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第3話
あとはもう、動けなくなった。
貼りつけていた外面が溶け落ちて、素の自分に戻る。陰鬱で御しがたい暗闇が迫り、冷たいドアに頬を押し当てた。酒のせいで、身体中が火照っている。
もっともっと飲めばよかったと、理性の欠片を疎ましく思いながら、いつのまにか落ちていたコートを踏んだ。
瞬間に吐き気が込みあげ、岡村は革靴を脱ぐ暇もなく、トイレへ駆け込む。間一髪だ。
どこも汚さずに嘔吐を済ませ、洗面台で顔を洗う。うがいをして、歯を磨きながらジャケットを脱いだ。ゆるんでいたネクタイもはずし、座り込んで靴紐をほどく。
適当に投げ捨て、スラックスも脱ぐ。すべては明日の自分任せだ。
いつの頃からか、スーツを着て飲むと、意識を飛ばさなくなった。おそらく田辺も同じだろう。そういう教育をされてきたのだ。
意地の悪い表情ほど色っぽく見える岩下は、ことあるごとに舎弟を泥酔させた。
和洋酒のちゃんぽんに、ボトルの一気飲み。意識を失ったあとは捨て置かれる。誰のものとも知れない吐瀉物にまみれ、雑魚寝の中で目を覚ましたことも一度や二度じゃない。
ひどい二日酔いの記憶をたどり、壁にもたれた岡村はシャツのボタンに触れる。片手でははずせず、歯ブラシをくわえて両手でやろうとしたが、指先は言うことを聞かない。
笑えてきて、歯ブラシを洗面台に投げた。手で水をすくい、口をゆすぐ。シャツの裾で拭って、鏡に映った指先を見ながら、ようやくボタンをはずした。
酒にまつわる失敗は思い出したくない。どれもこれも、こっぱずかしいほどに苦い思い出だ。なにより若かった。その青臭さがたまらなく疎ましい。
前ボタンをはずし終え、そのまま脱ごうとしたが、手首で引っかかる。カフスだ。袖のカフスをはずし忘れていた。
仕方なく、もう一度肩まで引き上げて着た。スラックスやジャケットを踏んでキッチンへ向かい、冷蔵庫から2リットルのペットボトルを出す。スポーツドリンクだ。ソファにどっかりと座って、直に飲んだ。
酔いはまだ醒めない。醒めて欲しくないと思う。視界がぼやけ、なにもかもが、ゆらゆらと揺らめく。酩酊している間だけが、冷静でいられる瞬間だ。
佐和紀がいなくなってから、岡村はそういう生活をしている。
ペットボトルを足元に置いて、シャツの袖口をあらためて眺めた。
カフスをはずす岩下の姿が、脳裏をよぎる。なにをしても退廃的な色気が滲み出る男だが、卑猥さを増すのは衣服に触れているときだ。着るときも脱ぐときも、同じようにエロい。
そんなことを考えながらいじっていると、カフスがはずれた。ローテーブルの上に載せ、もう片方に触れる。
岩下がなぜ、佐和紀を手放したのか。
佐和紀がなぜ、岩下のもとを離れたのか。
このふたつは、岡村にとって、たいした疑問ではなかった。
岩下は、佐和紀を嫁として囲い込むことを避け、結婚してからずっと、自立させようと心配りを続けていた。愛情深く接しながら、自分自身のことも律していた。
だから、岩下が追わないのは道理だ。手放すべきときが来ただけのことだろう。好きだとか嫌いだとか、周りが邪推するような理由ではない。
そして、佐和紀は、岩下の求めた通りに自立した。そういうことだ。
嫁に来たときは、無鉄砲なただのチンピラだった。幼稚で、未熟で、無知で。ちょっとしたことに傷ついては、離れを飛び出して逃げていた。
いまでも無鉄砲さに変わりはないが、磨かれた美貌は倍増した上に、色気の出し入れも自在だ。人を使うことにも慣れ、自分なりに責任も取る。
知世が痛めつけられたとき、佐和紀はカチコミでケジメをつけた。首謀者は逃げたあとだったが、佐和紀の『身内』に手を出せばどうなるか、ヤクザ界隈の人間なら理解できただろう。
