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第6話 Cuddle Muffin
タクシーの中でヒューゴの名字を聞いた。
何度聞いてもうまく発音できないおれを「僕もね、実は英語の方が楽なんだ」と慰めてくれたが、おれは英語もいまいちだ。
「諒子さんとはスウェーデン語だよね?」
ヒューゴは簡潔に事情を説明してくれた。
日本で育ったヒューゴを突然スウェーデンの小学校へ転入させるのは辛いだろうと、ご両親は英語で学べるインターナショナルスクールを選んだという。以来、現地の学校へは一度も行かないままイギリスの大学に進学したそうだ。
諒子さんは移住当時まだ小さかったため、そのまま母国語がスウェーデン語となったということだった。
「だから僕らは見た目と中身が逆でね。家では、諒子が僕のスウェーデン語の先生だったな」
ヒューゴは少し茶化し気味に言う。
「日本語は、二人でたくさん練習したんだ。僕は絶対に日本に『帰る』つもりだったし。諒子はもちろんルーツが日本にあるからね」
タクシーの窓ガラスに、すこしだけ悲しげなヒューゴの顔が反射していた。いつもの笑顔に混ざった悲しみは一瞬だけで、ヒューゴはおれがそれを見ていたことに気づいていないだろう。
見た目から期待される中身が、それぞれ異なる兄妹。
ふたりとも容姿には恵まれているけれど、スウェーデンでも日本でも、楽しいことばかりじゃないんだろうな。
なにか力になれることがあるだろうか。さっきのような、悲しい顔を一瞬でもさせないように。
ほどなくして、タクシーは白いマンションの前に停車した。
部屋は最上階にあたる5階の角部屋だった。
ヒューゴは「ミカサ スカサ」と言っておれをソファへ座るよう促してくれる。
ぐるりと見回すと、広めのL字型の1LDKのようだ。
家具は、ソファとテレビの間にカフェテーブルがあるだけで、まるで生活感のカケラもない。リビングと、その向こうを分けている間仕切りが木の枝そのままをいくつも並べてできていて、白い壁と調和してあたたかみがある。
「スッキリした部屋だね」
オブラートに包んだ感想を述べると、「ほとんど店にいるから」と。たしか店の上階に部屋があると言っていた覚えがあるから、そっちが生活の主体なのかもしれない。この部屋には毎日帰るわけじゃないのかも。
「テレビが大きい」
「観たい映画があればダウンロードしていいよ」
部屋の主はリモコンをおれの前に置き、浴室へ行ったようだ。
何か観たいものあったかな。おれはストリーミングサービスの新作リストを前後しながら探す。
どうやら日本向けのサービスではないようでタイトルリストを眺めているだけでも新鮮だ。
なかなか視聴タイトルを決めあぐねていると、シャワーを浴び終わったらしいヒューゴがリビングに入ってきた。
「タオル出しておいたから」
振り向くと、スウェットを履いただけのヒューゴが髪を拭きながら立っていて。
「お前……」
髪を下ろしたヒューゴは、まるで別人だった。
濡れてやや濃くなった金髪が顔にかかり、前髪の隙間から、青く光る瞳が見え隠れする。上半身の鍛え上げられた筋肉は、元アスリートのおれでも目を見張るほど絞られている。よほどストイックな生活をしていないとできないはずだ。
「なに?」
ヒューゴはバサバサとタオルで乱暴に髪を拭きながら、おれを視線で射抜く。
「お前さ、そんなに鍛えてたのな」
あ然とした顔は隠せなかったかもしれないが、おれはなんとか返答した。
「特になにもしてないよ」
余裕しゃくしゃくで半裸の男は答えると、おれの隣にどかりと腰を下ろしてソファの背もたれに両腕を広げた。
すぐ近くにある肩が、シーリングライトを反射して滑らかに光り、顔を寄せるとボディソープの香りがする。
「おれもシャワー借りるね」
急いで自分をソファから引き剥がし、浴室へ向かった。
隣りにある長い手や広い肩幅が醸し出す包括的な雰囲気に飲まれ、そのままもたれかかりそうになってしまった。
通常なら、スキンシップで済む程度のことだと思う。なのに、ヒューゴが相手だと思うと奇妙な罪悪感のような自意識が出てしまった。
胸の奥に湧いたザワザワした感覚を洗い流したくて、おれはしばらく頭から熱い湯にあたり続けた。
風呂から上がりリビングへ戻ると、ヒューゴはさっきと同じ姿勢のままで、映画のタイトルリストを眺めているようだった。
「服、貸して」
「奥にクローゼットがあるから、適当に取っていいよ」と頭を間仕切りの向こうへ傾ける。
木の間仕切りの裏へ行くとベッドがあり、脇を抜けるとウォークインクローゼットになっていた。いい部屋だな。
