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第28話 甘い甘い、芍薬の香り

 湯殿は、広々としていた。  古代の神殿風で、柱頭に美しい装飾を施した列柱が立ち並び、中央に巨大な浴槽がある。浴槽は地面に埋め込まれていて、そこへ温泉が流れ込んでいる。絶えず新鮮な温泉が流れてくるので、大量の湯気が立っていた。浴室内は白く曇っていたが、鮮やかな赤や青のタイルで描かれた模様などが見て取れた。  湯は乳白色の優しい色合いで、水面を覆い尽くすほど、鮮やかな紅色や紫色をした芍薬の花が浮かべられている。おかげで温泉独特の香りは緩和されて、甘やかな花の香りばかりが漂っている。  湯浴みは、丸裸では行わない。湯浴み用の白い衣を着用して入り、香油で手入れをする。湯の効能が強いので、肌を守る必要があるというが、本当かどうか、アーセールは解らない。入浴方法を説明してくれた使用人は、すぐに下がってしまったので、しばらく湯に浸かってゆっくりしようと心に決めた。  渡された香油も、また、芍薬の香りがした。それを肌に塗り込んで、湯着を纏ってからの入浴になる。白い湯着が、ぺったりと肌に張り付くのを見て、ルーウェと一緒でなくて良かったと心から思った。  肌に張り付いて色を透かせる白い衣は、丸裸より、色気があるだろう。それを、見てみたいとは思うが、目に毒だ。それにしても。 (名実ともに弟、か)  皇太子の言葉を想い出し、アーセールは浴槽の端に背を預けて、目を閉じる。暖かなお湯の中に、疲れがじんわりと溶け出していくような感じがあるが、気分が、重たい。 (ルーウェには愛想を尽かされそうだし、皇太子殿下は、得体が知れないし、第二王子殿下とは完全に敵対しただろうし……)  今のアーセールは、身分的にはただの無職だ。ただの無職には、荷が重い問題ばかりだろう。  肌から薫る甘い芍薬の香りを聞いているうちに、ルーウェを想い出す。甘い香を漂わせて傍らに座る風呂上がりのルーウェは、えもいわれぬ色香に満ちていた。あの時は、皇太子が側に居たので理性が働いたが、そろそろ、アーセールの理性も限界に近付いている。 (触れてしまおうか……)  触れてしまえば、何かが劇的に変わるような気もする。どうしたものだろう。アーセールが悶々と悩んでいると、不意に人の気配がした。 (人……?)  使用人が、ここまで来るだろうか。もしかしたら、来るかも知れないが、その場合は、アーセールに声を掛けるだろう。 (つまり……曲者かも知れないと言うことだな)  皇太子が今日ここを訪れたと言うことを、第二王子が察していた場合。そして、皇太子とアーセールのどちらかを潰しておきたいと考えた場合。皇太子本人よりも、無職のアーセールを狙う方が、後々、問題ないだろう。  アーセールは音を立てないようにゆっくりとたち上がる。そして浴槽から出て、柱の陰に隠れた。列柱の立ち並ぶこの浴場は、相手が見えない欠点もあるが、身を隠すには最適と言える。  湯煙のおかげで、周りは見えなかった。気配を探る必要がある。目を閉じて、じっと気配を研ぎ澄ます。いつもならば聞き逃しているような些細な音を、注意して拾う。水の音。温泉が浴槽に流し込まれるときに立てる、勢いのある水音。天井から結露した水滴が、水面に落ちて波紋を広げる。その、かすかな音。今は夜で、本来ならば、鳥の鳴き声などが聞こえそうなものだが、外の音は一切聞こえなかった。そこに、かすかな水を跳ね上げる音が聞こえた。 (これは……足音、か?)  足が濡れた床に付く、時のかすかな水音。足が離れるときに、わずかな水を跳ね上げる。その水滴が、床に落ちて、はじける。その音だと、アーセールは思った。 (右後方)  右後方から、足音は近付いてくる。アーセールがどの辺にいるのか、相手は把握しているのだろう。ゆっくりと近付いている気配はあるが、迷わずにこちらへ向かっているのが解る。 (であれば、通り過ぎた時だ)  真横に来た時。そこであれば、隙を突くことが出来るだろう。アーセールは、体術は苦手だが、それでもまるで駄目と言うことはない。アーセールは丸腰だ。相手は武器を持っているだろう。ならば、一瞬、たった一回で相手を制圧する必要がある。  息を整えて、アーセールは相手を待つ。  少しずつ、少しずつ、相手は近付いてくる。緊張で、鼓動が速い。息を潜めて、じっと、待つ。そして、その人物がアーセールのいる柱の真横に来た瞬間だった。 (今だっ!!)  アーセールは勢いよく相手に飛びつく。 「っ!!」  相手が驚いた気配があった。身体を捕らえて、そのまま、床に組み敷く。背は低くはなかった、が、存外、華奢な体つきをしていた。髪も長い。 (女の暗殺者だったか……?)  不審に思いつつ、馬乗りになって、その人物を確認する。 「あっ……」  そこに居たのは、ルーウェだった。 「な、んで……寝ていたのでは? てっきり、暗殺者か何かかと思ってしまいました……」  相手は敵だと思い込んでいたので、無理矢理床に押さえつけてしまった。それに、抵抗させるつもりがなかったので、強い力で、手首を捕らえて床に押しつけている。どこかぶつけていようが構わなかったので、酷く乱暴な扱いをしたはずだった。  慌てて手首を離す。 「あの……大丈夫ですか? どこか、ぶったりは……? 怪我はありま……」  途中で、言葉は途切れた。 (え、……)  ルーウェの手がアーセールの首を引き寄せて、そのまま、ルーウェに口づけられていたからだった。  甘い甘い、芍薬の香りがした。

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