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第8話 きみのシェルターになりたい

実際のところ、忠告は半分冗談半分本気だ。 想像に難くなかったとはいえ、ヒューゴは客から人気がある。 バイトに入るようになり、今までとは違う目線から見ると、それは羨ましいなんて生ぬるいものではなく、気苦労でしかないようだった。 相手がお客さんである以上は無下にもできず、しかしホイホイと付き合うわけにもいかず。とにかく波風を立てないように穏便に、をモットーにしているようだ。 以前、諒子さんのことを奥さんだと思われても否定しない、と話していた意図は十分理解できた。 ヒューゴの接客は間違いなく丁寧だが、おれがアンドロイドだとからかうように、やはりどこか機械じみているのは人間関係で問題を起こさないためだろう。 そんなだから、商売をしている以上、ナンパだとか、後々面倒くさいことになるようなリスクは負わないはずだ。 ま、小林さんとのやりとりを見る限り、このお誘いはいつもの冗談なんだろう。 おれたちは小林さんに別れを告げると、近くにある適当なイタリアンレストランで遅めのランチをしてから少し海辺を流した。それにしても、『適当な店』というやつは大抵イタリアンになりがちだ。 店を出て車に向かうと、ヒューゴがまた助手席のドアを開けてくれる。楽なんだけど……。このランチにしても、ヒューゴが時々作ってくれる賄いパスタの方がずっと美味しいと感じてしまった。 いろいろ慣れつつある自分がちょっと怖い。 ヒューゴの運転は快適でどこまでも乗り続けてしまいそうだったが、おれは仕事が残っていることを思い出してしまい、ドライブは2時間ほどで切り上げることになった。 ようやく夕方になろうかという健全な時間にマンションに到着し、着替えが入ったバッグを寝室のクローゼット付近に置く。 『本当に毎週来るけどいいのか』と、おれは心の中だけで問いかけて、発言はしなかった。口に出さなければ否定的な答えも返って来ないし。 PCを小脇に抱えてリビングに戻ると、ソファに座りタブレットを操作しているヒューゴの隣に滑り込んであぐらを組み、そのまま資料作成に取り掛かった。 「映画観てていいよ。気にならないから」 実際おれは周囲の音があまり気にならないし、資料はすでに内容が固まっているから、あとはただ手を動かすだけだ。 しかしヒューゴは「ちょうど読みかけの本があるから」とソファに体躯を投げ出し仰向けになると、タブレットを顔前に掲げた。座ったままのおれを足の間に挟み込むようにして。 いっそこの長い足をPCデスク代わりにしてやろうかと思ったが、すぐに思い直して、太ももの上に乗っているヒューゴの右足を持ち上げて足の囲いから脱出した。 さすがにヒューゴの体温がまとわりついたまま仕事に集中できる自信はない。 ふと画面から視線を上げると、正面に読書中のヒューゴが見える。 いつも微笑んでいるからそういう地顔かと思っていたが、どうやら素の表情は異なるようだ。切れ長の目はすぅっと氷のように光を蓄え、細く真っ直ぐに伸びた鼻梁と薄い唇。黙っていれば冷酷そうに見えなくもない。 しかしまあ、どんな表情で何をしていても、悔しいほど様になるのは変わらない。 資料作成のお供として美男鑑賞をきめることにし、頭の中にある構成を資料に落とし込んでいく。 まあこんなもんかな、と作った資料をざっと確認する。 「ヒューゴ、ちょっと見てもらっていい?」 せっかく語学に堪能なやつがいるんだから、翻訳しやすいかどうかチェックしてもらおうと思い声を掛けた。社外秘の資料ではないから。 ヒューゴは起き上がるとおれの後ろに回り込み、ソファの背もたれに軽く腰掛けてPCを覗き込む。 「あ、ちょっと戻って」 スクロールすると 「その表、グラフにした方がいいよ」 「コレ?」と、おれはエンドユーザーのアンケート結果をまとめた表を指す。 「そう。あと他にも、できればもっとグラフィカルにしたくない?」 振り返えると少し申し訳なさそうな表情のヒューゴと目が合った。 「ごめん、口出して」 「いや、全然いいよ。もっとアドバイスして」 資料は見やすい方が断然いいに決まっている。 「表は数字で書いてあるから分かり易そうに思うけど、実は数字はできるだけ読ませない方がいいんだ。