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第11話 きみがいない世界なんて
毎週金曜日は、透が夕飯を食べに来る日だ。
喜んでくれそうなメニューを考えるのが楽しくて、コストパフォーマンスは度外視。そのせいで、金曜日はランチの材料も豪華で凝ったものになる。
ちゃっかり気付いているお客さんもいて、金曜は固定のランチ客が多い。
普段のランチ営業はアルバイトに任せているが、金曜だけは、夕飯の下ごしらえのついでに調理は僕が担当する。
今週はシュヴァインブラーテン&クロース。ドイツ人の祖母から教わった、僕の得意料理の一つだ。
——ドイツ料理は、最初に透が店に来てくれた日を思い起こさせてくれる。
あの日は涼しい風が良く通って、まるでヨーロッパの夏の森のような爽やかな日だった。苔の青い香りと野鳥の声を思い出していると、どうしてもドイツ料理が食べたくなって、昼下がりのカフェ営業のさなか、こっそり調理していたんだ。いつもはサンドウィッチなんかで簡単に済ますから、自分用に温かい料理を作ることは滅多にあることじゃない。
コロン、とベルの小気味よい音と共にドアが開いた瞬間。
まるで凛と澄んだ湖に飛び込んだような、眩しいくらい白い光を感じて。
何事かと驚いて振り向いたら、そこに遠慮がちに、でもしっかりと「あの時のキミ」が立っていて。
何度でも、思い出す度に言葉にできないほどの幸運に胸が一杯になる。
クロース用に乾燥させていたパンをちぎり、オニオンを刻む。ソテーしたポークは昨夜からスープに漬けてあるから、ナイフがいらないほどジューシーに仕上がっているはずだ。
食べてくれる相手のことを想像しながらの料理の時間ほど、楽しいものはない。
透は僕が作った食事をなんでも美味しいと言ってくれるが、特にヨーロッパの料理が口に合うようで、なかなか良い食べっぷりを見せてくれる。元が陸上選手だけあって代謝がいいのか、太る心配も無さそうで、食べさせ甲斐がある。
それに、お腹を空かして店に来る透は、とてもかわいい。
金曜の夜はたくさん飲むから、悪酔いしないようにしっかり食べさせないと。
ランチタイムが捌けて、バータイムまでのんびりと店で過ごす。
客が続くようならばカフェメニューを出し、気配がなければ閉めてもいい。半分営業の状態だ。
透が来るのはいつも19時頃だから、それまでにクロースを茹でるだけの状態にしておく。
しかし……
その日は、22時を回っても、透は姿を見せなかった。
僕はそのまま店に残り、透を待つことにした。
いずれにせよ金曜は朝方まで一緒に飲む習慣で、そのうち顔を出すだろう。
仕事でトラブルでもあり、連絡する間もないほどの忙しさかもしれない。
深夜に一度だけ電話を掛けてみるも、電源が入っていないか電波が届かない……というアナウンスが流れた。
透も大人の男で、しかも酒が好きだし、一晩くらい連絡がつかないことがあっても不思議じゃない。僕個人の感情で言えば、僕以外の誰かと過ごす夜はあってほしくないが……透らしくないとは思った。「行けない」と一言くらいメッセージを送ってくれればそれで良かった。
しかし、日が高く昇ってからも、透からの連絡はなかった。
僕がなにか透を不愉快にさせるような発言をしただとか、自覚のない不手際があってのことだろうかと、少し思い返してみるものの、彼が不快に感じているような反応をした記憶はなかった。
気付いていない可能性もあるだろうが……
いや、僕が理解している限り、透は公平に相手と向き合うはずだ。こんな一方的な行為は、透の人間性からかけ離れている。
先週は、いつも通り土日は僕のマンションで過ごし、透は日曜の夕方頃にロードバイクで自分のマンションへ帰った。
僕らは、まめに連絡を取り合うことはしない。
週末はもうずっと僕と過ごしてくれているし、稀にだが週の真ん中あたりでふらりと透が店に顔を出すこともある。よほどのこと—— 正月に実家へ帰るなどの特例的な用事を除いては、毎週必ず会って、飲んで、食べて、喋って、多くの時間を共有している。
だから、電話やメッセージを使う必要性がなくて。
一体、いつから携帯が繋がらないのか。
それが昨日今日じゃない可能性に気付いて、僕は血の気が引くという感覚を初めて知った。手足が急激に冷たくなり、携帯を持つ手がかじかむように細かく震えていた。
それから毎日、折を見て電話を掛け続けた。
でも毎回同じアナウンスが流れ、留守電にすら繋がらない。
いてもたってもいられなくなり、透のマンションまで車で向かったりもしたが、どこか頭の片隅で、もしこれが透の意思だとしたら……という恐れが拭いきれず、マンションの前を通り過ぎることしかできなかった。
透の会社は分かるものの、僕に何ができようか。個人情報など聞き出せるわけもなく、ただ不審に思われて終わるだけだろう。
待つことしかできないのだと分かって、僕は、ただ店に居続けた。
***
2週間が過ぎても、透は店に現れなかった。
今日は15日で、透が初めて店に来てくれた日付だ。僕にとってとても大切な記念日で、毎月何かしら小さいデザートを用意しておいて、透が来ない日であっても一人でひっそりと祝う。
再会できた瞬間の喜びは、何度思い出しても震えるほどに感動する。
しかし、今日は——
