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第3話
ずっとそうしていることで、余計辛くなるので、薫は休むはずだった店を開けた。昼から雨になったことで、余計に辛くなったが、今はなにかしていないと不安だった。雨が降り始めた頃に少し強めの精神安定剤を飲んだので、なんとか今夜はやり過ごせそうだった。七時頃、遅めに店を開けると、すぐに優香が一人でやってきた。心配そうな顔で、相当、昨日はびっくりしたのだろうな、と思った。過呼吸の発作は、見ているほうも苦しくなりそうだ、と言われたことがある。自分はわからないし、他人のそういう姿を見たこともないので、よくはわからないが、かなり辛そうらしい。確かに、辛い。空気を吸えば吸おうとするほど、吸えなくなるのだから。手足は冷たくなり、全身が震え、痙攣したようになり、意識も遠くなる。そのため、薫はいつもポケットや、ベッドの側にビニール袋を置いていた。それを膨らませ、自分の吐いた二酸化炭素を吸うことにより、発作は治まる。初めて発作が起きた時には、びっくりした当時の恋人が慌てて救急車を呼んでしまい、迷惑がられたような気がする。当人さえ自覚していれば、発作が起きても対応ができるし、死ぬことはない。ただ、しばらくはかなり苦しいが。
だからか、と薫は、ふいに思った。あの男が医師だから。薫の突然の変化に対応できたのだろう。一瞬にして、過呼吸だとわかったのだろう。だから適切な処置ができた。なら、少しは、薫のことがわかっただろう、と思う。過呼吸は、一種、精神的なものだから。
「薫くん、大丈夫……?」
ふと、顔を上げると、優香が心配そうに薫を見つめていた。いけない。ぼんやりとしてしまった。薫はほんの少しだけ笑った。すると、優香は嬉しそうに微笑み返した。彼女と恋をしたら、幸せになれるだろうか? 薫は一瞬、そんなことを思った。そんなに悪くないかもしれない。見た目ではなくて、薫を愛してくれるかもしれない。大切に想ってくれるかもしれない。そう思いながら、今まで破綻してきた恋を思い出して、薫はまた、冷静になった。
突然、ドアが開く。薫は声をかけようとして、一瞬、息を飲んだ。警察官が二人、店に入ってきたからである。薫はなにも考えてはいなかった。こういう流れになることもあるかもしれない、ということを。だが、いつもの無表情を装い、少しだけ頭を下げた。優香がびっくりしたように、身体を引いている。
「こんばんは。警察の者ですが」
薫は頷いた。警察官が胸のポケットから身分証を見せ、それから続けて一枚の写真を薫と優香の前に置いた。薫は一瞬、呼吸を止めた。
あの男。橋本喬一。新聞よりも、はっきりとした写りのいいものだった。あの淋しげな印象はどこにも見当たらない。明るい、確かに有能な医師らしいイメージの、とても殺人を犯すようには見えない、それは薫の知らない男の写真だった。
「この男を見たことがありませんか?」
「……いえ」
そう言ってから、薫はぎくりとして、優香を見た。優香は昨夜、彼の顔を見ているはずだ。あんな騒ぎがあったのだから。頼むから、知らないと言ってくれ。思わず、薫は写真に見入る横顔に強く願った。優香が顔を上げた。
「見かけたことはないですけど」
「そうですか」
警察官は帽子を軽く取ると、礼を言い、見かけたら警察に連絡してほしい、と言い残し足早に去っていった。薫は呆然として、優香を見た。本当にわからなかったのか? それとも……。すると、ドアを見ていた優香がふいに薫を見た。
「薫くん。「bird」、作ってくれないかな」
薫は優香の真意を計りかねたが、とにかく言われた通りにシェイカーを取り出した。
優香の視線が痛い。薫は眼鏡を押し上げると、優香の目の前にカクテルグラスを置いた。
「……おいしい」
いつもは気にならないジャズの音色が、いやに耳障りに聴こえる。薫は両手を握りしめ、うつむいたままだった。
しばらくすると優香は財布を取り出して、千円札を一枚、カウンターに置いた。コートを着ている間、慌てて釣りを用意して渡そうとしたが、優香はそのままバッグを片手にドアへと向かった。外は雨が降っていて、優香はしばらく空を眺めていたが、思いきったように傘を開いた。薫はその背に声を掛けた。
「優香さん!」
優香は振り返った。少し、驚いたように。薫は、振り絞るようにして、声を出した。
「……ありがとう」
