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第30話 鳩

 翌日、ルーウェは熱を出した。  あの後、浴室だけでは飽き足らず、部屋に戻って明け方近くまで抱き潰したのだから、それは仕方がないとアーセールは思っている。 (まったく、酷い抱き方をしたもんだ……)  自己嫌悪で消えてしまいたくなったが、ルーウェの体調は気になる。使用人に、身支度を頼み、看病を言いつけると、ギッと睨まれた。どう考えても、アーセールが無茶をしたのが悪いのだと非難しているのだろう。 (非難されても仕方がない)  それは認める。このあと、ルーウェが口も利いてくれないことも覚悟している。  ため息を吐きながら、アーセールは、庭へ出ることにした。  庭は、こぢんまりとしている。それでも、四季折々の花々が彩るのだろう。今は少し気の早いライラックが美しい紫色の花を咲かせている。少しだけ、ルーウェの瞳の彩に似ていた。 「見舞いに、花でも持っていくか」  ルーウェは花を愛でるだろうか。特別、愛でているような様子もなかったような気はするが。いや、ルーウェが花を好きかどころか、ルーウェの好きなものなど殆ど知らない。楽器を聞かせてもらう約束も果たしていない。いままでルーウェに寄り添ってきたようなつもりになっていて、その実、なにも、ルーウェに寄り添わなかったし、本当の意味での興味を抱かなかったと言うことだろう。なのに、誘惑に負けてルーウェを抱いてしまった。そして。 (……俺が、第二王子たちと一緒、か)  あれは辛辣な言葉だった。あれ以上に、胸を鋭い刃で貫いていくような言葉はないだろう。 (真実だから、胸に刺さる)  褒賞として得た。金で身柄を買った。そしてルーウェの意思を無視して抱いた。 (最低だ)  どうせ、もうアーセールのことなど必要としないだろう。だが、謝らなければならなかった。  今更、ほんとうは触れたかったと言っても、何もかもが遅いだろう。それだとしても。  どんよりと沈んでいくアーセールの思考は、唐突に途切れた。  白い鳩がかすかな羽音を立てながら、まっすぐとアーセールに向かって飛んで来たからだった。鳩は、そのまま、アーセールに体当たりすると、アーセールの肩に止まる。 「なんだ? 随分人慣れした鳩……」  はた、と気がつく。この鳩には見覚えがあった。 「お前は、……皇室の鳩ではないか」  肩から手に移動させ、足を見ると、銅で出来た足輪を付けている。そこに、通信管が付いている。銅の足輪は、皇太子のものだ。 『アーセール。俺はしばし身を隠す。ルーウェを頼む』  署名はなかったし、いつもよりも雑な口調だった。どういうことだろう、と思いつつ、まずは邸へ戻ることにした。鳩は、このまま皇太子邸に戻るのだろうが、おそらく、そこに皇太子はいない。皇太子がわざわざ身を隠すと言うことは、異変が起きたと言うことだ。 (鳩は、帰巣本能で皇太子邸の鳩舎へ戻る……)  ならば、状況次第で、この鳩には敵方に偽情報を掴ませることが出来るかもしれない。 (ルーウェに……)  いま、高熱で寝込んでいるはずのルーウェに負担を掛けることになるが、一大事だ。アーセールは、使用人に命じて町の様子を見てくるように言おうと思ったが、止めた。この中に誰の手のものが入り込んでいるかは解らない。 (一度、邸へ戻るか……)  ルーウェが高熱を出した。ここでは治療に不安がある。王都の医師に診せたい。これで、なんとか、理由は出来るだろう。新婚で頭の中が春になっている、馬鹿な夫ならば、それくらいの無理はする。ならば、今はすぐに戻った方がいい。  アーセールは鳩を懐に隠して邸へ戻った。軍用の伝書鳩は、狭いところに閉じ込めて運ばれることに慣れている。懐に入れても問題はない。 「馬車の支度をしてくれ、それと邸への連絡を入れてくれ。……やはり、ここでの治療には不安がある」  邸に入るなり、アーセールは大声で使用人に命じる。 「えっ? ……今からですか? ルーウェ様は、ご案じなさらずとも……」 「お前たちは、俺のせいにしているが、もし、それで。ルーウェが大変な病気だったらどうするつもりなんだ? ……いままで、ルーウェがこんな風に高熱を出したことはなかった。一刻も早く王都へ帰って、医師に診せなくては……。すぐに支度をしてくれっ!」  アーセールの命令を、迷惑そうにして聞いてい使用人たちだったがやがて諦めて「かしこまりました」と受け、慌ただしく支度の為に動きはじめる。  アーセールは急いでルーウェの所へ向かう。看病に付いていた侍女を下がらせて、「ルーウェ」と呼びかけると、熱に潤んだ眼差しが、アーセールを見やった。昨夜の熱を想い出して、身体の奥が熱くなる。まだ、肌の記憶は鮮明で、ルーウェを抱いた時の感触は残っている。今すぐに味わいたい衝動を殺して、ルーウェの耳元に囁いた。 「変事です。詳細はわかりませんが、皇太子殿下より鳩が参りました」 「えっ?」  うるんで、とろんとしていたルーウェの眼差しが、急に覚醒したようだった。 「……今から、早急に王都へ戻ります。表向きは、あなたの調子が悪く、私が心配でたまらないから、王都の医師に診せると言うことにしました」 「それで……」 「……ここには誰の目や耳があるか解りません。馬車の中でお話しします」 「わか……りました……」  ルーウェの声は掠れている。 「……それと、昨夜は、本当にすみませんでした」  それだけ告げて、アーセールは、すぐに帰宅の支度に取りかかった。

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