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第12話 抱擁

成田空港に到着し機体から外へ出た瞬間、ねっとりとした夏の湿度が纏わりつく。気温はインドに比べると低いとはいえ、湿度の高い日本の夏は不快で、この1ヶ月で疲労がピークに達した身体に強烈すぎる。 速水君は奥さんへのお土産として現地で買った純金のネックレスをしっかりと握り、空港から自宅へ直帰した。 おれの方は、先に面倒な報告なんかを全て終わらせておきたく、そのまま出社することにした。どうも性格的に何か気がかりがあるときちんと休めないんだよな。携帯電話のことと、部長への報告と。 「おれ、インドなめてたよ」 昼すぎにオフィスに着くやいなや、おれは第一声でそう告げた。 「ひゃー高屋さん日焼けしてる!あ、痩せた?」 デザイナーの阿部ちゃんに指摘される。 「飯は美味かったんだけど、暑いのなんの」 体重の増減は分からないが頬が痩けたような自覚はあった。食ってはいたが、慣れない環境で心労もあり、身体が通常よりもエネルギーを消費したのだろう。 まずは部長に帰国の報告をすると、納期が2週間延期されるのは確定で、先方からは特に苦言もなく協力してもらえたとのことだ。 「高屋君、本当にごくろうさま。本番稼働したら盛大にお疲れ様だね」とのねぎらいに安堵する。詳細についてはレポートに整理し、改めて報告すると告げて部屋を出た。 その足で給湯室にお土産の紅茶を置いてから、携帯電話の手続きをするため一旦会社を出た。 ……今日は這ってでも店へ顔を出さなければ。 話したいことがたくさんあるよ、ヒューゴ。 駅前で携帯電話の手続きを終え、開通するまでの数時間は社に戻ってぼちぼちと旅費精算でもしよう。まず腹ごしらえにコンビニに立ち寄り、おにぎりを幾つか購入する。 インドではホテルのルームサービスに満足できていたが、それとこれとは別だ。久しぶりの日本の米に浮かれ足ながら社屋へ戻り、エレベーターのボタンを押す。 「あの……あの、すみません」 ずいぶん控えめなトーンで声を掛けられた。振り向くと、なんとなく見覚えがあるような女性が少し困ったような顔をして立っている。 「はい?」どこで見たんだっけ…… 「私、1階の南波と申します」 「ああ、ショールームの」 「大変失礼なお願いなのは承知の上なのですが……」 「なんでしょう」少し身構える。 「先日、お見かけして、あの、公園の近くのカフェバーで……」女性もとい南波さんは意を決したように顔を上げた。 「今夜、私と一緒に行ってもらえませんか?」 正直、面食らってしまってどう反応していいかわからず言葉に詰まっていると、南波さんは「ダメでしょうか……?」とおれの腕を掴み、懇願の表情で見上げてくる。 「ちょ、ちょっと、外で」 おれは急いでエレベーターホールから裏口へと誘導する。こんなところを監視カメラで見られたら、誤解されかねない。すでに警備員室にいる守衛さんから怪訝な目線を投げられている。 公園の近くのカフェバーといえばヒューゴの店だろう。 よりによってどうしてこのタイミングなんだ。 「すみませんが、今日は難しいかと……後日なら」 しかし、「少しでいいんです。お願いします!」と、深々と頭を下げられてしまった。 「そもそもどうして僕なんですか?」 南波さんは少し戸惑いを見せたが、事情説明はすべきだと気付いたんだろう。 口元にキュッと力が入ったのが分かる。 「以前、働いてらっしゃるところをお見かけして」 「あー…、なるほど。たまに手伝う程度ですが」 「私、実は異動で、今日が最後の出社日なんです。転勤を伴うので……。もっと早くにお声をかけようと思っていたんですが、お見かけしなくて」 そうね、おれインドで行ってたからね。 「あのオーナーさんと、お話させていただけないでしょうか?」 南波さんは90度近く身体を曲げて頭を下げた。 「いやぁ、ちょっと今日は、僕も出張から帰ったばかりでして」 「どうかお願いします!もう今日しか……」 おれはため息をついて肩を落とした。仕方がない。 「では、19時頃にここで」 そう南波さんと約束をし、社に戻って旅費精算などしつつ携帯が開通するまで時間を潰した。 まったく自分のお人好しさに辟易する。 泣かれては困るという保身があったのは事実だが、それよりも同情心のほうが上回ってしまった。 