未開封の下着やTシャツがすぐ手前の棚に置いてあり、用意してくれたんだと知る。あとは、手近なところにあったハーフパンツを借りることにした。
リビングに戻るとヒューゴはキッチンに移動していて、「モスコミュールでいいよな」とシェイカーを振っていた。
まだ上半身裸で、腕や胸の筋肉が動いているのがよくわかる。店で着ているシャツの下はそういう風に動いていたんだ。
なんだか———いけないことをしている気がして、おれは急いで視線をそらした。
「いつも家では何してるの?」
「映画観るか、寝るか。見ながら寝落ちしている場合もあるけどね」ヒューゴはソファに戻り、グラスとつまみの乗った皿をおれの前に置いてくれる。「冷たいものしかないけど」と出してくれたのは見たことがない組み合わせのピンチョスだった。
「これ、一緒に食べるの?」
「そう。グレープとチーズとオリーブ。3つまとめて」
ヒューゴはひとつ摘んでおれの鼻先にもってくると、くいと顎を上に動かすようにして頭を少し上に動かす。口を開けろってことか。
おれはそのとおりパクリと口に入れた。ヒューゴがスティックだけをおれの口から引き抜いて、「どう?」と聞いた。
塩気と果汁の混ざり具合が非常によく、今まで知らなかったことが悔しいくらいだ。
「これは酒が進みますね」
肯定すると、ヒューゴは目だけで同意した。
「映画、オススメある?」
「そうだな、たぶん透はB級映画が好きなようだから」
ヒューゴはおれの検索結果をそのままスクロールして聞いたこともないホラー映画を表示する。「たぶんゾンビもの……」
おれはヒューゴが言い終わらないうちにリモコンを奪い、再生ボタンを押した。
しばらく黙って飲みながらB級ならではのまどろっこしいストーリー展開を楽しむ。楽しんでいるのはおれだけかもしれないが。
真剣に観ているのがバレたのか、「諒子もね、ゾンビものが好きみたいだよ」とヒューゴが笑う。
「透、兄弟は?」
「姉が一人」
「どおりで」とヒューゴが呟く。「甘えるのが上手いと思った」
「そんなことない」
一応否定してみるが、実際心当たりがある。
ヒューゴの親切に甘えてばかりだもんな。ほとんど毎週飲ませてもらって、美味い飯食わせてもらって。今夜なんて快く泊めてくれて。
「甘えられると嬉しいものだよ」
妹の諒子さんのことを思い出しているのか、血の繋がっていない兄は優しく微笑む。
店での様子からも見て取れるが、この兄妹は血の繋がりなどまるで意に介さず相当に仲が良い。当たり前のようにお互いを思いやる姿は見ていて心があたたまる。
「おれも、姉より兄が欲しかったなぁ。ヒューゴみたいな優しいお兄ちゃん」
「ひどいな。僕ら同じ年なのに」
ヒューゴはシルバーに輝く目でおれをキッと睨みつけた。口元は笑ったままだ。
「おれの歳知ってるの?」
1年近く付き合いがあればどこかで年齢の話しくらい出たのかもしれないが、おれはヒューゴの歳を知らなかったし、それに落ち着き払った態度から勝手に年上かと思いこんでいた。
「知ってるよ。でも誕生日は知らない。いつ?」
「8月1日。おまえは?」
「11月」
なんだよ微妙に年下かよ。おれ、もっとしっかりしなきゃなあ。
「今日はヒューゴのことがけっこうわかったよ。なんにもないけど良い部屋に住んでる、名字は発音できない」
それと一切のムダがない筋肉質な身体、髪を解くと伸ばしかけの前髪が顔にかかって、とんでもなく男らしくて危なそうな雰囲気が出ること。オフのヒューゴを見られたことは、常連を越えて友人になったことが実感できて、かなり嬉しい。
「透のことも少し分かった。お姉さんがいる、ゾンビ映画が好き、夏生まれ」
おれたちはお互いの情報の少なさに、同時に吹き出した。
時計を見ると、すでに朝の3時を少し回っていた。
「続きはまたにして、今日はもう寝ようか。おれ、ソファ使うから」
「いいよ、透がベッド使って」
ヒューゴはおれの返答を待たず早々にソファに横になった。しかし、さすがにそれは悪い。急に泊まりに来ておいて。
クローゼットに行く時にちらりと見たベッドは、シングルサイズ2つ分はある大きさだった。でも男二人となれば、おれはともかくヒューゴには窮屈かもな。
でもこの背の高い男はもうソファから動きそうになく。
またしても甘えさせてもらうとしよう。
「じゃ、お言葉に甘えて。ベッド行くね」
「おやすみ」
ソファの上で伸びをするしなやかな体躯が、まるで金色のヒョウみたいだ。
「おやすみ」
そう返して、一人には広すぎるベッドに横になった。
友達の家に泊まるなんて、何年ぶりのことだろう。懐かしいような、新鮮なような。
さすがの酒量のせいかすぐに寝入ったらしく、喉の乾きで目を覚ますと部屋に薄明かりが差していた。