その言葉に、優香は困ったように、そして、淋しげに微笑むと、そのまま無言でドアを閉めた。やはり、優香は気づいていたのだ。だが、優香なりに考えがあって、知らない、と言ったのだ。しかし彼女は、それを利用することはなかった。ただ、そんな想いもあるのだ、と。薫は泣きたくなるような気持ちになった。
薫は床の一点を見つめ、ただ、ぼんやりとしていた。一人の夜は長い。雨のせいで、客も来なかった。店内に流れるジャズに合わせて、指を動かしてみる。ピアノが弾きたい、と久しぶりに思う。中学の時まで、そう、両親が離婚するまで、薫はピアノを習っていた。小学生の時、たまたまジャズの演奏をテレビで観たのがきっかけで、両親に頼んで習わせてもらったのだ。だが、練習は退屈だった。将来、ジャズ・ピアニストになりたい、という夢がなかったら、とうに止めてしまっていたかもしれない。薫は指を止めて、なにげなくドアを振り返る。呼吸が止まりそうになる。いつの間に。あの男が立っていたのだ。がたん、と、飛び上がって、薫は呆けたように、男を見つめた。
なぜ、ここに来た。なにをしに来た。自分は、どうして、なにも言えない。なにを言えばいい。さまざまな想いが巡って、薫はもどかしく、眼鏡を取り男に向けて投げつけた。男は驚きもせず、そんな薫をしばらく見つめていた。淋しげな瞳で見つめないでくれ。おかしくなりそうだ。おかしく……。すると、男は薫に背を向け、外に出ていこうとした。思わず、薫は走り出した。傘を差して歩き出した男の背に身体ごとぶつかっていく。そして思いきり抱きしめた。男の手から傘が落ちる。止められない。なにが? 男がなにをしようとしているのか、薫にはわかるような気がしたから。そして、それをさせたくない自分がいるから。無理だとわかっていても。どうしても聞きたいことが、薫にはあったのだ。二人は雨の中、ただ、立ち尽くしていた。
二人は互いのシャツのボタンを外しながら、深い口づけを交わした。目が暗闇に慣れるまで、手探りのまま、ただ、本能のままに肌を合わせた。息苦しくなるほどに求められているのがわかって、薫はどこか満足している自分が恐ろしくなった。だが、なにも考えずにいよう、と思った。せめて、今夜だけは。
間をかけて、ゆっくりと、それでいて激しく、全身を手で、唇でなぞられて、薫は何度も苦しくて、乾いた咳をした。そのたびに口づけられ、喉を湿らされ、また翻弄される。声を上げることさえ許されない。そんな瞬間もないほどに、男の動きは性急だった。そのうち、薫は、ふと、男の動きが、まるで溺れる者がなにかを必死に見つけようとしてあがいている姿に似ているように感じた。焦りがある。恐れがある。男の中で、押さえつけていたその想いが、今、溢れ出しているのではないか、と思えた。急に、心が冷える気がした。この男は、薫を求めているのではない。自分を通して、男はいったい、なにを見つめているのか――。
そう思った瞬間だった。濡れた薫のそこへ、男が入ってこようとしたのだ。思わず薫は身体を引く。薄暗い部屋の中で、視線が合う。こんなに間近に見つめられて、薫はひるみそうになったが、けして視線を逸らさなかった。男はほんの少し、自分を取り戻したかのように、小さく苦笑した。すまなそうな視線で薫を見つめる。それさえも、すべて、自分の思い込みだった――? 今まで一言も、言葉も交わさず、ただ、その瞳の奥だけを見てきたつもりだった。それが真実だと思っていた。けれど――。
自分はいったい、なにを感違えていたのだろう、と思う。自分でさえ、見失いそうになる自分を、他人が理解できるはずがない。それでも薫は、ずっと求めていた。さまざまなものが欠如した人間である自分を、理解してくれる他人を。言葉も出さないまま。出せないまま。そんなことは無理だったのだ。男が、薫の真実を知りえるはずもない。薫自身でさえ、自分がわからないのだから――。
けれど。少なくとも、男は自分を眠らせてくれた。ただ、それだけでいいではないか。思い違いで、男に多くを望み過ぎた。薫は欲張りな自分を抑えていたつもりだった。だが、いつの間にか、悪い癖が出てしまっていたらしい。すべてを諦めたつもりで、本当は唯一、絶対のものを欲しがっていた。自分を許し、無償の愛で包み込んでくれる存在――。そんなものはないのに。幻想でしかないのに。絶対に、ありえないものなのに。たったひとつの言葉も伝えられず、相手になにかを求めることなど、無理なのに。
欲しければ、欲しいと言わなければ。欲しければ、与えなければ。
