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第2話
大阪で暴れないかと引き合いが来ていたことは、岡村も知っている。
佐和紀はもはや、きれいなだけの男でも、腕力にモノを言わせるだけの男でもない。周平との結婚生活ですっかりと磨き上げられ、魔性とも言える人たらしの才能を持っている。
色仕掛けの一歩手前。絶妙な関係性で、地位にあぐらをかく男たちの慢心を手玉に取る。不思議と、地位の高い相手ほど佐和紀の策に落ちるようだ。
しかし、佐和紀本人が望んだことは、相変わらずの暴力沙汰なのかもしれない。
昨今のヤクザを取り巻く状況は厳しく、関西で抗争が起これば、警察を巻き込んだ三つ巴の戦争になる。そうなれば、関西ヤクザの組長たちは使用者責任で軒並み検挙される。
佐和紀を誘った大阪ヤクザの美園(みその)と京都ヤクザの道元(どうげん)の思惑が、色仕掛けと暴力沙汰、どちらに比重があるのかもはっきりとしないままだ。
岡村は彼らの真意を探ろうとしていた。その上で、岩下とも連携を取り、佐和紀の動きをバックアップするつもりで準備を進めていたのだ。
それなのに、佐和紀はひとりで勝手に飛び出してしまった。どこへ行くとも誰を頼るとも教えられず、岡村が佐和紀の出奔を知ったのは岩下の伝言を通達する支倉(はせくら)千穂(ちほ)を通してだった。
つまり、岡村は置き去りにされたのだ。
おまえは俺のものだと言った佐和紀は、捨てることも自由だと言わんばかりに、『右腕』となって支えるつもりでいた岡村を残して消えた。さらに驚いたのは岩下の決断だ。
一週間を区切りにすると宣言して、戻らなかった佐和紀との婚姻関係を解消し、離れに残っていた佐和紀の荷物もすべて処分した。
佐和紀との愛情を、あれほどたいせつに育んできた岩下の行動は、さまざまな憶測を呼んだ。
捜索をかけようともしないのは、ふたりの間になんらかの話し合いがあった証しだと噂する者がいれば、暗躍の著しい岩下の裏の顔に、佐和紀が耐えられなくなったと邪推する者もいる。
「おまえだったら、どうする」
グラスを口元に運んだまま、岡村はぼんやりと問いかけた。
田辺にも新しいグラスが届いている。ふたりは視線を合わせず、前を見たまま酒を飲む。岡村はもう一度、言った。
「おまえの男が、ある日消えたら、どうする」
「……追いかける」
静かな声は、慎重に答えを探した。田辺の恋人は男だ。
その男のために、田辺は危険を承知で大滝組からの足抜けを実行し、完全には足を洗えないながらもカタギへ戻った。
「おまえのところは、『恋人』だもんな」
バーボンをちびりちびりと飲みながら、岡村は肩を揺すった。笑いが込み上げる。
「恋人って、おまえ。笑わせるよなぁ。散々、佐和紀さんを追い回しておいて、いまさら、あんなスジ筋の男を選ぶか? 完全にホンモノだろ」
酔いに任せて揺れながら、『ゲイの好きそうなタイプを選んだ』と揶揄する。
田辺は言い返してこなかった。
佐和紀に置いていかれてクダをまくしかない自分を憐れんでいるのかと思ったが、すぐに別の可能性が頭をよぎった。酔っていても、まだ頭の回路は正常に動く。田辺が言い返さないのは、ヤクザ同士ではなくなったからだ。
ヤクザとカタギが危うく互いの腹具合を探り合っている。田辺が岡村と縁を切らないのは、大滝組の情報が必要だからだ。
田辺の恋人は、組織犯罪対策課の刑事をしている。
「佐和紀さんの方がよっぽどいいのに。バカか」
岡村の悪態に、田辺はひょいと肩をすくめる。仕草に、わずかな憂いが見えた。
大事な恋人のことは微塵も口に出さない。昔と変わらず、利口でずる賢い男だ。
「おまえみたいになりたくなかったんだよ。……きれいなだけじゃないだろ。あれは、猛毒の類だ」
「……おまえ、幸せそうだな」
カウンターに頬杖をついた岡村は、隣に座る田辺へ視線を向ける。伊達眼鏡をかけた横顔から表情が消えた。くちびるを引き結び、じっとうつむく。
いつもながらに、なかなかの色男だ。女好みの上品できらびやかな雰囲気がある。
それを武器にして、マダム相手の投資詐欺をするのが、田辺のシノギだった。
「幸せだろ?」
岡村が繰り返すと、田辺は小さく息を吐き出した。兄貴分の岩下に憧れてかけ始めた眼鏡を指で押し上げる。
「酔っぱらい……」
ぼそりと言って、手元のグラスを引き寄せた。思いついたようにバーテンダーに声をかける。
「酒を足してやって」
オーダーに対してバーテンダーが動く。ダブルの分量が足され、岡村はこめかみを支えた姿勢のままで、うんざりと眉をひそめた。
「飲んでも酔えない……」
「確実に酔ってるよ。送ってやるから、さっさと潰れろ」
おまけのように『バカ』と罵られ、岡村は無性におかしくなった。肩を揺らし、背中を丸めて笑う。
「当たってるよなぁ」
自分でもバカだと思う。大バカだ。
誰よりも必要とされていると思い込んでいたし、どんなことでも思うままに動いてやれる自信があった。まさか、置いていかれるとは思いもしなかったのだ。
「捨てられた犬みたいな顔、するなよ……。このまま、待ってるつもりか?」
田辺の声が遠のいて聞こえ、岡村は黙々とバーボンを飲む。
余計なお世話だったが、口には出さない。なにを言っても、もの悲しく、ただひたすらにむなしいだけだ。
「必要とされてないのに、行けるわけないだろ……。だいたい、どこにいるのかも知らないよ」
急激に酔いが回り、ろれつが怪しくなる。岡村は何度も『無理だ』を繰り返し、そしてうつむいた。
屋根付きロータリーで、タクシーが停まった。コートを片手にかけた岡村は、まっすぐに自動ドアを抜ける。
その先に設置されたオートロックを解除して、明るいエントランスホールへ入る。天井高のある開放的な造りで、大きなソファがいくつも置いてある。シックな雰囲気の空間を横目に、エレベーターに乗り込んだ。
利用階を押し、ドアが閉まるのと同時に、壁へもたれかかった。すっかり酔ってしまって、視界も危ういほどだ。見据えていないと、小さな数字はぼやけて読めない。
送ってやると言って飲ませてきた田辺とは、店の前で別れた。バーカウンターから離れた岡村がまっすぐ歩いているのを見て、ひとりで帰れると判断したのだろう。タクシーには同乗しなかった。
エレベーターを降りて、廊下をフラつきながら歩く。高級マンションは、いつも静かだ。入居者に会うこともほとんどない。
部屋の前で鍵を取り出したが、鍵穴が何重にも見えて差せない。苛立って舌打ちを繰り返し、ドアに額をぶつけた。そのまま、指先の感覚で鍵穴を探す。人肌へ這わせるようにすると、不思議に場所がわかる。その指に沿わせて差し込むと、鍵の先端が空間の中を埋めて収まった。
「目隠しプレイかよ」
独り言を吐き捨てながら、家の中へ入る。帰り着いた安堵感で、酔いと眠気が一気に増す。それでも、ドアに額をぶつけながら、施錠とチェーンを確認する。
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