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第1話

     1  ガラスの器に入ったキャンドルの灯りが揺れて、岡村(おかむら)慎一郎(しんいちろう)は陰鬱な気分になった。  元が晴れやかだったわけでもない。佐和紀(さわき)が消えてから、気持ちはずっと沈んだままだ。  どんよりとした表情でバーカウンターに片肘をつき、もう片方の手でバーボンのグラスを掴んだ。  オーセンティックなジャズの流れる店内は狭く薄暗い。まばらな客が席を埋めていた。  大きな球体の氷を指で押さえてグラスを傾ける。琥珀色の液体を飲み干し、 「もう一杯」  と低い声で告げた。強いアルコールが、喉から胸を灼くように流れていく。眉間のシワがいっそう深くなる。  グラスをカウンターの向こうへ押し出して置いた。  右隣に座っている連れの男が物言いたげに笑い、岡村は黙って視線を向ける。カールのかかった髪をサイドで分け、怜悧な印象の眼鏡をかけているのは田辺(たなべ)恂二(じゅんじ)だ。  大滝組(おおたきぐみ)若頭補佐・岩下(いわした)周平(しゅうへい)の元舎弟だが、今年の春に足抜けをした。といっても、完全に足を洗えるわけではない。ヤクザとカタギのグレーゾーンで、ハイエナに追われないように息をひそめている。裏の世界から距離を置くには、しばらく時間がかかるだろう。  整った顔立ちに浮かんだ憐憫の薄笑いが引っ込み、視線もそれた。ひそやかな息づかいが、岡村の不機嫌に対して沈黙を守る。岩下の下に付いた頃からの『ツレ』だが、友人と呼び合えるほど優しい関係ではない。いわゆる悪友だ。お互いのいいところより、悪いところを熟知している。 「俺も、もう一杯。今度は、アイラがいいな。おすすめのものを」  バーテンダーに注文を出し、田辺はようやく振り向いた。お互いにスーツ姿だが、仕立ての雰囲気は違っている。  田辺のスーツはモダンで色気があり、ラインは柔らかく、肉感的になめらかだ。一方で、岡村のスーツのラインは綿密に整っている。どちらも洗練されたパターンの妙があり、それぞれの個性を表現していた。 「焦点が合ってないけど……。大丈夫か?」  口ほどに心配していない田辺が冷ややかに笑う。岡村の目の前で、からかい混じりに指をちらつかせた。 「うるさい」  岡村は、ぴしゃりと言い返した。隙を見たバーテンダーが新しいバーボンのグラスを届ける。上から鷲掴みにして口元に運ぶと、田辺の手が伸びてきた。 「飲み方が、汚い」  手首を掴まれ、グラスが奪われる。  代わりにチェイサーを渡された。中身はもちろん水だ。  不満をあらわにした岡村は、舌打ちついでに睨みつけた。しかし、田辺が臆するはずもない。洒脱な仕草で肩をすくめると、軽く身を引く。  バーの雰囲気を壊しかねない酔い方にあきれているからだ。 「おまえは極端なんだよ」  小皿に盛ってある小さなチョコを摘まみ、田辺がため息混じりに言う。 「そうやって、いつまでも落ち込んでるつもりか? キリがないだろ。いないものはいないんだから」  突き放した口調に、岡村は苛立つ。こめかみを引きつらせながら、渡されたチェイサーの水を飲み干した。  こなれた老舗のバーでクダを巻くみっともなさは自覚している。浴びるように酒を飲むなら、場末の居酒屋へ行くべきだろう。  そうしないのは、田辺が騒がしさを嫌がるからで、それなら別のヤツを誘うと言えないせいだ。  弱みを見せれば、ここぞとばかりにつけ込んでくる悪友だが、みっともない姿をさらけ出せる相手でもある。酒に呑まれ、クダを巻き、閉塞感しかなかった日々を共に過ごしてきた。気心が知れている。 「そもそも、おまえとは、なにもなかった相手だろ。……本当に? キスもしなかったのか」  怪訝な顔をする田辺から言われ、岡村はむすっとした表情でバーボンのグラスを引き寄せた。優しくして欲しいわけではないが、言い方はあるだろう。飲み方が荒れるぐらいには、メゲているのだ。 「すれば、よかった」  丸い氷を指でくるくると回し、苦々しく口にした。 「どうせいなくなるって、わかってたら……」 「よっぽどだな。アニキに殺される前に、本人に殺されるパターンだ」  からかうように言った田辺が黒い煙草の箱を引き寄せる。引き抜いた一本に火をつけた。  田辺の口調は軽いが、言葉は重い。岡村が横恋慕していた佐和紀は、兄貴分である岩下周平の男嫁だ。入院した組長の治療費を得るために人身御供としてやってきたチンピラは、冗談のような白無垢が恐ろしく似合う美人だった。  ごく普通に考えて、世話係を任命された岡村が惚れていい相手ではない。それなのに、うっかりと惹かれ、気になりだしたら最後、ずるずると恋に落ちた。  顔がいいだけなら、ここまで好きにはならなかったと思う。  佐和紀という男は、息を呑むほど美しい横顔をしていながら、幼稚で粗雑で腕っ節自慢の乱暴者だ。  精神的な幼さが、相手を萎えさせ怯ませるところがあり、佐和紀と同じ組にいたヤクザは『手出しをすればなけなしの道徳心に傷がつきそうだった』と話す。  しかし実際は、顔に騙されて手を出したが最後、返り討ちにあってボコボコにされる。  岡村をからかっている田辺も被害者のひとりだ。  結婚する前の佐和紀を美人局グループへ誘い、安い金で働かせた挙げ句に手を出そうとして失敗している。  当時の岡村はなにも知らなかったが、田辺が繰り返していたケガの理由はそういうことだ。インテリヤクザの部類に入る田辺は、街のチンピラと揉めることを避けていたし、ケンカになるようなことはしないから、妙だと思っていた。 「いっそ、殺していってくれたら、よかったんだ」  酔いに任せた岡村は低く唸った。  そもそも岡村の『恋愛対象』は男ではない。色事師だった岩下の指示で『抱く』ことはあったが、自分の意志で選ぶなら恋愛もセックスも女がよかった。  だからこそ、佐和紀への想いは深い。恋愛と忠誠の真ん中で右へ左へと揺れながら、生きるも死ぬも任せるつもりでいたのだ。  それなのに、佐和紀は消えてしまった。 「……もういいから、飲めよ」  田辺の声に同情の響きが混じる。チェイサーが奪われ、バーボンを戻される。グラスを握った岡村の手を口元まで運び、田辺の手が離れていく。  甘い香りが淡く鼻先をかすめ、液体を舐めるように飲む。すっかり酔いが回り、アルコールの強さも感じなかった。残りを喉へ流し込んで、宙を見つめる。  佐和紀が出奔して二週間が過ぎた。  誰にも言わず、素振りも見せず、ある日を境にして大滝組の男嫁は消えてしまったのだ。  考えられる原因はいくつもある。  世話係の知世【ともよ】が暴行された事件。  佐和紀の過去を知る男の出現。  そして、分裂が噂される関西ヤクザの情勢。

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