もしおれが同じ立場なら——そんなの、想像すらしたくない。 この1ヶ月間でさえ、もう限界だと自覚したところだからな。 新しい携帯電話を駅前で受け取り、とんぼ返りで社屋の裏口に戻ると、すでに南波さんは人待ち顔でそこに立っていた。 道すがら軽く自己紹介をして、自分はすぐに帰ると断りをいれておく。ヒューゴと話すきっかけさえ作っておけば義理は果たせるだろう。 「いつもは会社のみんなで行くルールなんです。でも、私、どうしても最後にお話したくて」 「へぇ、そんな決まりがあったんですね」 抜け駆け禁止ねぇ……。なかなか鉄の掟じゃないか。ルール遵守のために異動まで待ってたんだとしたら真面目だな。 「行動しないより、行動して後悔する方がいいんです、私」 「すごいですね」 潔く頭を下げたシーンを思い出す。よっぽど決心したんだろうな。 「単なる開き直りです」と、南波さんは自嘲した。 「カウンターで話ができればいいんですか?」 「はい!ちょっとした、日常会話でも、何でも」 店が近づくにつれ、おれもそわそわと身体が浮つく。 1ヶ月の出張なんて大したことじゃない。でもおれはこの1年間、毎週ヒューゴに会っていたんだ。5日間以上空けたことがないくらい密に。 無くして初めて分かる、なんてよく言われているけれど、愚かにもその通りだ。 *** 店に到着し、ドアをゆっくり引いた。コロンといつもの鐘が鳴り、おれの心臓も期待でドクリと大きく鳴った。 鐘の音で振り向いたヒューゴが、大きく目を見開いたのが分かった。 なんて顔してんだよ、せっかくの美貌が。いや、笑顔ではあるが、そんな白い無機質な笑顔は見たことがない。 焦燥感と、一人で来られなかった後悔とが混ざり合って、おれは何も言い出せず、その場に立ちすくんでしまった。 おれは、ヒューゴと1ヶ月会えなかっただけで、こうも焦がれている。 ヒューゴの動作も止まっていたようだが、でもそれは一瞬のことで、突然生気が戻ったようにハッとするとおれの後ろにいる女性に目線をやった。 「いらっしゃいませ」 ヒューゴは空いているテーブル席を示してくれたが、俺はカウンターを希望した。 「私、カウンターに座ってみたかったんです。でも、なかなか勇気が無くて」 南波さんはさっきおれと話していた時より2トーンくらい高い弾んだ声で答えた。 ヒューゴはおしぼりを彼女の前に置きながら、 「大丈夫。取って食べたりしませんよ」と、低く優しく囁いた。 カウンターに座る女性客相手にこんなこと言ってるのは今まで見たことがないが。 (彼女は取って食われたいんだけどね)と頭の中だけで茶々を入れて、グラスの水を少し飲む。ライムの爽やかな香り。 ふと南波さんを見ると、耳まで真っ赤にしてうつむいていた。 飲み物とつまみを注文してから、南波さんをヒューゴに紹介する。といってもおれが知っているのは名字だけだが。 ヒューゴも名前だけ名乗り、飲み物を出し終わるとキッチンへ消えた。 一応、おつかれさまです、と小さく乾杯する。 南波さんはヒューゴの消えた方向を見ながら、「素敵ですよね」と。 さっきのアレでトドメ刺されたよな。誰だって、もしヒューゴにあんな風に低く優しく囁かれたらきっと震える。 なんて、南波さんと同じ立場で同調してどうするんだ。 いつものうまいモスコミュールを一口啜り思考を仕切り直す。 「彼のどういうところが好きなんですか?」 南波さんは飲みかけのグラスワインを半分以上一気に飲んでカウンターに置く。 「そうですね……。私、大好きな本があって」 おっとそうきたか。 「どんな本なんですか?」 南波さんは誰もが知っているファンタジーノベルのタイトルを言った。映画化もされいる世界的に知られた物語だ。 「物語の登場人物なのに、あれが私の初恋だったと思います」 ヒューゴの外見なら、まあ、エルフ族のことなんだろうなと想像がつく。おれはアンドロイド的なものかと思っていたけれど、言われてみるとそっちの線もあるな。 「子供の頃に想像していた通りの人がいて、驚いてしまいました」 チャームのオリーブを食べ、おいしい、と呟く。 「先月、同じく異動になる同期と2人で飲みに来たんです。カウンターに座って声をかけてみようって盛り上がって。そうしたらカウンターが満席で…… そこで、高屋さんが一緒に働いているのを見まして。お顔は存じてましたから。 とても楽しそうだった。