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第33話 黒猫
翌朝、ルーウェはしっかりした足取りで食道室へ降りてきた。
「おはようございます、ルーウェ。ご気分は?」
「ありがとうございます。気分は良いです。熱も引いたように思います」
笑顔を作ってみせるが、ルーウェの顔色は、冴えない。
「……さて、まずは、食事に致しましょう。我々軍人は、どんな時でもまずは腹一杯になるまで食うことを訓練されます。人は、食っていないと力が出ません。だから、どんな事態でも、食うことを第一に考えます。……長くて最悪の行軍の際は、食わなかったものから命を落としていきますから」
「ありがとう。……ともかく、今のままでは、情報が足りません。ルサルカには申し訳ありませんが、今少し、情報が欲しい……」
そうルーウェが呟いた時、庭のほうから「離せよっ! なあ、頼むよ!」という声が聞こえてきた。少年の声に聞こえる。
(まさか、密偵か?)
ルーウェも同じことを考えたらしく、視線がかち合う。そのまま、頷きあった。
玄関まで行って「何をしている」と問い詰める。小汚いボロ着をまとった、少年が邸の使用人たちに腕を掴まれている。黒髪に黒い瞳を持つ少年で、細くて貧相な様子だ。痩せた黒猫、を思い出した。
(おや?)
アーセールはあることに気がついた。小汚い格好の割に、肌が綺麗だ。泥などで汚れてはいるが、滑らかで白い肌をしている。
「あっ! あんたここの当主だろ? なんか恵んでくれよ!」
少年が足元に縋りついてくる。アーセールは身をかがめて少年を起こしてやった。
「食い物に困っているのか?」
そう問いかけるアーセールに、少年は何かを握らせる。おそらく、紙だ。そして、少年はいい香りがした。乳香、没薬、薔薇に龍涎香……。
(皇太子殿下の香水だ……)
しかも、直接つけたものではなく、このかすかな香りは移り香だろう。
「そうだよ! 街は封鎖されてるし、家には鼠一匹いないのに、うちには母と、腹をすかせた弟妹たちがいるんだよ!」
なあ、助けてくれよ! と少年はアーセールの腕にすがりつく。アーセールは、面倒そうに払い除けて、怒鳴りつける。
「俺はいま無職なんだよ!」
「知ってるよ、アーセール将軍だろ? うちの兄貴があんたのところで働いてたんだ」
「えっ」
アーセールは、驚いてみせた。
「お前の兄の名は?」
「ふん。お貴族さまが、一兵卒の兄貴の名前なんか……」
「知っている」
アーセールは力強く言い切った。何万人ならば、覚えていることは出来ないが、ある程度覚えている。特に死傷したものの名は、忘れることはできない。そして、それは、アーセールに出来る、たった一つの弔いだと思っている。
「……ジェハド」
その名前は、聞いたことがない。だが、心当たりはあった。花の名前だ。黄金色の芳しい香りを持つ花。そして、その香気には催淫作用があることで、兵士の間では知られている。催淫作用は、興奮するということなので、重用な任務の際には、その香りの力を借りた興奮状態で戦闘へ向かうことがあった。
重用な任務を受けて来た。少年は、そう告げているのだろう。
「ジェハドなら、覚えている。俺が、潜入の役目を指示したものだろう。お前の兄は、俺が見殺しにしたようなものだ。
ちょっとついてこい」
アーセールは、少年を邸へ招き入れる。
「な、なんだよ。俺は別に、メシを食いに来たわけじゃ……」
「今から、朝食なんだ。一緒に食べていけ。心配せずとも土産は持たせるから、お前の話を聞きたい」
かたわらにいた使用人が「アーセール様……」と非難めいた視線を送ってくる。最近、こんな目で見られることばかりだ。
「なにか食事を用意して欲しい。家族分も」とだけ命じて、アーセールは少年を伴って邸へ入った。
邸の中も安全ではない。
食事室へ入り、「彼が緊張するといけないから」という理由で使用人たちは下がらせた。そして、アーセールは少年から受け取った紙に目を通してから、ルーウェに手渡した。
「現在地はこの者から聞くように。それと、この者の身柄を頼む」
「どういうことですか?」
ルーウェが問う。
「彼は、あなたの兄君の従者だろう。それで、伝言を持ってきたというわけだ」
「兄上は……ご無事なのですか?」
「知っている情報が全て欲しい」
少年は、唇を引き締めて、しばらく黙っていたが、やがて、しずかに口を開いた。
「皇帝陛下が崩御されました。そして、第二王子殿下が、皇太子殿下が玉璽を持っているはずと、邸を襲撃したのです」
「なっ……!」
ルーウェの顔色は青い。
「第二王子の目的は、玉璽。そして、皇太子殿下のお命です」
「それで、殿下はいずこにおられますか」
「……北の国境になります。前皇后陛下のご出身の国の近くになります」
いざとなれば亡命するつもりだろう。だが、それは、第二王子に国を明け渡すということになる。
「俺が受けた命令は、ここまでをアーセール将軍にお伝えすることです」
「あいわかった」
皇太子の居場所は、しばらくわからないだろう。だが、時間の問題だ。
「アーセール……」
ルーウェが震える声で、アーセールの名を呼ぶ。
「はい」
「……話が、あります。そこのあなたも、席を外して下さい」
ルーウェの白い顔は、青褪めてひどい色合いだった。震える唇まで、紫色に見える。
「はあ、かしこまりましたが……」
「ありがとう」
少年は、渋々という様子で立ち去っていく。ドアが開き、閉ざされる。それを見届けてから、ルーウェは立ちあがった。
そして、アーセールに跪いて、床に額《ぬか》づいたのだった。
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