僕は、透が以前食べたいと言っていたピスタチオとラズベリーのマカロンを持って、彼のマンションへ再び出向き、とうとう意を決して部屋番号を押した。
もし在宅していて、何しに来たんだと言われたら ——この甘いフランス菓子を渡したかったからだと言えば話をしてくれるだろうか。
だめだ。期待はしないほうがいい。
2度、3度呼び鈴を押しても、応答は無かった。
僕はその足で、諒子のマンションへ向かった。
よほど憔悴していたんだろう、諒子が僕を迎え入れる態度は、まるで妹から姉に変わったかのようだった。
僕の話を聞いている間、彼女は終始信じられないという顔で、全て否定するように首を横に振っていた。
「あの責任感の塊みたいな透君が?信じられないよ」
「もしかして、僕の好意に気付いて……腹を立てているとか……」
自分でも嫌になるほどネガティブな思考だが、諒子は真っ向から否定してくれた。
「それ、本意で言ってないよね?」
「優しさによる無言もあるだろう?僕は、透にまだ何も伝えられていないんだよ。否定する機会を与えてあげられていないんだ。だから——」
「分かるよ。でも私が見る限り、彼からヒューゴに嫌悪感なんて微塵も感じられない。それに、理由がなんであれ、バイトをしてくれている彼から連絡が途絶えるなんてことは絶対に考えられないのよ。とにかく、物理的に連絡ができない状況にいるのは確かだと思う。ヒューゴに何か原因があるなんて、考えるだけ無駄よ」
「それなら……病気や怪我で……」
「そんなばかな」
諒子は突然明るい声で、「子供じゃないんだから心配することはないんじゃない?」と笑い飛ばした。が、その顔には消しきれない不安が滲み出ている。
透と僕の間には、明確な約束事は何もない。
そうなるようコントロールしていたのは、おそらく僕だ。透が自発的に店や家に来てくれることを暗黙の了解として。
いつか。
そのうち。
少しずつ。
もしキミさえよければ。
と、気長に構えているように見せかけて。
でもそれはただ、拒まれることを怖がっている自分を騙していただけだ。
友人のままでいい、なんて大人のふりをして、逃げて。
——この、奇跡的な再会を失うくらいなら。
僕は、高校時代に透に出会っている。
一方的な出会いであるから透は知らないことで、まだ話していないし、話す機会がこないままかもしれない。
交換留学生として選抜され、7年ぶりに日本に帰って来た僕を待っていたのは、もう僕は日本人でないという辛い現実だった。
だれもが自分をガイジンとして扱い、理解してくれる教師もおらず、絶望した留学生活だった。
そんな日々の中、僕は透を見つけた。
毎日何時間も練習し、失敗してもまた挑み続ける姿は当時の僕とは正反対で、とても美しかった。
そしてある日、放課後のトワイライトの中、とうとうポールを飛び越えた彼。
あの笑顔に魅了されてから、どれほどの歳月が経ったと思っているんだ。
このまま、もう二度と会えなかったら……
頭をよぎるだけで、吐き気がする。
また店に来てくれるようになるまで、待てば良いんだ。
たとえ、今度こそ、それが永遠の時間だとしても。
それからも、休むことなく店に出続けた。
仕事終わりの諒子が毎日寄ってくれて、客に対しても、僕に対しても、今までにないほど酷く明るく振る舞ってくれているのがありがたかった。
何も食べられず、酒も飲めず、ただただ働いている姿は、透がよく言っていたアンドロイド状態だったと思う。
ただ、店のドアベルが鳴る時にだけ人間に戻り、心臓が破れるほど期待する。
体内に巣食っていく悲しみで、気がおかしくなりそうだった。
***
———それは、透と連絡が取れなくなって4度目の週末、夜の営業が始まってまもなくの時間だった。
聞き慣れたドアベルの音が、ザクリと心臓に刺さる。
客商売のため無理矢理に笑顔を作ったが、透かもしれない期待と、わかりきった絶望の痛みで、僕の顔はひどく醜く歪んでいるにちがいなかった。
それでも顔を向けると、そこに——— 透がいた。
日に焼けて、少しやつれている様は、まるで陸上をしていた頃そのままのようで、僕はついに幻覚が現れたかと自分の目を疑った。
透は、ドアを開けた手をそのままに、僕を見て少し立ち止まっていた。
全身からこれまで見たこと無いほどの疲労が色濃く滲んでいる。
すぐに連れがいることに気付いたが、よく来店のある見知った顔であったし、雰囲気からしてビジネス上の関係なことは明白だった。
どこに行っていたの?なにがあったの?
安堵感で崩れ落ちそうな身体を奮い起こし、なんとか席に案内し、注文を取る。どういう関係の連れにしろ、透に迷惑をかけられない。
一通りの接客を済ませると、急く気持ちを抑えて、僕は透を店のパントリーへ呼び出した。疲労を隠すように、同行した女性の話を聞いている姿が、見ていられないほど痛々しい。
パントリーに入ると、透は奥の方で身を小さくして、微動だにせず立っていた。
少し気まずそうに、でも僕の好きな透のアーモンド型の目は優しくうるんで、キラリと輝いている。
近寄ると、透がかすかに唇を開き——、僕の名を呼んだ。
僕は、本能だけで透を掻き抱いた。
キミが居ない世界なんて考えられない。
愛している。
愛している。
胸がギリギリと痛い。
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