私もあんな風に仲良くなりたい、と思ってしまったんです。それまでは本当に、ショールームのみんなと見ているだけで満足できていたのに。欲がでちゃいました」 うるさいバイトだとして映ってたら嫌だな。 「さっき、取って食べたり、ってヒューゴさんが」 はいはい。真っ赤になってたね。 「本当に接客は丁寧なんですが、ある意味マニュアル通りというか。ああいう軽口みたいなことは一切無かったので、驚いたけど嬉しかった」 思い出したのか、南波さんはまた微かに赤くなっている。 そこへ、南波さんが頼んだ野菜のピクルスを持ってヒューゴがカウンターに戻ってきた。 「お待たせしました」 そして空いているグラスに気付き「お飲み物は?」と問いかける。 「ああ、ええと」 南波さんは慌ててメニューを開いてピーチフィズを注文する。 「かしこまりました」 ヒューゴは手元の伝票に書き込むとおれに向き直った。 「透、ちょっと奥へ」 笑顔はなく、冷たく光る目で見据えられ身が引き締まる。 「すみません、何か用みたいなので」 南波さんに軽く断りを入れてから席を立ち、キッチンを抜けパントリーへ入る。 部屋の奥で待つ間、おれは、どうヒューゴに声を掛ければ良いのか分からなくなっていた。口を開くと、連絡ができなかったことへの謝罪よりも、ヒューゴに会いたかった気持ちが溢れそうで。 会えない間は、何かが足りていない感覚がずっとあったんだ。それはとても不自然で、おれは違和感に苛まれていた。 早く2人の週末に戻してくれよ。 ほどなくしてパントリーのドアが空き、ヒューゴが向かってずかずかと歩いてくる。 その勢いに思わず身をすくめると、両肩がぐっと掴まれた。 「……待ってた」 全身から絞り出すような声でそう言うと、ヒューゴはおれの身体を思い切り引き寄せ、強く抱きしめてきた。 2人の間に微塵の隙間も許さないように。 背骨がきしむほど締め付けられているのに、優しくて、温かい—— 「後で迎えに行く。今夜はもう帰って」 ヒューゴはそう告げると、おれから自分の身体を引き剥がすにして、パントリーを出ていった。 身も骨も通り越して、魂を掴むみたいな抱擁だった。 辺りには微かにヒューゴの香水の匂いが残っていて—— 立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んでしまった。 なんとか気を取り直してカウンターに戻ると、ヒューゴと会話を楽しんでいるようだった南波さんが「あ、おかえりなさい」なんて無邪気に声を掛けてくれる。 テーブル席の方から呼ばれてヒューゴがカウンターを去り、おれは飲みかけのモスコミュールはそのままで、席に現金を多めに置いた。 「すみません。本当に出張帰りなもので、僕はそろそろ帰ります。ごゆっくり」 「あ、ありがとうございます!」 南波さんは小さく、でも力強く感謝を込めて返してくれた。 異動先でも、お元気で。 店を出る時にヒューゴの視線を視界の端で感じ、それだけでカッと身体が熱くなってしまい急いで扉を閉めた。 階段を降りきると、ちょうど目の前にタクシーが停車した。運転手が開いたドアから「ご予約の?」と名前を聞かれる。 ヒューゴが呼んでくれたのだろう。どこまでも気が利くやつ……。 帰宅して荷物をどさりと玄関に落とすと、一目散に浴室へ向かった。 夜に停電しないし、蛇口からは当然のようにお湯が出る。当たり前だけど当たり前じゃないんだなと気付けたことはインド出張で唯一の収穫かもしれない。1ヶ月、本当にきつかった。 身体が鉛のように重く、ソファに倒れ込んで『携帯復活した』とだけヒューゴにメッセージを送っておく。 目を閉じると、すぐにドロドロと眠りに引きずり込まれた。 *** 携帯の振動に気付いて、なかなか開かない瞼のまま手探りで通話ボタンを押す。 「寝てた?」 優しい声がじんわりと耳に染みる。 「たぶん寝落ちして」 「ごめん、起こしちゃったね」 「来てくれたの?」 やや間があり、「無理ならそのまま寝て。少し待ったら帰るから」と通話は切れた。 疲れなど吹っ飛びそうなほど、嬉しさで胸が震える。 急いで着替えてマンションのエントランスへいくと、路肩に藍色のSUVが見えた。 バタリとドアが閉まる音がして、ヒューゴが車から出てくると助手席を開けてくれる。 「ちょっと風に当たりたい」 おれが打診すると、「海へでも?」