13 / 16

第13話 合鍵

リビングから差し込む明るい光は木の間仕切りで遮られ、アイボリー色のフローリングに本物の樹木のような影を作っている。 せっかくの快晴だけど、さすがに今日は自転車は控えよう。暑さにやられた身体をこの連休で本調子に戻さなくては。 おれは眠りについた時のままの態勢でふんわりとヒューゴに包まれて、SF映画でよく見る培養液に浸かっているクローン胎児みたいだな、なんてぬくぬくと思っていた。 快適なのはおれだけで、ヒューゴの腕が痺れているかもしれないし、一回起きなきゃなあとは頭ではわかっているけど、ああ、動きたくない。 眼の前で、逞しい腕が微かに金色に輝いている。 その皮膚の感覚を実感したくて、腕にぐりぐりと頭をこすりつけると、「起きたのか」と耳元で囁かれる。 「まだ」 おれの即答に、後ろからくっくっと喉だけで笑う声。 「いまなんじ?」 なんだか顔を合わせにくい。いくら疲労がピークだったとは言え、さすがに甘えすぎてしまった。 「んー、10時頃」 そう言ってヒューゴはおれから離れて起き上がった。 途端にエアコンの冷気を感じて身震いする。 でもその寒さよりも、体温が消えた寂しさのほうがちょっと強い。 まだ、行かないで欲しかったな。 すぐにヒューゴは寝室に戻ってきてミネラルウォーターのボトルの蓋を開け、おれに手渡すと、自分はベッド脇に立ったまま水を煽った。 その姿に、思わず目を剥いてしまう。 「ヒューゴ、どうしたのその身体」 元から筋肉があるのは知っていたが、なんだそのバキバキに締まった上体は。 「なんかヘン?」 本人は気付いてなさそうな素振りで、ボトルを持ったまま停止している。 あ……痩せた、のか。 「特に何もしてないけど」なんてとぼけているが…… まさか、おれのことを心配して、食べてなかったなんてこと…… 「ま、おれの方が焼けていい感じだけど」 薄っすらしか筋肉が見えない、ただやつれただけの自分の身体を見下ろして茶化してみせた。 おまえ、本当に優しいよな。 ヒューゴがショートパンツのウエストに親指を掛けると、胸が開いて上体がよりあらわになった。 「このカラダの方が好き?」 ヒューゴは脂肪が落ちすぎて8パックに見える腹筋を手の平で撫でながら言う。 その声に、少し魅力的な響きを感じてしまう。 たぶん昨夜、店でヒューゴに抱きしめられてから、いやに神経が過敏になってしまって…… これまでも、時折のスキンシップを心地よく感じていたが…… 今みたいな、ヒューゴの身体を見ただけで、胸がぞわぞわとするような、少しだけ後ろめたいような気持ちに覚えがない。 何かスイッチが入ったかのように、ヒューゴがそこにいるだけで自分の体温も上がる。 おかしいとは自覚できるんだけど、どうしようもなくて。 「モデルチェンジした?おれのアンドロイドはもうちょっと自然な体型だったから」 単なる観察じゃなくなる前に、誤魔化して目線を外す。 「だとしたら、前のが壊れたんだろ。メンテなしで放っておかれて」 前髪から覗く鋭い目でじろりとおれを睨んだ。優しいのは間違いないが、こいつは皮肉がうまい。 「壊れるほど心配したの?」 おれの問いにヒューゴは短くため息をついた。 「悪い。そんなつもりじゃなかった。すぐに元に戻るから気にするな」 なんて思いやりだ。 おれはたまらなくなって、硬く割れたヒューゴの腹に指を走らせた。一瞬、ひくりと筋肉が収縮する。 責められて当然なのに、ヒューゴは全くおれを非難しない。 その一方で、そこまで心配してくれたことを、喜んでしまう悪い自分がいる。 「具合はどう?僕ができることある?」 ヒューゴは軽くおれの額に手をあて、仕切り直すように言った。 体調は悪くないけれど、このままベッドに引き込んで、二度寝に付き合ってくれなんて言えるわけもなく。 「おれ、ヒューゴのごはん食べたい。インド料理食べ過ぎて自分からスパイスの匂いがしてそう」 すると、ゆっくりとヒューゴはおれの手を取りベッドボードに押さえつけ、肩に顔を寄せて軽く吸い込むように呼吸をした。 「いつも通りだよ」 「どんな?」 「透はね、剥いたばかりのリンゴみたいな匂いで……おいしそう」 そう言うと、そのままかぷりとおれの肩を噛んだ。 