男の真実の姿はわからない。今となっては、その淋しげな瞳の奥をのぞいても、すべて推測にしかならないけれど。初めから、そうだけれど。それでも、もし、話す言葉がもう見つからないほど追いつめられているのなら。もし、そうなら。今は、似た者同士の二人なら。
薫は笑った。初めて心の底から、笑ったような気がする。男が驚いたように、薫を見つめた。その真意を計るように。薫は自分から男に口づけると、その少し冷え始めた身体を引き寄せた。口づけながら、しっかりと男の背に腕を回し、抱きしめる。そして、そのまま髪へと指をくぐらせ、深い口づけをねだった。男はためらっていたようだったが、しばらくすると、薫をしっかりと抱きしめながら、内部へと入ってきた。久しぶりの行為に、つい、息をつめそうになるのを、必死に堪えて薫は息を吐いた。男は薫の様子を見ながら、少しずつ身体全体で押し上げてきた。ずり上がりそうになる肩をしっかりと押さえつけられ、薫は思わず背をしならせた。喉に男の唇が震えるように押しつけられ、薫は初めて、男の弾む息と微かな声を聞いた。
その晩、二人は、何度も何度も求め合った。薫は言葉にならない、できない想いを整理できないまま、混乱したまま、それでも必死にそれらの少しでも男に伝わるように、何度も男を欲しがった。もう、男の目を見る必要はなかった。男も薫になにも言わなかったが、何度も唇を重ねてきた。今まで一度も触れなかった唇を、執拗とも言えるほどに求めてきた。男も、なにか伝えたいことがあるのだろう。互いに、一方的とも言えるかもしれないが、それぞれの想いをぶつけ合った。そんな不器用な二人の会話は、朝方まで続いた。
鳥の鳴き声が聴こえる。雨が上がり、外は晴れているようだった。重たいまぶたを開けると、目の前に男の顔があった。腕枕をして、ずっと、薫の寝顔を見つめていたのだろうか。急に、気恥ずかしくなって、薫はうつむいた。すると、男は空いていたもう片方の手で、薫の顎に手をかけ顔を上げさせた。そして、唇が重ねられた。ただ、不器用に、押しつけるだけの口づけ。男は、ほんの少しだけ、いたずらっぽく笑うと、薫の髪を撫でた。初めて会った時は老けて見えたが、こうして間近で見ると、やはり年相応に見える。なにかが、少しだけ変わったのだろうか。それとも、これが彼の本来の姿なのかもしれない。薫もつられて小さく笑った。
男が名残り惜しそうに、薫の髪から指を離すと、そっと起き上がった。薫も起き上がろうとしたが、それを手で制される。だが、薫は覚悟を決めて起き上がった。彼を見送らなければ。
着替えを済ませると、男は隅に寄せてあった小さなガラステーブルの上に視線をやった。そこには、精神科でもらった薬袋が置いてあった。男が薫に目をやる。薫が頷くと、男はそれを手に取り、中身を手のひらに取り出した。シートの裏を見ている。医者なら、だいたいの症状はわかるだろう。いや、男は確か心臓外科医だと言っていた。わかるわけがない。そう思って見ていると、男が振り返り、複雑そうな顔をした。もしかして、その類の薬もわかるのか? 過呼吸発作を起こしたのも目の当たりにしているのだから、薫が心になんらかの障害を持っていることは、もしかしたら、医師、と言える職業についている人なら、少しはわかるのかもしれない、と思った。それも推測の域を出ないが。薫は精神安定剤と睡眠薬の入ったその袋を男の手から取り上げると、隣りに置いてあったゴミ箱にすとん、と落とした。びっくりしたように男は薫を見たが、笑っている様子を見て、安心したように笑い返した。多分、もう安定剤も、睡眠薬も、いらないだろう。なぜか、そう思えた。
階下に行き、男が先にドアを開けた。朝の日差しが眩しくて、二人は目を細めた。薫は、きれいな空だな、と思った。いつもなら、また、朝が来た……そう陰鬱な気分になるのに。男が隣りにいるから? わからなかったが、薫はしばらく空を眺めていた。男も、同じように、青く、冴え渡る冬の空を眺めていた。
どれくらい、そうしていただろうか。男はほんの少し、振り返り、頭を下げると、細い路地を歩き出した。行く場所は、薫には、わかっていた。なにか。なにか言わなければ。けれど、思い浮かばない。頭を下げてほしいんじゃない。言葉が欲しいわけじゃない。ただ、伝えたい、想いは。
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