とすぐ応えてくれる。 おれは窓を少し下ろした。車に夜の匂いが充満する。 ヒューゴが音楽をかけ「ドライブっぽいでしょ」と微笑んだ。 シートに浅く腰掛けて身体を伸ばし、顔を夜風にさらす。 おれはしばらく無言で窓の外の景色を眺めていた。好きな曲になったのか、ヒューゴが微かに口ずさんでいる。 優しくて、ゆっくりした、心地よい時間。 窓からの夜風に少し海の匂いが混ざり始め、車は海岸線へと走り進む。 「連絡できなくてごめん」 「ん」 ハンドルを握り静かに待ってくれているヒューゴに、今回の急な出張事件をかいつまんで話した。 「3、4日間の予定だったんだよ。それに、向こうに着いてから知らせたら驚くかなと」 「それが1ヶ月に?」 「そう。本当に予測不能な障害だらけ。また明日にでも詳しく話すよ。話しだしたら今夜中に終わりそうにない」 「携帯は?」 「初日の夜、ホテルで寝てる間に盗まれた」 「え!?」 ヒューゴが弾かれたように手をシフトギアから離しておれの腕を掴み、運転席側に向かせる。「ケガは!?」 「ないない。パスポートも無事。本当にスマホだけ」 「勘弁してくれ……よりによってあんな国で」 ヒューゴはハンドルに突っ伏して安堵したようにため息をつく。 車は小林さんのジェラトリアの前を通り過ぎしばらく行ったところで、浜に降りる階段がある駐車場に停まった。 おれたちは並んで堤防に腰を掛けた。 真っ暗な海に月の光が動いて、夜なのにとても明るい。 ヒューゴが、「いい?」と断ってからタバコに火をつけた。 へえ、吸うんだ。 「おれにも」 「吸わないかと思ってた」 「お互い様だろ」 煙は海風に煽られてすぐに消えていく。 「たまにはね」 「うん」 しばらく黙って波の音を聞きながら、久しぶりのタバコを味わう。 ヒューゴはカチリと2本目のタバコに火を付け、ため息のように煙を長く吐き出すと、夜の海みたいな低く落ち着いた声で、ポツポツと話し始める。 「最初は、何か嫌われるようなことをしてしまったかと気掛かりだった」 「そんなばかな」 「身に覚えが無いこともないからね……でも透は、無言で音信不通になるような人間じゃないだろ。それくらい分かってるつもりだ。でも翌週も店に来なくて、さすがに悩んだよ。家で倒れてるんじゃないかとか、自転車で事故に遭っていたら、とか」 「うん」 想像していた以上に、心配させてしまったな……。 「もし透が入院しても、僕に連絡が来る筋はないだろ?まあ諒子にも、心配しすぎだって窘められたんだけどね」 ヒューゴは堤防に置かれたおれの手に触れ、親指で優しくなぞった。 ぞくぞくと心地いい感覚が背中まで流れる。 「僕らにはなんの約束も無いから……。また最初の日みたいに、透が扉を開けて入ってくるんじゃないかと、ただ祈りながら待つことしかできない無力さが辛かった」 重ねられた手がすこし震えていて、どれほど心配していたか痛いほど伝わってくる。 「本当にごめん。配慮が足りなかった」 おれは自分の自覚のなさを、心の底から反省した。 「透が無事ならそれでいいんだ。ただ、迷惑でなければ、泊りがけで出かける時は連絡してほしいかな。……望みすぎだろうか」 「そんなことない。今回も、出張中は毎日連絡するつもりだった。もし……ヒューゴが音信不通になったら、おれ、」 心臓がキュッと縮むような怖さを感じた。 「大丈夫。そんなことはあり得ないよ。じゃあ、明日から毎晩連絡しようかな」 ヒューゴは冗談めかして笑うと、立ち上がって服の砂埃を払った。 そろそろ帰ろうか、とおれを車に促す。 マンションに着いてすぐ、ヒューゴに続いて潮の匂いがついた身体を軽く洗い流す。 リビングへ向かうとコーヒーテーブルの上には見事な焼き色のラザニアが載った皿が置いてあって、おれは途端に空腹を思い出した。 「うまそ……」 「店で用意してきたんだ。食事もさせずに帰しちゃったからね。それに少し痩せただろう?抱きしめた時に分かった」 おれはまた体温がカッと上がってしまう。思い出しちゃったじゃないか。 「どうしておれを帰したの?」 声が上ずりそうになるのをなんとか耐えた。 「正直驚いたよ。連絡がないと思ったら、突然女性を連れてきて」 これも出張の弊害だよなぁ。タイミングが違えば、前もって知らせておけたかもしれないのに。 「おれがバイトしてるのを見かけたんだって。