すぐにヒューゴは離れ、「まずはコーヒー」といい残し寝室から出ていった。 噛まれた肩から下半身に電流のような衝撃が走ってしまい、そのままずるずるとマットレスに流れ込む。 これ、おれ悪くねぇよな? しばらくベッドの中でうだうだと葛藤していると、いつものコーヒーのいい香りがしてくる。 ヒューゴ相手にここまで反応してしまうようになったなんて……一時的な神経過敏ならいいんだけど。 切り替えなくては。 そうだ、今朝はサンドウィッチが食べたい。生ハムとチーズが挟まったやつ。 おれはキッチンへ向かいながら、「ヒューゴー」と間延びした声で呼び掛けた。 マグカップを持ったまま片眉を上げて「お腹すいたのか?」と聞いてくる。 「うん。クロワッサンのサンドウィッチ食べたい。あと夜はシュニッツェル。牛肉で作ってくれたら最高です」 「具体的にどうも。これ飲んだら、買い物に行ってくる」 「おれも行く」 「できれば、今日は家にいてほしい。欲しい物があれば、僕がすぐに飛び上がって走って買ってくる」 「車で行けよ」 「そういう意味じゃない」とヒューゴは楽しげに笑う。 「月曜、休み取ってるから。3連休よろしくお願いします」 「なんでも作るよ。たくさん食べて回復して」 ヒューゴはマグカップに口をつけ、満足そうに香りを吸い込んだ。 何を作ってくれるのか楽しみだな。 「出張中さ、色々食べたんだけど、何食べてるときでも『ヒューゴならもっと野菜を入れるな』とか、『辛すぎって言うだろうな』とか、そんなことばっかり考えちゃってたよ」 ヒューゴはおれを見て微笑むと、飲みかけのコーヒーをテーブルに置いてスッと立ち上がり、「ちょっと待ってて」と寝室へ消えた。 少しして、手に小さなキーホルダーを持って戻って来る。 「透に預けたくて」 スウェーデンの国旗をあしらったキーホルダーがついた鍵をおれに渡す。 「おれが渡したからだろ。そんなに気を遣うなよ」 「要らない?」 そりゃ欲しいに決まってる。喉から手が出るほど。でも同情だけで貰っていいものじゃない。 「前に、諒子さんが、おまえは家に人を入れないって言ってた。だから、鍵を渡すなんてもってのほかじゃない?」 ヒューゴは無言で、鍵が乗っているおれの手の平を包み込むように握らせると優しく微笑んだ。 そして、手を自分の口元に寄せて目を閉じ、息を吹き込むように小さくなにか呟いた。 その仕草がまるで優しく呪文を唱えているようで、南波さんが言っていたこともあながち間違いじゃないなと思った。 *** おれのリクエストであるクロワッサンのサンドウィッチを二人で食べたあと、ヒューゴはずっとキッチンに立ちっぱなしで。 休日にそこまでしてもらうのはさすがに申し訳なく思い、明日は外食にしようと提案してみたものの、「僕の楽しみを取るのか」と即時却下されてしまった。言葉通り、調理中のヒューゴはずっと笑顔で、本当に料理が好きなんだなと思う。 手伝えることもないようですっかり手持ち無沙汰のおれは、キッチンカウンターのスツールに腰掛け、どんどん下ごしらえを進めるヒューゴに向けてインド出張のあれこれを話した。 1ヶ月も掛かってしまったのは、人手不足を補う手段としてインターンを採用する運びになったからだ。すでにいるエンジニアの母校から5名の優秀な学生を推薦してもらい、面接をしたり、業務を教えたり。 将来的に先方のベンダーに就職してうちの案件にアサインしてくれるかもしれないし、学生、ベンダー、弊社の3者に損がないな、という考えで。 「透らしいな」とヒューゴがナスの皮を剥きながら言う。 「そう?」 「うん。透は誰に対してもフェアであろうとするから」 確かに切り捨てるのは最後の手段だと思っているけど。おれってそうなのかな。 「まあ日本企業が優しいのかも」照れから、謙遜してしまう。 「それはあるだろうね。みんな僕らガイジンに親切だし」 「優しくされたことある?」 次に人参を剥き始めたヒューゴにたずねてみる。 「あるよ。高校も大学も、日本に留学してたしね」 「あっ、そうなんだ?」 高校生のヒューゴねぇ…… 「なに笑ってる?」 「いや、学ランだったら、似合ってただろうな、と」 真逆なことを言っていることはすぐにバレて、ヒューゴは眉間にしわを寄せて見せた。 「残念ながら私服だ。