました。大きなショッピングモールとホームセンターがあった」
「ああ、僕もたまに行きます。映画館もあるから。……食事は?」
「モールで適当に。今日はここで飲むつもりで」
「おまかせでよければ、夜も食事のご用意できます。覚えてて」
「あ……いいんですか。嬉しい。今度から食べずに来ようかな」
テーブル席の1つは女子会のようで賑やかだ。時々、ワッと笑い声が上がる。
酒もフードも旨い、雰囲気もしっとり落ち着いていて良い。しかも半端ないバーテンダーの美青年ぶり。そりゃ女性が来るのも納得だ。おれも2日連続で来てるし。
バーテンダーは忙しそうに手元を動かしながら、カウンターに一人でいるおれに何かと話しかけてくれる。
さすが客商売の聞き上手で。静かな相槌や問いかけが心地よく、まるで昔からの常連になったような錯覚に陥りそうになる。
何杯目かのモスコミュールを飲んでいると、女子会グループが会計をして、バーテンダーが出口まで送っていった。見渡すと客はおれだけになっていた。
腕時計の針は22時を回っている。楽しい時間はあっという間だな。
カウンターに戻ってきたバーテンダーに閉店時間を尋ねると、特に決めてはいないが、だいたい0時前にはCLOSEすることが多いとのことだった。
「日曜と月曜が休業日ですが、貸切パーティーはいつでも。ちょうど明日の日曜も予約が入っていますね」
「結婚式の二次会とか?」
この店の雰囲気ならまずハズさないだろう。
「そう。20人で立食とのことなので、今夜はこれからその準備があります。だから、ゆっくりしていって」
バーテンダーがにっこり笑う。
容姿と仕草とセリフとが完全に一致していて、この営業能力はずるい。
そりゃ、おれももう少し話していたいが、最後の客というのはどうも居座りが悪い。明日の準備もあるそうだし。
「でも、そろそろ……」
残っていたグラスを空け、帰る決意をする。そのとき、コロンとドアの鐘が鳴った。
こんな住宅街の店で遅い時間に客が入るとは意外だが、少しだけホッとする。他にも客がいればもう1杯くらい飲んでもいいだろう。
すると「ヘイ」とバーテンダーがドアの方に声を掛けたのでつい振り向いて見てしまった。
女性が独り、店に入ってくるところだった。こちらを見ると「いらっしゃいませ」と微笑んで、店の奥の廊下へと消えて行った。
従業員さんか……いや、こんな時間だし、奥さん?いずれにしろ関係者なのは間違いないから、やっぱり帰ろう。
立ち上がりかけたところで、目の前にコトリとモスコミュールが置かれた。
「僕も飲むから、よかったら付き合って」
バーテンダーはカウンターから出てくると腰に巻いていたエプロンを外し、椅子にドサッと投げかけた。そんなちょっと荒っぽい動作すらいちいち絵になる。
そしてショットグラスを持って窓際の席へ行くと、「こっちに」と頭を傾げるようにして窓際のテーブル席におれを促した。
「あ、はい」
つい言いなりにグラスを持って移動する。なんだか操られてしまうな。
窓際のテーブル席は2人用で、真ん中にキャンドルが置いてある。
「僕、ヒューゴ。改めて、よろしく」
ショットグラスを傾けてくるから、それに合わせておれもグラスを近づける。
さっきまでとは全く異なる、砕けた口調が心地いいな。
「あ、トオルです。高屋透」おれのほうがなぜか丁寧語になってしまった。
「タカヤ トオル。トオル タカヤ……いい名前だね」とヒューゴは言い、グラスを一気に煽ってホッと息を吐いた。
「あの、もう仕事終わり?」
「うん。さっきのグループが帰ったときに、CLOSEにしてきたから」
「お疲れ様です」
「ありがとう。強引に引き留めたかもしれないけれど、大丈夫?」
「いや、おれももう少し飲みたかったから」
「よかった」
ヒューゴは囁くように言うと席を立ち、カウンターからボトルやライムを手掴みで持って戻ってきた。
なんだろう、さっきまでとは別人のような印象だ。バーテンダーの時は、悪い意味じゃなくアンドロイドのように完璧な……やや無機質な印象だった。
