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第10話 だが嵐は突然やってくるもので。

週末が明けて月曜、いつも通りに出社してメールアプリを起動すると、Urgentと書かれた件名が目に飛び込んできた。 差出人は現在開発を任せているインドのベンダーだ。 念の為読み直して、速水君に転送する。 メールの内容は悲惨なもので、先方の従業員の大半がボイコットを始めたとのことだった。あちらのプロジェクトマネージャーから、コアエンジニアたちをどうにか説得しに来られないか、という懇願だった。 炎上した原因は他社案件らしいが、ボイコットしているエンジニアたちは弊社のプロジェクトにもアサインされているため、こっちは完全にとばっちりだ。 「高屋さーん、俺行けるよ!」 そう言いながら速水君は開いている打ち合わせスペースを指さした。 今日は一日2人で籠もり、航空券の予約やらスケジュールの調整だ。 とにかく早く行って早く帰るをモットーに、明日出発のコルカタ行きを予約した。帰りは終わり次第すぐに帰れるよう、オープンチケットだ。 インドの方には直近の作業のためにこちらから開発担当者1名を連れていくと返信した。もちろんボイコット組の説得役はおれだ。 こっちは納期重視の日本社会だ。うちの案件だけでもやってもらわないととんでもない被害になる。おそらく先方のマネージャーはそれを見透かしていて、おれに連絡してきたのだろう。 それにしても、他社は何をやらかしたんだろう。経験上、インドの会社は大抵のことでは怒らないはずだ。 翌朝5時。 成田空港でカツサンドを食べながらコーヒーを飲んでいると、速水君に「マジ面倒でしょ」と同情される。 「うん。でも『呼んだけど来なかったから納品できませんでした』ってこっちの落ち度にしかねないからね、彼ら」 「あるある過ぎ。だから海外に仕事頼むのしんどいんだよなあ」 速水君は伸びて大あくびする。本当にその通りだ。 「日本に頼める先があればいいんだけど、技術力がね。速水君レベルのエンジニアはレアだもん」 「あ。褒めてくれるんだ。窓際座る?」 「おれ通路側派」 飛行中、おれたちはエコノミーの狭い座席で足腰を強張らせながら、「ま、めったにないことだから」とお互いを励まし合った。 デリーで国内線に乗り換え、コルカタ空港に到着する。 「あっっっちぃ!!高屋さん!!」 「速水君はインドは初めて?」 できるだけ冷静を装いたく、ヒューゴの物言いを真似てみる。あいつ常に涼し気な感じするもんな。 「初めてだよ!!40度超えてんじゃん!!なに、高屋さんインド詳しいの?」 「いや、初めてだし、正直もうこのまま引き返したいよ!なんでこんなに混んでんの?」 残念ながら、おれには到底クールな振る舞いはできないようだ。 ねっとりと生暖かい空気が苛立ちを加速させる。 空港内は大混雑で、うねった大行列で埋め着くされ歩く隙間もない。一体何をどうすればこんな行列ができるんだ。 人をかき分けてようよう外に出ると、いきなりの土埃。 「とりあえずホテルに移動しよう!終わり次第さっさと帰る!暑すぎる!」 四方八方から鳴らされるクラクションがうるさくて、叫ばないと会話が成り立たない。 ホテルは壮観なビクトリア調で、こんな良い所もったいないなと思うほどだった。何枚も写真を撮ってしまう。 帰ったらヒューゴに見せなきゃ。いろんな国のことを知っているようだけどインドの話は今のところ出たことがない。 エントランスの床の天然石はよく磨かれていて、高い天窓からステンドグラスを通して差し込む光りを照り返している。美しい建物だ。 ただ、いざ部屋に入ってみるとwifiは全く使い物にならず、水回りもこれでスイートかと疑うレベルの粗末さだった。 とはいえ、掃除は行き届いているし、デスクやベッドの大きさも十分だ。ルームサービスもちゃんとある。お湯は出ないが、どうせ暑いんだから水シャワーで構わない。 さっそく常温の水シャワーを浴びて、Tシャツとハーフパンツに着替える。 ベンダーの拠点はホテルから遠くなく、すぐ移動できるようフロントにタクシーを頼んでおいた。 土埃をわんわんさせながらタクシーは未舗装の道路をすごい速度で走り、突然道幅が広くなったかと思ったらすぐに停車した。 先方の会社が入っている建物前に到着したらしい。 タクシーのドライバーによれば、この辺りはIT企業が集まっている特区になるらしく、街なかとは異なり真新しい人工的な建物だけで構成されているらしい。 ファストフードの店も一通り揃っていて、インドらしさはないが利便性は高そうだな。 エントランスにはすでにマネージャーのクリシュナが待機していて、それはそれは大歓迎だった。 