でも日本の制服に憧れはあった」 「あ、うちも。まあおれはずっとトレーニングウェアだったけど。高校生活、どうだった?」 んー、そうだな、とヒューゴは少しだけ考えるように沈黙してから、調理の手を止めて、とつとつと話し始めた。 「日本に帰ってこられて嬉しかった。でもその時に……僕は、自分が日本人じゃないことを嫌というほど自覚させられた。親切と同時に、遠巻きに観察されるような。 放課後は強制的に日本語クラスで勉強。こんなに喋れるのに。あの疎外感は結構辛かった。 まぁ、見た目が異なるものを同等に扱うことは、日本では難しいことに気付いていなかったから、その時点ですでに僕は日本人でなくなっていたんだろうね」 ヒューゴは無表情で声にも抑揚がなく、感情を読み取ることはできなかった。 「それでも、また日本に住もうって思ってくれてよかったよ」 「どうして?」 「じゃなきゃ、おれが今こうして美味いメシを食えてない」 そう即答したおれに向かって、ヒューゴはまつ毛が伏せられる音が聞こえそうなほど、ふんわりと瞬きした。とても優しい微笑みに、こっちまで釣られて笑顔になる。 「日本には、良い思い出があるからね」 「どんな?」 「とてもきれいな思い出。いつか話せるといいな」 勿体ぶる様子に非難の視線を向けると、ヒューゴは子供を宥めるように目尻を下げた。 「まあまあ。小林さんにケーキを注文してきたから、楽しみにしてて」 「なんでケーキ?」 こいつ、どうやらおれに甘いものを与えることで状況を改善しようとする癖があるな。 「なんでって、誕生日だったろ。もしかして……」 これっぽっちも気付いてなかった自分に唖然とする。 よほど間抜けな顔をしていたのか、ヒューゴが笑って「口開いてる」とひんやりした指先でおれの唇に触れた。 「完全に忘れてた……」 「プレゼントも考えてある」 本人すら忘れていた誕生日なのに、そこまで思いやってくれるとは。 「鍵を貰ったから。おれ、もう十分だよ」 小さな国旗のキーホルダーを思い浮かべるだけで、胸の中で蝶が羽ばたくようなくすぐったさを感じた。 鍵を交換し合うほどおれを信頼してくれて嬉しい。 こんなに誇らしい気持ちを与えて貰えるなんて。最上のプレゼントだと思うんだけどな。 「なんか、おればっかり甘えて申し訳ない気がする」 昨夜なんて抱きしめて眠って貰って、まるで子供だ。 しかし、ヒューゴは少し首を傾げて「いや、逆だ」と言い切った。 「鍵は、僕が透に持っていてほしいから渡したんだし、料理はしたいからしているだけ。週末に泊まりに来てもらうのも、僕が強引に決めただろ?だから、甘えているのは僕の方だ」 そう言うとヒューゴは切った野菜たちをトレーに並べ、オリーブオイルやハーブを掛けたりと忙しく手を動かし始めた。 おしゃべりで邪魔するのもほどほどにしようと、おれはソファに移動した。BGM代わりになにか映画でも流しておいた方が作業し易いかもしれないし。 それにしても、ヒューゴがそんなふうに捉えていたとは予想していなかったな。 ソファの上で寝転がり、ストリーミングサービスの画面をスクロールする。 おれは、ヒューゴの「甘え」を愚直にそのまま受け入れているだけなんだろうか。 自分の意思はそこに無い状態で……? いや……、それは見当違いだ。 どんなことでも、ヒューゴがしてくれることが嬉しい。自分が、『そうしたい』とまだ気付いていないことを、先回りして実行してくれているかのような……。 「あのさ、ヒューゴのしたいことが、おれがして欲しいことなんだと思う」 おれはソファからヒューゴに声を掛けた。 二人で過ごしている時間が、なぜこんなにも快適なのか少し分かったような気がしたんだ。 ヒューゴが作ってくれるさまざまな料理と同じ。 おれがまだ知らない自分の好物を、ヒューゴの方が知っている。 「だから、おれがしたいことも、ヒューゴがして欲しいことかもしれない?」 「そこは自信がないのか。透は何がしたい?」 「もっとヒューゴに会いたい。一緒に食事がしたい」 おれは脊髄反射で即答してしまった。だって、とても自然なことに思えたから。 ヒューゴは手を拭いていたクロスを肩に掛け、キッチンからリビングへ出てきた。結局、調理の邪魔しちゃってるな。 「なぜそう思う?」 