エプロンを外したヒューゴは生身の人間感がする。
「いつも……」
「ん?」
くし切りにしたライムをかじってショットグラスを飲み干しながら、ヒューゴは横目でこっちを見る。
顎から長い喉に続くラインがシャープだ。食道を酒が流れたのか、喉仏がゆっくり動くのも見える。
おれも、こういうかっこいい飲み方できないもんかな。
「いつも、閉店後は飲むの?」
「ここで?」
「うん」
「いや、ほとんど無い、かな」
「そうなんだ」
単純にこの特別感が嬉しい。まだ来店2回目の客だというのに。
「週末だからね。僕も飲みたい」
ヒューゴの前にあるのは見慣れないボトルだった。
「それ……テキーラじゃないよね?」
シンプルなデザインの小振りな瓶の中身は透明だ。
「これはウォッカ。スウェーデンの」
「へぇ。こういう飲み方するんだ?」
「ウォッカは、なんでもアリだよ」
「飲む?」
ヒューゴがショットグラスを差し出してくれたが、さすがにきつそうだ。
「今日は遠慮しとくよ」
「じゃあ飲みたいものがあったらなんでも言って。作るから」
なんだかすごくラッキーな日だな。しかし、もうクローズしているということは、
「あのさっき来た女性はスタッフさん?」と、おれは廊下の方へ視線をやりながら尋ねた。
「妹だよ。親同士が再婚してね。ずっと小さい時だけど。人種が違うから兄妹には見えないでしょ」
「そうなんだ。もしかしたら奥さんかと思った」
「そういうことにしておく場合もある」
ヒューゴはおれの知らない言葉で店の奥に向かって何か言うと、ほどなくして妹さんが出てきて、「諒子です。よろしく」と手を差し出してくれた。
「透です。はじめまして」と握手を返す。
「逢えて嬉しい。さっそくだけど、明日の料理の味見してくれる?」
諒子さんはおれとヒューゴを交互に見て聞いた。
「もちろん!喜んで」
おれは真っ先に弾んで答えてしまった。
妹さんが厨房に戻ると、すぐにバターの良い香りがし始めた。
「引っ越して来る前はどこに?いや、詮索するつもりじゃないけど」
ヒューゴがショットグラスを手で転がしながら聞いてきた。
「東京。でも中高の6年間はこの街に住んでたんだ。たまたま転職先がここになって」
「そうか、戻ってきたのか……」
「戻ってきたという感覚は全くないんだけどね。全寮制でほとんど学内から出てなくて、土地勘ゼロだから」
キッチンから諒子さんが何か言っているのが聞こえ、二人でそちらに顔を向ける。
「嫌いな食べ物はないかって聞いてる」
「おれは全くないよ」
ヒューゴは少し大きな声でキッチンに向かって返事をした。ものすごく低音なのに、空気がパンと張るような、よく通る声だ。
「それって、英語じゃないよね。何語?」
「ああ、ごめん。スウェーデン語」
おれは即座に納得した。道理で北欧全開な見た目なはずだ。
「でも、日本語に訛りが全くないよね」
「子供の頃はこっちで過ごしたから。親がスウェーデンに帰ることになるまで」
ヒューゴはテーブルに肘をついて手に顎を乗せ窓の方を向くと、何かつぶやいた。
聞き取れないけれど、スウェーデン語っていい耳障りの言葉なんだな。
「ヒューゴの良い声とよく合ってる」
つい口をついて出てしまった。おれは急いで「歌手みたい」と冗談めかした。
ヒューゴは横を向いたまま、目だけをおれに向けてじっと見たかと思うと、ゆっくり瞬きをした。
昨日も思ったんだ。
その仕草をされると、とても優しい気持ちになる。
諒子さんが試食にと出してくれたフードはどれもおいしく、見た目も華やかで。明日のパーティのゲストは必ずこの店に通うようになるだろう。
ヒューゴは「引越し祝いだから」とおれの支払いを固辞し、言葉に甘えるがままに奢られてしまった。
「よかったら……。いや、またすぐに来て」
「ん?もちろん、必ず来るよ!」
改めてここに引っ越して来てよかったとしみじみと思う。
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