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第20話 あなたの、匂い

 復号はほぼ一日かかった。  面倒な計算は、かつては軍の暗号解析班に任せていたが、今は、軍属でない為、暗号解析班を使うことは出来ない。家に暗号解析班を持つべきかと一瞬考えたアーセールだったが、よく考えてみれば、そもそも戦に出るわけでもないのに、暗号が必要なはずはない。皇太子が、暗号文を送ってこなければ、必要のないことだっただろう。  だが―――。 「……これが、暗号を復号した結果ですか?」  復号した平文《ひらぶん》の文章を見せると、ルーウェが面食らったように驚いてみせた。昨日は、ルーウェの部屋に行ったので、今日は、アーセールの部屋に招いた。二人で並んで長椅子に座り、今日は、酒ではなく香草茶を飲んでいる。  ルーウェの部屋に比べて、アーセールの部屋は生活感が多少ある。あちこちに、アーセールの私物が置き去りにされているからだ。本屋、剣術の道具、読みかけの書簡。今日は、暗号の復号の為に使われたと思われる資料が沢山あった。紙くずが、床に転がっているのを見ると、計算に難儀したらしい。 『私の派閥に引き入れるつもりはないが、一度、私的に会いたい。  私の邸にくるのを誰かに見られると、障りがあるかも知れないので、今月の末に、新しい手に入れた領地の視察と言うことでレルクトを訪れると良いだろう』 「こんなことならば、直接仰せ下さっても良いと思うのですが」 「いや、こんなことも、あなたに伝えられないと言うことなのだろう。この暗号も、俺が気がつくのに賭けたのだし、俺が復号出来ることに賭けたんですよ。だから、皇太子殿下は、かなり慎重です」  不安そうな色が、ルーウェの顔をよぎる。 「なにか、ご不安ですか?」 「えっ? ……ええ。少し」 「まあ、気楽に考えましょう。俺は、あなたと新婚旅行に行きたいし、その日程に、皇太子殿下が合わせて下さるということですよ」  アーセールが何気なく言うと、ルーウェは顔をしかめる。 「だとすると、私は兄同伴で新婚旅行をすると言うことになるのでは? それは、ちょっと」  言われてから、それに気がついたアーセールも、「たしかに微妙ですね」と、眉を顰める。 「それが一番安全に、兄上にお目に掛かる方法であれば、仕方がありませんが」 「そうですね……では、代わりに、我々は、何故か突如、農場や所領が増えた隠居ですので、毎月、あちこちへ遊びに行くことにしましょう」  遊び歩いているのを印象づけた方が、良いような気がした。つまり、政治には興味がない。別に財産もあるから、金儲けに走らなくても良い。今は迎えた伴侶と一緒に過ごしていた方がいいと、対外的には見せていた方が良い。 「遊びって……」 「ええ、第二王子と皇太子殿下の争いに、巻き込まれるのは不毛です。そもそも、皇太子殿下は、すでに皇太子なのですから……このまま、順当に皇位に就いて頂ければ何の問題もないのです。第二王子が、何かを画策しているのでしたら、それは反逆ですよ。臣下ならば、そうやって、ことを起こされる前に芽を摘んだでしょう。弟君だから、手ぬるいのでしょう。  ですから、こんなことに、巻き込まれたくはありません。だから、ここは、関わるつもりがないと言うことを、表明しておいた方が良いのです」  きっぱりと言い切ったアーセールを、少しの間、ルーウェは目をまん丸くして見ていたが、やがて「そうですね」と同意した。 「私も、あなたが巻き込まれて、命を落とすようなことがあったら、絶対に嫌です。あなたの言うとおり、関わり合いになるのを避けた方が良いと言うことが、よく解りました」 「そうでしょう? 戦で身を立てた私が言うのも、おかしな話ですが、戦など、ない方が良いのです」  アーセールの言葉を聞いたルーウェが、神妙な面持ちで頷いた。 「あと……本音では、あなたと、一緒にあちこちを見て歩きたいというのもあります」 「えっ?」 