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第5話 アニバーサリーから始めよう

それ以来、おれは宣言通り、ヒューゴの店の常連となった。 さすがに毎日とはいかないが、仕事が早く終わった日は夕飯を兼ねて軽く飲んで帰宅。 早く切り上げればうまい飯にありつける、となると日々の高効率化にもつながる。 金曜は、カウンターの奥の端の席に「Reserved」の札が置かれ、おれが店の扉を開けるとそれが取り除かれる。これは間違いなく常連と自覚して良いはずだ。 時折、社内の誰か——-大抵は速水君だが、と誘い合って店に行くこともある。 おれのバイトのことはなんとなく言えていないままだけれど、弊社は副業推奨だし、いつか機会があれば話そうと思っている。 バイトは自分から積極的に入るようにしていて、急なグループ客が来た場合など、ヒューゴに頼まれるより先に自らバイトウェイターへ変身する。 飲んでる最中に働かせるなんて申し訳ない、とヒューゴは言ってくれるが、実は飲むより働いている方が楽しいんだ。 接客モードのヒューゴとは硬い会話しかできないという寂しさも取り除かれるし、なにより、ヒューゴとの作業は快適で無駄がなく、例えば運転の上手いドライバーの助手席に乗っている感じ。ブレーキを踏むタイミングが合うような。 必然的に諒子さんと顔を合わす機会が減ってしまうのは残念だが、時間が許す限り働いていたいと思わせる。 おれもチームメンバーに、働きやすさを感じてもらえるようにと思いヒューゴの所作を盗み見ているが、なにがどうというテクニックは無いらしい。 強いて言えば丁寧さであったり、雰囲気であったりといった目に見えないもののコンビネーションが『快適さ』を醸し出して、それをうまくヒューゴが纏っているのかも。 すぐに真似できるものではなさそうだな。 そんな調子で、金曜はほぼ毎週飲みに行き、バイトをしない日であっても閉店後にクローズを手伝って、そのまま朝方までだらだら飲む。 都合が悪い日もあるだろうとヒューゴには毎回確認しているものの、今のところ金曜の深夜は空いているらしい。 それにしても、毎週毎週、飽きずによく話すことがあるなとは、我ながら思う。 映画の話題が多いのは自覚できているが、他は何か決まった話題があるわけでもないのに、何時間も会話が尽きない。 そりゃお互い無言でぼーっと飲んでる時間もままあるけれど。 あ、でも、バイトとしての立場から印象に残った客の話や、ランチメニューの相談に乗ることができるようになったのは客兼バイトの特権かな。 おれはあの酔いつぶれた日以来『きちんと一人で家に帰れる程度』を限度として飲むことにし、ヒューゴも様子を見ながら酒を作ってくれている。 二人で飲んでいると寛いでしまい、家にいる感覚で酒量が増えてしまうから。 ヒューゴはいつも穏やかで、おおらかで。 おれの他愛もない話に時折挟まれる低く優しい相槌の声を聞いていると、仕事で疲労している神経がじんわり緩んで、回復してくる。 いまではこの『ヒューゴとの時間』もおれの大切なリフレッシュ手段となった。 ある金曜の夜、例によって閉店後に二人で飲んでいると、ふいに、 「今日でちょうど10ヶ月だ」と、ヒューゴが言いだした。 「何かの記念日?」 「透がこの店に来た日から、ちょうど」 携帯を出してカレンダーを確認すると、まったくその通りで。 「よく覚えてたな」 「15日、覚えやすい日だから」 「もう転職して1年か。あっという間過ぎて怖いな」 「仕事のこと、聞いていいかい?PMだとは前に聞いたけれど、具体的にどんなプロジェクト持ってるの?」 めずらしくヒューゴから具体的な質問をされた。元来、自分語りはあまり好きではないがヒューゴには自分のことを話したい。知ってもらいたいと心が弾む。 「答えたくなかったらいいんだよ」 「いや、聞いてくれ」 おれは一通り会社や業務について説明すると、ヒューゴは同じような職種の人間を知っているのか、1言えば10知る感じの理解力ですぐに把握したようだ。 今任せているシステム開発会社が海外なことから、国内ではありえないような齟齬や気苦労がある。