ちょっとまってて」 ヒューゴは寝室へ行き、「はい、これ」と自分のPCを開いて見せてくる。細い黒縁のメガネを掛けて。 画面にはPDFが資料が表示されていて、たぶんスウェーデン語で書かれてあるのに、だいたいの意味が解る。 「これヒューゴが作ったの?」 「うん」 まじまじともう一度資料を見る。これマーケティング調査だよな。 「こんな風に、だれが見てもすぐわかるようにね、絵をたくさんにした方が」 「ちょっとまって。お前、店やってるだけじゃないの?」 「こっちは副業。スウェーデンの会社と契約しているだけだ。日本のことを調べて報告する仕事」 「スパイかよ」 ヒューゴの説明におれが笑うと、「名刺あげる」とヒューゴはまた寝室へ。 「クラウドに上げといて」 「これどこの住所?」 「スウェーデンの実家だよ。そうだ、もし世界の終わりのような大変な事が起こったら……緊急事態はここで待ち合わせにしよう」 「そういうSF映画、結構ある」 「でしょ。歩いて行けるわけがないような距離でも、父親が息子を探しに行ったり」 「定番だな。でも目指す場所があるというのは希望だからな。ありがとう」 財布にしまい、念の為に持ち歩いている自分の名刺を出す。 「じゃあ、おれのも。会社の住所と携帯番号だから役に立たないけど」 「へえ、透の名前ってこんな漢字なんだ」 今度はヒューゴが財布におれの名刺を仕舞った。 「捨てないの?」 いつも店で貰う連絡先は、くしゃりと握りつぶして即捨てるのに。 「捨てない。後でスキャンする」 真面目な顔で言うから、おれは少し照れくさくなって笑ってしまった。 それから二人で資料の文字を大幅に削ってグラフを増やし、ヒューゴの資料に近い形に仕上げていった。 ずいぶん見易く、洗練されたプレゼン資料ができあがる。なんていうか、プロっぽい。 「すごい。これなら翻訳に出さなくてもいい」 ヒューゴはメガネを外して、「翻訳もしてたの?」と目頭を揉みながら聞く。 「デベロッパーの中には外国人もいるから」 「へぇ。ちょっと休憩したら、映画でも観よう」 ヒューゴは長い身体をどさりとソファ投げ出し横になる。店にいる時よりずっと粗野な感じで、おれはこっちの方がリラックスしていいなと思う。 「ありがとうヒューゴ。来週のプレゼン、ちょっと楽しみになってきたよ」 「オヤスイゴヨウ、ですよ」 「目が悪いの?」 「眼鏡は夜の運転と、日本語を読む時だけ。似たような漢字の判別が難しい」 「じゃ、眼鏡姿は珍しいんだ」 コーヒーテーブルに置かれていた眼鏡を持ち上げてレンズを覗き込む。確かにあまり度は強くなさそうだ。 「僕のことを知りたいって言ってくれて、嬉しかった」 「他にも秘密がある?」 んー、とヒューゴはソファで軽く伸びて、「あるよ」といたずらっぽく笑った。 おれも何か意外な一面みたいな秘密が欲しいもんだ。 「コーヒー淹れてくる」 おれはソファから立ち上がりキッチンへ向かう。すぐにドリッパーがみつかり、そばにあった引いた豆を2杯分いれる。 今後泊まりにくる機会が増えるんだから、面倒見てもらうだけじゃだめだ。せめてコーヒーくらい淹れさせてもらわないと。 「いい匂いだ」 ヒューゴは起き上がってカップを受け取るやいなや、「あ!そうだ。クッキーがある」と立ち上がった。 カップをそのままテーブルに置くと、キッチンからアンティーク調というか古そうな缶を出してきた。 「なにこれかわいい」 薄い焼き色のクッキーに、押し花みたいにいろんなハーブが埋め込まれていて、とても春らしい華やかさがある。 「諒子の試作品。透がコーヒーを淹れてくれなかったら思い出せてなかったよ」 ヒューゴはチューリップのような柄のクッキーをひとつ手に取り、「葉の部分はローズマリー、花びらはたぶんトウガラシをカットして作ってる。周りの種みたいなものはクミンを散らしてるね」とそれぞれ説明してくれる。 「食べていい?」 「もちろん。3種類あるから、食べて透が一番好きなのを教えて」 「これもかわいい」 おれは薄いピンクの花びらに、黄緑色の細かい葉が添えられたクッキーを手に取る。 「そっちは、桜の花びらかな。ハーブはディルだね」 「じゃ、これは?」 今度はハーブが載っていないシンプルなクッキーを手に取ると、ヒューゴはおれの手を自分の口元に持っていきサクリと一口食べた。 「これはチーズクッキーだ。すごい量のセサミが入ってる」 それは食べなければならない。 