おれは最近感じていたことを包み隠さず話すことにした。 評判のレストランへ行っても、ヒューゴの賄いの方が美味しいと感じること。 週末会えるとわかっていても、平日が少し物足りなく感じていること。 ヒューゴは黙って聞いてくれていたが、やはり、「その理由が何か、考えたことある?」と同様で。 「会いたいって思うからそう言っただけ。理由なんて考えたことねーよ」 だってそうだよな。眠いから寝る、空腹だから食べる、そんな行動に理由はないのと同じで…… ヒューゴはスッと床に膝をついて座ると、そこにあるおれの足首にさらりと優しく触れた。 「これ、もう治ってるのか?」 突然足首の傷跡にふれられ、身体が少しビクついてしまう。 「とっくに治ってる」 気付いてたのか、傷跡に。 「胸が痛い。透の気持ちを想像すると」 ヒューゴは深くため息をついて傷跡をなぞる。 「そうでもなかったよ。すぐ立ち直って大学も変えたし」 「Well...」と無意識なのか珍しく英語で呟くと、「僕がしてほしいことは……どう言えばいいかな」と言葉を探しながら、傷跡をそっと撫で続けてくれていた。 「透がこの怪我をした時に、傍に居られなかったことが悔やまれる」 ケロイド状の傷跡から少し離れ、ふくらはぎを滑るヒューゴの指が、心地いい感覚を与えてくれる。 「こんな風に撫でてもらえるのなら怪我した甲斐があったよ」 おれは冗談めかして笑ったが半分本気でそう思えてくる。 「これからもし、透に辛いことがあったとしたら……無いに越したことはないけど……僕が最初に気が付けるよう、傍に居させてほしい」 低い滑らかな声が、足元から背中を伝う。 うん、やっぱり同じだ。 離れている時間を不自然だと感じているのは、おれだけじゃない。 *** その日の食事は、次から次へと旨いものがオンデマンドで出てくるオープンキッチンのようだった。 特に「夏限定、ラムとスイカのサラダ」と出されたのが絶品で。生野菜に飢えていたおれは飛び付くようにして平らげた。 どうしてヒューゴは、まだ食べたことがないおれの好物、いわば未来の好物を察することができるんだろう。 ミディアムレアに焼かれたラム肉に、同じ大きさに角切りにされたスイカがたまらなく合うなんて、これを食べない限りまず知り得なかった。 「おまえの誕生日には、何か作るよ」 そう宣言すると、ヒューゴは途端に訝しげな顔を作ってみせ、「料理できないよね?」と決めつけてくる。 「する気になるほど感動したってこと」 「それより、食べてるところをもっと見せて。すごくかわいいから」 おれは思いっきり咽せ込んでしまった。 ヒューゴはテーブルに肩肘をついて手に顎を乗せ、おれを見つめて微笑んでいる。 その優しい瞳は、おれが最初に店に行った日と同じで。 ただあの時は気恥ずかしく感じたものだったが、今は、胸のあたりに小さく心地よいこそばゆさを感じる。 「それ、客に同じこと言うなよ」 水で喉を整えてようよう注意すると、ヒューゴは鼻で笑って「ねぇよ」と言い捨てた。 優しく細めた目からのラフな物言いに、おれの胸は一層粟立ってしまった。 このざわざわした感覚…… ヒューゴはおれを実直だと言ってくれたが、自分に対してはそうだろうか。 おれは、そろそろ自分に向き合わなければならない。 会いたい理由は、もうとっくに分かってるんじゃないか? 連絡取れなかった間、どれだけ胸が焦がれたか。 本能的なものかもしれない、なんて自然の成り行きまかせで、言葉にすることを避けている。 頭の片隅では、もう止められない感情が騒いでいることに気付いているのに。何度もごまかそうとして。 触れられるとしっとり心地いい。優しくされると胸が温かさでいっぱいになる。笑顔を見るだけでも、こんなに嬉しい。 でも——、もっと欲しい。 しかも、自分にだけに与えられているものであってほしいと思う。 「どうした?」 食事の手が止まってしまっていたか。 「なんでもない。ただ……」 ん?とヒューゴは眉を上げる。 「おれ、望みすぎかな」 「何を?」 おまえを、と喉元まで出かかった返事を急いで飲み込んだ。 「いや、食事。もっと食べたいかも……」 はは、といつものようにヒューゴは笑って、おれの頭を軽く撫でた。

ともだちにシェアしよう!