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第54話

けれど、気持ちが通じ合ったこれからは、もう違う。 「秋成。俺も、お前のことになると普通ではいられない。だから、これからも喧嘩をすることはあると思う」  志乃は秋成の首筋に、顔を埋める。 「でも、感情的になってしまうのは、好きだからだ。その理由さえわかっていて、信じられたら、なにがあったって平気だよな……?」 「そうですね。……ああ、それに、いいものがある」  なにかを思い出したように、秋成は身体を起こし、脱いだ上着を拾ってポケットを詐欺っている。  なんだろうと見つめる志乃の目に、懐かしいものが飛び込んできた。 「秋成、それ……!」  秋成が取り出したのは、白い牡丹が描かれた貝絵だったのだ。  志乃のものと同じくらい色褪せ、破損していたが、むしろ当時よりも何倍も艶やかに美しく見える。 「覚えていますか? 喧嘩をしそうになったら、これを見てください。俺がどんなにあなたとの思い出を大事にしていたのかの証です」 「…………」  志乃は胸が一杯になってじっとそれを見つめていたが、おもむろに床から抜け出て緋襦袢を羽織ると、力の入らないよろよろした足取りで隣室の襖を開ける。  それから小物入れを開け、不思議そうに様子をうかがっている秋成の元へすぐに戻った。 「……志乃様!」  志乃の手の中の緋牡丹の貝絵に、秋成は驚いたようだった。 「まさか、まだ持っていてくれているとは思いませんでした」 「これだけは、差し押さえられなかったから」  志乃は笑って、絹布団に座っている秋成の横に腰を下ろした。  どちらともなく、相手の貝絵に、自分の貝絵をそっと近づける。  かち、と音がして、唯一の半身に吸いつくように貝絵はぴったりと合わさった。 十年ぶりに対の相手と出会え、貝絵も喜んでいるのかもしれない。 志乃と秋成は目を見交わし、満ち足りた気持ちで微笑んだ。 せっかく再会したのだからしばらくは一つにしておこうと志乃が提案し、貝絵はそろって枕元の高足膳に乗せておく。 「お前が半分持って帰ったら、またしばらくは別れ別れだもんな。今だけでも、一つにしておいてやりたいから」  自分の立場に思いをはせて志乃はつぶやく。  秋成は身請けをしてくれると言ったが、それはまだ先のことだろう。 少なくとも当分はここから出ることはできないに違いない。 今はまだずっと一緒にはいられないけれど、それでも想いが一つになっただけで、充分だと感じた。  これまでの恐ろしいような絶望も孤独も消えてなくなり、幸福なのだから。  けれどもちろん、だからといって今夜の別れが寂しくないわけはない。 「なぁ。今日は泊まっていってくれるんだろ。それにこれからは、きたら泊まってくれよ。だって……なるべくいっぱい会っていたい」  恥ずかしかったが、できるだけ素直に志乃は言った。 意地を張るとろくなことにならないと、これまでの経験でよくわかったからだ。  秋成は優しく志乃の髪を梳き、こめかみに触れるだけのくちづけをする。  それから、低く囁いた。 「それもいいですが、とにかく早くここからあなたを出しましょう。ここは豪奢で美しいが、所詮は淫らな牢獄です。……今月中には仕事が一段落します。そうしたら、あなたの住む場所を用意するつもりです」  驚いて、志乃は秋成を見る。 「……住む場所を……そんなに早く……?」 「ええ。二人の家です。庭の広い洋館がいいですね。家具もすべて欧州から取り寄せて、黒条家の子息に相応しい部屋を用意しましょう。……どこがいいですか? 目白もいいと思いましたが、麻布なら父上の病院にも近いでしょう」  志乃は絶句して、しばらくただ秋成を見つめるばかりだった。  そこまで本気で自分のことを考えていてくれたとは。 「──どこでもいい」 「どこでも? そんな言いかたは……」  ないでしょう、と言いかけた秋成の唇を、初めて志乃は自分からのくちづけで塞いだ。  そっと熱を伝えてから、ゆっくりと離れる。 「どれだけ贅を尽くした家でも、心が虚しければガラクタと同じだ。俺はここでの生活でそれを思い知った」  想いをこめた志乃の目を、秋成は正面から受け止める。 「……だから本当に、どこでもいいし、なんだっていいんだ。沼の上でも、馬小屋でも」  志乃は笑ったが、同時に、すぅと涙が頬を転げ落ちた。 「秋成と一緒なら」  言って逞しい胸に頬を寄せると、強い力で秋成は志乃を抱き締めてくる。 「……わかりました、お任せください」  秋成のきっぱり言う声が、頼もしく室内に響いた。 「どんな絢爛豪華な館より、俺が志乃様を幸せにしてみせます」  絶対に二度と離さない。離したくない。離れない。  志乃は幸福と同じだけの不安と切なさを感じながら、秋成の背を、きつく抱き締め返したのだった。

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