さっそくセキュリティカードを首にかけられ、オフィスへ案内される。専用のデスクまで用意してくれているらしい。 速水君は荷物を置くやいなや、すぐに会社に残っているエンジニア数名と作業に取り掛かっている。本当に頼もしい限りだ。 こちらはまず、PMのクリシュナから各個人に電話を入れてもらう。 通話がつながった相手には、「君を必要としている人が日本から来ている」と伝えてもらい、おれが今までの協力の感謝と、これからも頼りにしていることを熱意を持って話した。 多くのインド人は誇り高く、賢く、正しい判断ができる。きっと何名かは戻って来てくれるだろうが—— ただ、部長からはリスク回避が最優先だと指示されている。 戻ってきたとしても、人数がプロジェクト遂行に満たないと判断されたら、このベンダーとの契約は終了することになっている。 弊社としてはそっちの線を有力視していて、2、3日で結論が出なければ終わりだ。 それをおくびにも出さないで相手を説得するわけだが、正直、罪悪感がある。 おれの弱い所だと自覚はあるんだけど……。 ま、クリシュナも気付いているだろう。今日明日で何人戻ってくるかが勝負だ。 初日はそれだけでもう夜となり、クリシュナの招待でレストランに行くこととなった。ここらで一番旨い店だと聞かされ、期待が高まる。 「ウェルカムウェルカム!」 ウェイターは大げさに両手を広げておれたちをテーブルに案内した。 ビュッフェ形式の高級レストランで、あちらこちらに大輪の派手な花が飾られている。 ウェイターによれば、だいたいが北インド料理で辛さはマイルド、一応パスタやサラダなどイタリアンもあるらしい。 「果物は大丈夫?」 美味そうに熟れたマンゴーを横目に見ながら尋ねると、クリシュナは首を縦に振った。 「カットされているものは止めておいた方がいいヨ」 Yesが首をヨコに振り、Noが首にタテに振るという我々のジェスチャーとは逆だ。知識では知っていたが、実際目の当たりすると混乱する。 混乱 ——まさにインドを表すに相応しい言葉だな。 翌朝、ホテルの自動モーニングコールでおれは飛び起きた。なんて爆音だ。 シャワーを浴び、洗濯サービスの袋に昨日着ていたものを全て突っ込む。 1階のレストランでは朝食が始まっているはずだ。 リュックに身の回りの物を詰め、最後に充電器に繋いでおいた携帯電話を…… 「ない!?」 デスクの上には何もなかった。念入りに床やデスクの裏側、ベッド下も見てみるが見当たらない。 部屋を駆け出して速水君の部屋をノックした。 「携帯が無い!寝る前はあったのに」 「マジで言ってる?とにかく一緒に探しますよ。部屋のどこかに落ちてるでしょ」 家具類を動かし、カーペットも捲って、徹底的に探したがスマホはどこにも見当たらなかった。 「オレも高屋さんが携帯持ってるの見てたから、間違いないね。これは……やられましたな」 「やっぱそうかぁ」 どうやら寝ている間に侵入されたようだ。 就寝前にふと思い立って枕カバーの中に入れておいたパスポートを確認する。こちらは無事だ。こういうのを虫の知らせって言うんだろうか。 「とりあえず朝食行ってから考えるよ……」 社用携帯とPCは昨日ベンダーに置いてきているが、自分の物には無頓着だったのが原因だ。 まあでも、最新機種でもないし、ここは勉強代ということで忘れるしかないだろう。 速水君と同じキャリアだったのが幸いして使用停止の連絡は簡単にできた。ただ、盗難証明書の提出をするよう強く求められた。10年以上使ってきた番号が変わるのも面倒だし仕方がない。 滞在1日で、もうヒューゴに話せるネタができちゃったな。 会社に到着し、クリシュナに相談すると現地の警察へ同行してくれることになった。顔見知りがいるらしい。 「タカヤのおかげで、今日は6名が出社してきました!ありがとう友よ!」 ボイコットしているエンジニアは10名で、全員が弊社のプロジェクトに関わっていた。半数超がすぐに戻ってきてくれたのは幸先が良いといえる。 もし明日までにあと2名戻ってくれば、契約終了にはならないだろう。 皆、話をするととても優秀なことが分かる。当然ながら炎上した他社プロジェクトとは切り分けて考えてくれ、できる限り急ぎて作業を再開してくれることになった。 おれはクリシュナをせっついて警察署へ連れて行ってもらい、盗難届を申請した。書類は英語だったが会話は全く理解できない。 「1週間ダネ」 「ええ!?」 「最優先で進めるよう割り込んだから、1週間後には受け取れますヨ。とっても早い!」 だめだ、時間の感覚が輪廻転生基準だ。 「すごく助かります。でも念の為に聞くけど、もしかして1週間より早くなるなんてことは?」 