「……あちこち、きっと、それぞれ美しい場所だと思います。それを、あなたと一緒に見て歩きたい」 「それは……」とルーウェが目を伏せる。頬が、赤かった。「それは、嬉しいです」 「さしあたっては、湯治ですけどね。広々とした大浴場で、大勢で湯浴みするらしいのですよ。俺も、聞いただけなので、体験したことはないのですが」  楽しみですね、と言おうとしたアーセールは、ルーウェが赤い顔をしているのに気がついた。一緒に、入りたいと言っているようなものだと気がついたからだ。 (同性だから、特に気にすることはない……はずではないか)  なのに意識をしているほうがおかしいのだ。戦場でも軍でも、丸裸で着替えたり行水をしたりということは何度もあったのに、一度も気にしたことはないはずだ。 (それに、『伴侶』なのだし、一緒に入ったとしても問題は……)  問題はない。入りたいかと、言われると、よくわからない。一度は、ルーウェの裸体も見ている。傷だらけの、美しい裸体だった。それを、見たいのか、見たくないのか、やはりわからない。見るということに、愛でるという行為が深く結びついている。  愛でる、ことには抵抗がある。金で買った、という後ろめたさが、未だに抜けない。 (ああ、そうか)  アーセールはやっと自分の本心がわかった。アーセールは、後ろめたいのだ。ルーウェとは、誠実に向き合いたいのに、人として道を外れた始まり方をしてしまった。 「あの……」 「はいっ!?」  ルーウェの声は裏返っていた。わざわざ、一緒に入らないとも、入るとも言いにくい。 「えーと……その、あなたは、俺に怒ったり憎んだりしていいと思います」 「えっ!?」 「……俺は、あのとき、あなたの許しも得ないであなたの未来を決めてしまったわけですので……」 「そんなことで? もし……武器商人の婿入りと、あなたへの婿入り? を自分で選んで良いといわれたら、私は、迷わず、あなたを選んだと思います。あなたは、私を助けてくれた。それでは、だめなんですか?」  ルーウェが、アーセールの腕をつかんで見上げてくる。すがりつくような眼差しを受けながら、口付けたいと思いつつ、アーセールの口から出たのは、まったく違う言葉だった。 「昨日は、あなたのところで休みましたから、今日は俺のところでやすんでください」  一瞬の落胆のいろを包み隠すように、ルーウェが笑う。 「そうします。そろそろ休みましょう? ……明日からは、旅行の支度をしなければなりませんね」 「そういうことは、ルサルカに丸投げしておけば……」 「馬で行きましょう。できるだけ軽装で。供もなしで」 「ああ、それは気分がいいですね。けれど、疲れませんか?」 「なら、途中の街でやすんで行きましょう」 「まあ、それならば」  呟いたアーセールは、殊の外、ルーウェが嬉しそうにしているので、胸をなでおろしていた。  伴もなく二人で馬を走らせて行けば、少しはこのぎこちない距離も、縮むことができるだろうか?  寝台に上がって灯りを落とす。窓掛けを閉じているので鼻先も見えないほどに暗い。 「……ここは、私には落ち着きます」 「ああ、そういえば、閨は窓掛けをかけなかった……」  閨事の折に、少しは相手を見たいという事なのだろう。アーセールとしては、ルーウェの寝顔をみられるので良かったのだが……。 「暗いほうがお好みですか?」 「いいえ」とルーウェが柔らかく言い切る。「ここは、あなたの、匂いがします」  それは、ルーウェには何気ない一言だったのだろう。だが、アーセールの胸の奥……いや、身体の芯が、一瞬、どくん、と脈打って熱を帯びる。  ルーウェは無邪気に休んでしまって、安らかな寝息が聞こえるが、アーセールは戸惑っていた。はっきりと、ルーウェに欲望を向けた瞬間だったからだ。

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