おれはすぐにその齧られたクッキーを口に放り込んだ。なんて香ばしさだ!これは絶対…… 「ワインに合うな」 ヒューゴに先を越されてしまったが、まさにその通り。 「このかわいい花柄のと、さっきのゴマのやつ、3枚1セットでいいんじゃない?」 どれも脱落させるには惜しい。トウガラシのちょっとした辛さはきっとウイスキーなんかの香りが強い酒に合うだろうし、桜とディルはジンやウォッカに合いそうだ。 もちろん、クッキー生地の甘みもあるから、コーヒーや紅茶にも間違いない。 「諒子さんすごいなぁ」 次から次へとクッキーを口に運びながら感嘆を漏らす。 「自慢の妹だからね」 ヒューゴは満足そうに優しく微笑んだ。 「夕飯どうする?」 クッキーを食べつつ次の食事を気にするとは自分でもどうかと思いながら尋ねる。 「なにか食べたいものがあれば作るよ」 ヒューゴはすぐにそう答えてくれたが、休日にまで賄いを作らせるわけにはいかない。かといって今から外へ行くのも億劫だし、昼が遅めだったからそんな空腹でもないし。 「飲みながら、ダラダラしたい」 「僕もそれがいい。つまみと酒ならある」 頼もしいじゃないか。でも翌日何もできなくならない程度の酒量で抑えないと。 「そういえば、明日、何時頃まで居ていいの?」 ふと思いついて尋ねてみる。 確かお店は日曜と月曜が定休日だ。今日みたいに土曜日の夜をバイトに任せることはそうそう無いだろうし、ヒューゴのせっかくの3連休をおれで潰させる気はない。 キッチンへ移動していたヒューゴはワインのボトルとワイングラスを2つ手にしたまま歩みを止めた。 「何時って……」 ずいぶん意外そうな顔をして突っ立ったまま、ヒューゴは続けた。 「透、明日は何か予定が?」 「ううん。何も無いよ」 「もう一度確認するけど、これからは週末はここへ来るんだろ?」 「そのつもりだけど……?」 ヒューゴはボトルとグラスをコーヒーテーブルに並べると、ゆっくりと低く話し始めた。 「ね、透。僕は全ての休日をキミと過ごそうとしているんだ。知ってると思うが、僕は月曜も休みだ。透さえよければずっと居てほしいし、用事があるのなら好きな時に帰ればいい。時間なんて、僕らの間ではどうでもよくないか?」 「そういうもの?」 「そういうもの。来られない週末は教えて。それだけでいい」 ヒューゴはよく冷えた白ワインをグラスに半分ほど注いでくれる。 「明日は自転車を見に行こうよ。おれ、休日の趣味はそれくらいしかないから。一緒に走ろう」 そうすれば、おれの時間もヒューゴと過ごせることになるよな。 「ん、もちろん」 「じゃあセサミのクッキーはいただきますね」 おれは最後の1個になっていた香ばしいやつを素早く取り、少しだけ齧ってからワインを口に含む。 チーズの塩気が強くて、予想していたより遥かにワインが進む。1枚で1杯は楽勝だな、なんて思いながら飲んでいると、ヒューゴがおれの頬をすっと撫でて、ふんわりと微笑んだ。 「おいしい?」 おれはこっくりと深くうなずいた。 優しい手が心地よくて、もう少し、触れていてほしいけれど。ヒューゴの休日と最後のセサミクッキーを貰っておいて、そんなわがままは言えないな。 そうしてヒューゴとの週末の付き合いが始まった。 まるで学生の頃に戻ったような、友人との密な時間が心地良い。 だいたいが映画を観て、飲んで、自転車でサイクリングロードを流したり、ヒューゴが「市場調査」と呼ぶ話題の店へ出かけることもある。 おれは寝床としてリビングのソファを使わせてもらっている。大きさはおれには十分すぎるくらいだし、なにより弾力が適度にあって柔らかく、自宅の自分のベッドより快適に眠れるから。 無論ヒューゴはベッドを勧めてくれたが、おれが入り込むとヒューゴもシングルベッド1つ分のスペースとなってしまうから、そこは固辞した。ベッドで寝るのは、ヒューゴがソファで寝落ちしてしまった時くらい。 元々が寮生活だったせいか共同生活は苦にならない。でもそれ故に一人の時間が貴重だと思っていたし、社会人になってからも一人でなんでも楽しめると思っていた。 それが今では、平日のヒューゴがいない時間を少し物足りなく感じるほどだ。でも週末は必ず会えるし、平日だって店に行けば居るんだ。その安心感は何事にも替えられない。

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