でもこのあたりのグチめいたことは、なかなか国内の同業者から共感を得難いから、外で話す機会はほとんどない。だから事情を知っている社内の速水君と飲みながらストレスを発散させるしかないわけだ。 「スッキリした顔してる」 話し終えてグラスを煽るおれにヒューゴは微笑みかけてくれた。 顔に出るほど鬱憤を出し切ってしまったか。 「ごめん、グチだったかも」 「いや、面白かったよ」 「でも外国人の悪口みたいな、嫌な発言になってなかったかな」 おれはどうも、この目の前の金髪碧眼の男が外国人なことを忘れがちだ。 「そっか。僕、日本人じゃないのか」 驚いたようにヒューゴが言うから笑ってしまった。 「外見は違うねぇ。でも中身が日本人すぎて、おれも忘れてた」 「透も?」 「うん、稀に思い出すけど。それより、アンドロイドかなって思うよ」 「どういうこと」 「テキパキ働くじゃん。オーダーも正確だし、ずーっと笑顔で、整った外見で……ある意味人間離れしてるから」 「僕が?」 「そ」 おれはキャンドルの炎で緑色に見える瞳を見据えて、簡潔に肯定した。 「アンドロイドみたいだって?透は僕のことを全然分かっていないな、もう知り合って10ヶ月も経つというのに」 そう言うとヒューゴはスッと席を立って、厨房に行った。 その立ち姿や軸がしっかりした動きがよりアンドロイド感を増大させるんだよな。本人は全く気づいていないだろうけど。 「これは今夜、お祝いに食べようと思って取り寄せていたザッハトルテです」 テーブルに戻ってくると、アンドロイドはそう言って細長い体躯を折り曲げテーブルにチョコレートでコーティングされたケーキを置いた。 「今の今まで、このことをすっかり忘れていた。10ヶ月のお祝い。アンドロイドなら忘れないだろ」 「10進数で覚えているくらいだしな」おれは賛同してやる。 「まあ、実のところ、これを取り寄せる理由が欲しかったんだ。久しぶりに食べたくなって」とヒューゴはケーキを指差してにやりと笑う。 ザッハトルテという名前は知っていたものの、初めて食べるケーキは見た目ほど甘ったるくはなく、中に挟まっていてるジャムがしっとりと濃厚で美味い。酒によく合った。 「どこから取り寄せたの?」 何気に聞くと、「オーストリア」と予想外の答えが返ってきた。 「え!?わざわざ?」 「それを忘れたんだから、人間らしいでしょ」 「ごめんって。もうアンドロイドなんて言わないから」 それにしても海外から取り寄せるとは、スイーツにもこだわるんだな。 ヒューゴは自分用に切り分けたケーキを早々に食べ終わり、2切れ目に手を伸ばした。2人で1ホール食べきるつもりか? 「よく聞く名前だけど、日本でも売ってるんじゃないの?」 「たしかにザッハトルテ風のものはよくある。でもこのケーキは、ホテルザッハのザッハトルテ」 そしてヒューゴは、ホテル『ザッハ』のトルテ(ケーキ)だからザッハトルテだということすら知らなかったおれに、いろいろと諸説交えて話してくれた。レシピを巡っての裁判があったりと、ケーキひとつに面白い歴史がある。それほどウィーンという土地に菓子文化が根付いているのか。 「ヨーロッパはね、南の方がスイーツは豊富だしおいしい。地続きなのに地域差が大きいんだ。フランスとか。きっと王宮があり貴族がうようよ居て、菓子職人も必要だったんだろう」 「スウェーデンにはねえの?」 「そういえば、透は、ヨーロッパに行ったことがある?」 ヒューゴは少しだけおれを見て、別の質問をしてきた。答えになってはいないが、無いってことだろう。 こんな風に、答えが継続する会話に影響しない場合、ヒューゴは返答をスキップする癖がある。おれにはこのリズムが合うんだ。まどろっこしくなくて心地良い。 「一応ある。弾丸出張でドイツ5日間。でも空港と会社とホテルの3箇所しか行ってないから、あれはヨーロッパでもどこでもない気がする」 「でもドイツなら、ホテルの朝食が良かったでしょ?」 「よく知ってるなぁ。それだけは今でも忘れられないよ」 おれは多種多様なハム、チーズ、パンがずらりと並んだ朝食ビュッフェを思い出す。