ルーウェは憤っていた。 　アーセールが、あまりにも過保護過ぎて、いっそ腹立たしい。 　湯殿での件も、お互い、何を思っているのか何も会話もできないままに、皇太子の救出ということになってしまった。 （アーセールは、あの件を話すのが嫌なのでしょうね） 　その上、勝手に自己完結して、離婚などと言ってきた。腹立たしいことこの上ない。 　湯殿での件は、確かにルーウェも言い過ぎたが、それをいうならアーセールも同じだ。それより大切なことを、ルーウェはアーセールに伝えていないのに、アーセールは話も聞かない。 （柱に縛り付けてでも、聞かせないと、アーセールは私の話を聞かないかもしれない） 　それくらい、アーセールは身勝手なのだ。 　そもそも、あの時、湯殿でアーセールを襲ったのは、ルーウェの方だ。 　組み敷かれたのを幸いに、そのままキスを仕掛けたのもルーウェだ。 　アーセールは無茶をしすぎたから、熱を出したと思っているのかも知れないが、単純に、あの日は、雨の中、ほぼ半日、馬で走っていたのが悪いのだ。 （産まれて初めて好きな人とキスしたのに） 　キスも。その先のすべての行為も、好きな人とするのは初めてで、最初、正気を失っているようなアーセールにされるのは怖かったが、すぐに、愛しくてたまらないというような優しい触れ方になった。 　心から愛してくれる人は、こんなふうに優しく抱いてくれるんだ、とルーウェは胸が震えていたのを思いだす。 　触れた肌の気持ちよさも、受け入れる熱も、なにもかも、全部今までとは違っていた。今まで受けてきたものは暴力で、アーセールと分かち合ったのが愛情に満ちたひとときだったのだと知った。 　受けた暴力の一つ一つに、傷つけられる必要はないのだと知った。 　何もかも全部、過去も未来も満たされる感じだ。 　湯殿だけで飽き足りずに部屋に行っても、ずっと求められたことが、嬉しくてたまらなかった。 　朝日の中、すやすやと寝入っているアーセールの穏やかな寝顔を見ていたら、胸がいっぱいになって、涙が出た。二人で迎える朝が、こんなに幸せだとは知らなかった。 　なのに。 　ルーウェは顔をしかめつつ、北へ向かったアーセールを思う。 　アーセールはルーウェに酷い暴力を振るったと思っているし、離婚だと言い出すし、話も聞かない。 　プッと小さく吹き出す声がした。サティスだった。 「殿下、すごい百面相ですよ」 「そ、そんなに？」 「ええ。俺が知る殿下は、ずっと心を殺して生きていたようなイメージだったので、そんなふうに表情豊かな方とは思いもしませんでした」 　はは、とサティスは笑う。 　年は、若そうに見える。しかし、皇太子の手のものならば、それなりの年齢かもしれない。ルーウェには、よくわからない。 「あなたは、兄上の、恋人なんですか？」 　ルーウェの問いに、サティスは顔を歪める。 「恋人、はないかなあ……あの人は、早晩皇位につくか死ぬか、でしょう？　俺は後追いはしないし、皇位に就いたら、皇后を迎えるでしょう？　王子であるあなたを娶った、アーセール将軍は、かなりおかしいんですよ」 「たぶん、私を娶るつもりなんて、一欠片もなかったと思いますよ。なら、あなたが皇后になる可能性だって……」 　す、とサティスの指がルーウェの唇に触れた。言うな、ということなのだろう。 「あの人が、俺を使ってくれるなら、それで十分です。……あの人が皇位に就いたら、国を捨てますんで、安心してください。俺は、あの人の男妾はにはならないんです。それだけは、俺の小さな矜持ってやつです」 　サティスは、遠い目をする。 「私とアーセールは、兄上を皇位に就けるために動いています。それで、いいんですか？」 　ルーウェの問いかけに、サティスは、にやっとわらった。 「もちろん。あなた方が動いてくれなかったら、あの人は死ぬんですよ。生きててくれればいいです。俺がいなくたって、あの人は幸せになるだろうし。それなら、それでいいんです。俺は、結ばれることは、望みませんよ。 　だからあんたらみたいに、素直にならないで離れそうな奴らをみてると、正直、イライラします」 　ずいぶん遠慮なく言われたが、不思議と腹は立たなかった。ルーウェも同じことを思っているからだ。 「せっかく両思いな上に、私とアーセールはちゃんと結婚までした伴侶なのに、なぜ、こうもすれ違うのか……」 「あー、おそらく、将軍様が、臆病だからですよ。強く見えるかもしれないけど、なんだかんだ、あの人は、打たれ弱いんだと思いますよ」 　どこを見て、そう言い切れるのか、ルーウェは不思議に思ったが、サティスの言葉には妙な説得力があるように思えた。 「そういう意味で、あの人は、私に何も見せてくださらないのですよね」 　弱さも。本音も。 　それでは一緒にいる意味がなくなってしまう。 「あの人ね、きっと、ガキだから、好きな子の前では格好つけてるだけなんですよ」 　サティスの、容赦ない人物感が、いまのルーウェにはありがたかった。 「とにかく、このまま、アーセールの思い通りに西へ行くのは業腹です」 　ルーウェは、それだけは、確かにそう思っていた。