ヒューゴと喋らせてほしいって頼まれて」 「よく来てくれるグループだろう。同じビルなんだってね。透の立場がそれで良くなるのならいくらでも話すし、いい気分にさせる会話も多少はできる。それ以上のことは無理だけど」 トラブル対策ちゃんとしてるもんな。 「今後は、誰に頼まれても連れて行かない」 「どうして?」 「店でおまえと話す時間が減る」 「透に帰ってもらったのはね、店も、他の客も、もうどうでもよくなってしまいそうだったから」 ヒューゴはラザニアの端の焦げた所をパリパリと噛み砕いて白ワインで流し込み、「気がおかしくなりそうなくらい心配した」と軽い調子で言った。 「あのさ」 おれはフォークを置いて居住まいを正した。 ヒューゴがなんだい?という風に眉を上げる。 「これ、持っていてほしい」 おれは自宅マンションのスペアキーを取り出した。 もらってくれるかどうか不安で、正直迷っていたけれど。 ヒューゴは、おれが無言でいなくなる人間じゃないと言い切ってくれた。自分の行動から信頼が生じて、それがきちんと伝わっていることがとても嬉しい。 「本当に……いいのか?」 「うん」 「僕を信頼してくれて、嬉しい。厳重にしまっておくから安心して」 「いや、できたら使ってくれ。平日の夜でも、いつでもいいから、気が向いた時に」 おれに何ができるかまだわからないけれど、こうやって少しずつでも、信頼を積み上げていける関係を素敵だと思う。 その相手がヒューゴでよかったと心から思うよ。 飲みたい気持ちはあるけれど今夜はすぐに潰れそうで、おれは食べ終わった皿を片付け、早々に寝支度を始める。 「透、ベッドで寝たら?疲れてるだろ」 薄掛けを羽織ってソファに横になっていると、ヒューゴがキッチンから声を掛けてくれた。 「んー」 今日はヒューゴの気配があるところで寝たい気がして。「おまえは?」 「少し飲んだら寝るよ」 「じゃあここにいる」 「僕が寝室に行った後はどうするの?」 「ついてく」 「珍しいね。いつも別々に寝たがるのに」 「今日は別」 「じゃあ、もう1杯だけ飲んだら行くから。先に寝てて」 ヒューゴが頭をふわりと撫でてくれ、おれはその優しい手の余韻を纏ったまま寝室へ移動した。 間仕切りの向こうでは、画面の明かりのみでヒューゴが映画を観ている。これはこれで落ち着くな…… しばらくまどろんでいると、ベッドの片側が沈み込んで、ハッと目が覚める。 ヒューゴは、背を向けるように横向きになっていたおれを、いつかみたいにまた後ろから抱きしめてきて。 一瞬だけおれの身体がこわばったのに気付いたようで「離れた方がいい?」と申し訳なさそうに言うから、おれは自分から背中がヒューゴの胸に当たるまで身体をずらし、回してくれた腕を引き寄せた。 「もっと近くがいい」 店で抱きしめられた時みたいに、ゼロ距離で体温を感じたかった。 ヒューゴがおれの首の下にもう一方の腕を差し入れてきて、両腕でぎゅっと抱きしめてくれる。 ……体温と共に、温かい思いやりがじんわり流れ込んでくる。 「ホテルで、あまり眠れなくて」 「うん」 「部屋に入られた後」 「うん、怖かっただろ」 声の振動がヒューゴの身体からおれの身体に直接響いてくる。 「毎晩、ドアにチェーンと南京錠掛けて、現地で急いで買ったやつ」 微かに自嘲すると、ヒューゴがさらに抱きしめる腕に力を入れてくれた。 「……だから早く安心したくてさ。ヒューゴに会うことばっかり考えてた」 顔が見られない位置でよかったよ。面と向かってたら、こんなこと、なかなか言えない。 「僕といると安心する?」 「とても。特に、今みたいにしてくれてると、やばいくらい安心する」 ヒューゴは更に抱きしめる腕に力を入れて、おれの後頭部に顔を埋めた。地肌に当たる吐息がくすぐったい。 「心臓の音、聞こえるか」 「うん」 「じゃあ、呼吸も合わせて」 上下するヒューゴの胸に合わせる。 「ね、鼓動も揃ってくるだろ」 「ほんとだ……」 「眠れそう?」 返事をする代わりに、ヒューゴの手を自分の口元に持っていき、細く角ばった指に唇を当てた。薄い皮膚越しに触れたことで、ヒューゴの存在をより実感できる。 ここまで他人と近くなれることってあるんだ…… 途方もないほどの一体感が押し寄せ、おれは急激に眠りに落ちた。

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