フルーツに、ミューズリーに、ヨーグルトに……熱々のゆで卵、際限なく勧められる濃いコーヒー。 「朝食を思い出したらドイツに行きたくなってきた」 「どうせならヨーロッパ周りたい、アフリカにも行きたい」 ヒューゴが規模が大きいことを言う。まあ我々日本人サラリーマンには取得できる休暇に限りがあるから、そんなこと夢のまた夢だよな。 「いつか……」と、ヒューゴがショットグラスに視線を落とす。 そうだな。 おれは、いつかおまえと一緒に旅行に行けたら楽しいだろうなって思うよ。 しかしおれはそれを口に出さず、代わりにモスコミュールを飲み干す。 言えばきっとヒューゴは同意してくれる。でも口約束なんて軽くしたくないんだ。実現したいことが、口約束の安心感で叶わなくなりそうで。 せっかくの本物のザッハトルテを堪能すべく、コーヒーを入れて2切れ目にとりかかる。 来店10ヶ月目か。覚えていてくれたのは単純に嬉しい。 久しぶりに食べたくなったと言っていたが、前回はいつなんだろう。取り寄せたのか、現地で食べたのか。 あと、本人は無自覚のようだったがザッハトルテの発音がときどきドイツ語風になっていたし、ホテルの朝食も知っているようだった。ドイツに住んだことがあるんだろうか。おれはヒューゴのことを殆ど知らないな。 「あのさ、ヒューゴってあまりおれに、というか他人に興味ないタイプ?」 「ん?」 ヒューゴは飲み干そうとしていたショットグラスを途中で置いて、驚いたようにおれを見る。 「どうしてそう思うんだ?」 「お客さんと個人的な話をしているところを見たことないし」 おれとも同様だけど。 ああ、そういうことか、とヒューゴはグラスを置いた。 「それはたぶん誤解。僕はお客さんに個人的な質問をしない」 「そうなの?」 日本人はまず相手のステイタスを確認しないと、落ち着いて話せないような文化だもんな。 「年齢、職業、学歴、年収、宗教、これらはまず聞かない」 「じゃあヒューゴは、おれともあまりパーソナルな話はしたくない?」 ヒューゴの言う通り、もう10ヶ月もこうして二人で飲んでいるというのに。 「いや?こちらから聞かなくても、大抵のお客さんはたくさん質問してくるし、酔うと結構個人的な話をしてくるよ。透でしょ?自分のこと話さないし僕に何も聞いてこない」 そう捉えられていたのは意外だった。 「じゃあ今夜はたっぷり質問しようかな」 おれは少しおどけて聞こえるように言ったが、ヒューゴの目から視線を外さなかった。本当に興味があるから。 「透には、僕のことを知ってほしい。なんでも聞いて」 ヒューゴは置いたグラスを再び持ち上げて一気に飲み干し、深く呼吸すると、低く囁くように言った。 空気が震え、少し胸の奥がくすぐったい。 「ずっと、お前のこと知りたいと思ってた」 ヒューゴは微笑み、「たとえば?」と促してくれる。 「まずは名字。あとは、店に居ないとき……休日の過ごし方とか」 しかしそういうことを知らないまま、10ヶ月も飽きずに話題があったってことだよな。それはそれで面白いのかもしれないけれど、少しさみしい。 「そうだな」とヒューゴは少し考えるように間をおいて続けた。 「明日、休みだろ?僕の家に来るかい?」 「それ、今からでもいい?」 ほとんど反射的に言ってしまった。 ヒューゴは一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと笑って、 「もちろん。じゃあ、タクシー呼ぶよ。続きは家で飲もう」と快諾してくれた。 ちょっと困らせてしまったかと不安になるが、でも、善は急げだ。 「急にごめん。あのさ、おれ、ヒューゴのことをもっと知りたいのは本音だけど、それと同時に、別に知らなくても良いとは思ってるんだ」 「どういうこと?」 「知って何か変わるってわけでもないし……それに、これから2年、3年と経つうちにわかることもあるだろうし」 「僕も同じだよ。でもね、いい機会だし、少し進もう」 そう言うとヒューゴは携帯電話を取り出して、タクシーを呼んだ。

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