キッチンでペットボトルの水を見つけて飲みながら、ヒューゴに直射日光が当たってしまわないようブラインドをぴっちりと閉じる。
「ん……?」
しまった。逆に起こしてしまったか。
ヒューゴが少し上体を起こした。
「水、飲む?」
飲みかけのペットボトルを差し出すと、ヒューゴは角張った長い指でそれを受け取って飲み干した。
今なら。
「おい」
おれは空いたペットボトルを受け取る次いでに、ヒューゴの腕を引っ張る。
「ベッドいけよ」
「ん。そうする」
寝ぼけているのか、ヒューゴは大人しく長身の身体を引きずるようにベッドへ向かった。どさり、と音が聞こえるから着くやいなや倒れこんだんだろう。
交代にソファで寝直そうと思いながらキッチンでペットボトルを捨てていると、いきなり寝室からずかずかと大股でこちらへ来る音がした。
寝たんじゃないのか、と言おうとしたところで、ヒューゴはおれの手首をグッと掴み、そのまま寝室の方へ連行する。
そして薄く開けた目でおれをじっと見たかと思うと、無言で自分はベッドに潜り込んで片側を空けた。
「狭くね?」
おれの呟きに返事はなかった。
できるだけ静かに空いている隙間に潜り込み、ヒューゴに背を向けて横を向く。隙間と言ってもシングルベッド1つ分はあるからおれには十分だ。
規則的に聞こえてくるヒューゴの呼吸につられ、おれはすぐにうとうとと心地よくまどろみ始めた。
しかし寝入りばなに、ギッとベッドが軋んで目が覚めた。
一瞬身体がこわばる。ヒューゴが後ろからおれの腹に腕を回して、引き寄せた。
呼吸で上下する胸が背中に当たるほど近い。
「誰と間違えてんだよ」
おれは腕から逃れようと身じろいだ。
「……透、でしょ」
ヒューゴは腕にぐっと力を入れてさらにおれを引き寄せて、ほとんど耳に唇が当たる。掠れた低い声が身体を伝って、一瞬で動けなくなった。
それにしても、自分より大きいものに包まれるなんて経験、したことがないわけで……
正直、強烈な安堵感だった。
暖かくて、弾力があって、おれは自分の身体の芯からじんわりとほぐれていくのを感じながら眠りに落ちた。
***************
「おはよ」
ぼんやりした視界のまま顔をあげると、ベットサイドに座りおれを見下ろすヒューゴと目が合った。いつのまにか起きて、抱き枕は解除されていたようだ。
「よく眠れた?」
「熟睡」
夢すら覚えていないし、起こされなかったら寝続けていたかもしれない。
「それはなにより。コーヒー淹れてくる」
ヒューゴは立ち上がり間仕切りの向こうへ行った。
少しすると、キッチンからコーヒーのいい香りが漂ってくる。
とりあえず起きるか。肘で支えて上体を起こすと、マグカップを持ったヒューゴがベッドに戻ってきた。
ヒューゴはカップをおれに手渡し、ベッドの端に腰掛ける。
「おれ、ベッドでコーヒー飲むなんて初めてだ」
湯気と一緒にコーヒーの香りを思い切り吸い込んでから、こぼさないよう気をつけて一口すする。うまい。
「淹れてくれる人、いないの?」
「いねぇよ」
おれはあえてぶっきらぼうに答えた。
「ふーん。モテそうなのにねえ」
「そりゃお前だろ」
コーヒーを飲み終えると、ヒューゴは少し走ってくるという。毎週休みの日はまずそうする習慣だとかで、おれは単純に感心する。
やっぱりあの身体は何かして維持してるんだ。
一緒に走るかと誘ってくれたが、おれはランニングシューズがないことを理由に断った。
そして、右足首に手をやる。
ケロイド状に残った傷に指先が触れると、今でも少しだけしびれがある。
中高校時代、棒高跳びでそこそこ良い記録を持っていたが、大学でダメになった。
踏み切った時の、あの足首の痛み。
元々、スポーツ推薦で大学に進んでいたから、怪我をきっかけに別大学へ編入した。
アスリートとして飯が食えるような実力では無かったんだ。
それがあったから、今の仕事に就けたのもあるし、結果的によかったんだと思っている。
挫折感や惜しみはとっくに乗り越えているから後悔はない。
ただ、もう思うようには走れない。
「今日も泊まっていくよね」
玄関でシューズを履きながら、ヒューゴはこっちを向かずに言う。問いかけというより決定のような口ぶりだ。あまりのさり気なさに聞き逃すところだった。
「え?あ、うん」
一緒にいるだけでなんか楽しいし、酒も飲み放題だし、もっと映画も一緒に観たいけど。そんなに甘えていいのだろうか。
「今度、自転車で付き合うよ」
ドアを開けて出て行くヒューゴの背に向かってそう言うと、ヒューゴは振り返ってにっこりと微笑み、親指を立てた。
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