「どのみち、こっちも時間がかかるでしょう。ホテルも長期滞在のつもりで選んでおきましたので」 警察からの帰り道、ガタガタと揺れる道を器用に運転しながらクリシュナが言った。 「そんな……」 どうしよう。 おれ、ヒューゴに連絡してないぞ……。 「街で一番良いホテルですが、こんなことになって申し訳ないですね」 そう肩をすくめるクリシュナに、「自分のミスだから」と言うと、「インドでも『盗まれる方が悪い』と言う人がいますが、そんなことはないですよ」と慰めてくれた。 インドに来なければこんなことにならなかったんだが……。ま、久しぶりの海外で気が緩んでいたな。 会社に戻ると1名が退職届を送ってきたと報告を受けた。残り3名、個人面談まで漕ぎ着ければ、説得する自信はある。 おれは一旦ホテルに帰り、策を練り直すことにした。万が一残りの3名もロストした場合にどうするかだ。 腹が減ってはなんとやらで、ルームサービスのメニューを開く。見開きで写真も載っていて解りやすく、写真のないものにはWetまたはDryの記載がある。汁気があるものはWet、そうでないものはDryらしく、大変に親切だ。 左ページはインド料理だと分かるが、右ページが中華風に見える。焼きそばや餃子の大きいやつやら、あと角煮みたいなものも。 ミャンマー辺りからの料理人がいるんだろうな。 何事も時間がかかることを思い出し、急いでフロントに内線をかける。 なかなか出ないなと思っていたら、コンコン、とドアをノックし「ルームサービス!」の呼びかけ。おい電話の使い方間違ってるだろ。 注文を取りに来たスタッフは丁寧にも、長期滞在客はメニューには載っていないものもその日の材料次第で提供できると教えてくれた。 飯が旨いなら多少の延期もアリだな、とおれはさっそく状況を前向きに捉えはじめていたが、あらためて『長期滞在』と聞くとハッとしてしまった。 1日目はボイコット組にコンタクトを取り、2日目は6名が帰還、エンジニアのボイコットなんて異例中の異例だ。他社でよかったとは言え、明日は我が身だ。温和な彼らをここまで怒らせるなんて、一体何があったんだろう。 しかし、すぐ6名帰ってきちゃったんだもんなぁ。おれのつたない英語が同情を誘ったか。 とにかく進行不能に陥らなかった以上なんとか継続させなければならないし、同時に、ボイコットが再発してポシャった場合に備えて、別の手も必要だ。 おれはリストアップしたアイデアの中で最も有効と思えるものに星印を付け、あとは速水君と検討することにした。 ベッドに横になり、手帳を広げる。しかし書いた覚えが無いものは当然無いわけで…… 「……ヒューゴの連絡先、わっかんねぇんだよな」とおれは独り言ちた。 来られない週末は知らせてほしいと何度か言われていたし、当然そうすべきだ。 おれは性格的に、相手が店だろうが人だろうが関係なく、連絡無しでキャンセルすることができない。連絡ありのドタキャンすら相当悩むタイプだ。 ふと日本で財布にいれておいた名刺が思い浮かぶが、出張に際して私物はクレジットカード1枚と現金とスマホしか持ってきていない。 電話番号なんて自分のもの以外暗記していないし、そもそもヒューゴは店に行けば居るわけで、わざわざ連絡取ったことなんてあまりないんじゃないか……? 「あっ」 そうか、店の固定電話ならネット上に…… と勢いよく起き上がったものの、またバタリとベッドに突っ伏す。営業や迷惑電話が頻繁にかかってくるせいで、もう番号も載せていなければ電話機も外してあるんだった。 SNSもやっていない隠れ家バーの弱点……ではないな。 出張の知らせを怠ったおれの落ち度だ。 おれは、いつでもヒューゴに会えることにあぐらをかいていたことを自覚して、猛烈に反省した。 連絡が取れなくなる日が来るなんて—— 微塵も考えたことがなかった。 とにかく仕事を終わらせて早く帰国するしかない。この際、盗難届が間に合わなくてもかまうもんか。 翌日にはさらに2名の帰還があり、人材は8割の確保。 その上、部長と営業の遠堂君の功労で、発注元が納期を延期してくれることになった。 弊社との契約が続行することが分かり、マネージャーのクリシュナは握手だけでは足りないと、おれに熱いハグをくれた。 はるばる来て携帯を盗まれた甲斐があったというものだ。 まあ、今から自社の開発部門に文句言われながら引き継いでもらったり、別のベンダーを探すのも恐ろしい手間だから、万事順調と言えるだろう—— しかし、体制の立ち直しのため、おれたちの出張はたっぷり1ヶ月に延期された。

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