あれが、佐和紀にとっては引き金になったのかもしれない。岡村はそう思う。
岩下は引き止めず、『離婚』と『荷物の整理』で、佐和紀の退路を断った。
相手を想えば想うほど、冷酷なことを平気でする男だ。
岡村や田辺が、繰り返し、泥酔させられたのと同じことかもしれない。
自分の不在時にも弱みを握られないよう、アルコールの限界値や立ち回り方を仕込まれたのだ。その甲斐あって、岩下の舎弟が酔いに任せて情報を漏らすことはない。
岩下の優しさは、傷口に吹きつけるアルコールのようなものだ。消毒にはなるが、悶絶するほど沁みる。
もう片方のカフスもはずれ、岡村はふたつをローテーブルの上に並べて置く。
立て膝の上に肘を置き、身を屈めながら息を吐き出した。胸の奥がモヤモヤして、鼻の奥もツンと痛む。
広々とした高級マンションの部屋は、まるでモデルルームだ。備え付けの家具は高級品で揃えられ、シックでセンスがいい。ここも、岩下からの斡旋だ。デートクラブの運営を任されたとき、それまで借りていた単身者用のマンションを引き払って引っ越した。
これからは、セレブ感溢れる部屋に似合う生き方をしなければならないのだと、岡村はすぐに悟った。
身につけるもの、食べるもの、飲むもの。すべてがワンランクもツーランクも上がり、たまに居酒屋で飲めば、なにもかもが懐かしく感じるぐらい、生活のレベルが変わった。
思えば、それが岩下から道を示された最後だったかもしれない。
佐和紀の右腕になることも認められ、岩下から離れることも許された。
なのに、と岡村は思う。
一言も告げずに消えた佐和紀を思い浮かべ、奥歯を噛んで感情をこらえる。
部屋には、佐和紀も何度か来た。
いま、岡村がいるソファで膝を抱いていた。外側が磨かれ、内側が成長しても、佐和紀のあどけなさは変わらないままだ。
いじらしくて、性質が悪い。
外ではお行儀よく振る舞うのに、宅飲みではすっかりリラックスして、ビールとつまみを楽しみながら膝を抱えて煙草をふかす。自分の吐き出した煙に巻きつかれ、苛立ちまぎれに悪態をついていた。
自分に横恋慕している男が牙を剥くとは考えもせず、のんきに酔う姿だ。
酒で赤く火照ったうなじと、繰り返し指で掻いていたくるぶし。
健康的な佐和紀の面影をたどり、岡村は、股間へ指先を伸ばした。記憶を甦らせ、自慰に耽る。
佐和紀を抱くような妄想はしない。岩下に抱かれる佐和紀の声を思い出しても、夫婦の営みは想像しなかった。
いつだって、ただ、佐和紀がそこにいると思えばよかったからだ。自分の佐和紀は、自分自身の心の中に、ただひっそりと存在している。
そんなふうに、じくじくと湿った興奮に刺激されて、薄暗い感情だけで射精まで導かれた。佐和紀をネタにすることに罪悪感はなかったが、達したあとで愛しさを感じることには戸惑いがついて回る。手のひらに出した精液の生温かさに、岡村は顔をしかめた。
これが愛と呼べるのか。考えても答えはない。
絶対に手に入らない相手だ。佐和紀は岩下を愛している。そこに、岡村が入り込む余地はない。愛人にさえ、してもらえない。
それでもいいから、そばにいたいと思ってきた。恋慕に勝る忠誠を誓い、足元にひれ伏すことだって厭わない覚悟があった。
なのに。
「……っ」
心臓のあたりに、鋭い痛みが走る。思わず片手で押さえた。
動悸が激しくなり、息も苦しくなる。
「なん、で……っ」
繰り返し口にした言葉が、今日もくちびるをついてこぼれる。悲痛な声はかすれ、岡村は強くまぶたを閉じた。
連れていってくれると思っていたのだ。
右腕として、離れることなく行動できるのだと信じていた。
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