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第4話
肩で息をして、スポーツドリンクをもう一度、飲む。
脱いだシャツを手にして立ち上がり、風呂場へ向かった。折り重なったスーツの上にシャツを投げ捨て、下着も脱ぐ。
シャワーを浴びて、髪を洗う。目を閉じると佐和紀の面影が浮かんできて、目頭が熱くなった。泣いたところで苦痛がなくなるわけじゃない。でも、シャワーにまぎれた涙は、酔っているからこそ、こらえようがなく、溢れ流れる。
なぜ、連れていってくれなかったのか。
たった一言を、どうして、残していってくれなかったのか。
待てと言われたなら、待つ。追ってこいと言われたなら、すべてをなげうって追っていく。
なにもないままに消えてしまっては、路頭に迷うばかりだ。捨てられた犬だと、自分でも思う。
壁にかかったシャワーを掴み、頭から浴びてうつむく。足元を流れるシャンプーの泡さえ、絶望的にはかなく思えて、もの悲しい。
どこかで間違えたのかもしれなかった。
必要とされる右腕になりたいと願ってきたが、特別に見られたいと思うあまり、暴走したこともある。
身体を繋ぎたい。
甘くささやきたい。
恋人のように、見つめて欲しい。
キスもできないなら、せめて、心だけは愛人のようにと、佐和紀を求めた。
それがどれほど生意気で、だいそれた望みなのか。いまになって理解できる。
岡村の胸は後悔に苛まれた。
ひとつひとつは小さな望みでも、佐和紀にとっては面倒な要求だっただろう。
一緒に連れていくには、足手まといになると思われたに違いない。
いくら後悔しても、あとの祭りだ。覆水は盆に返らない。
少し前の佐和紀だったなら、岩下や世話係の助けなく、ひとりで動けるはずがなかった。しかし、いまの佐和紀は、どんなふうにも動くことができる。協力者には困らず、なによりも佐和紀自身が人の指示を受けずに動ける。
いっそ、自発的な行動力なんて持たないで欲しかったと思うたび、岡村は猛烈な自己嫌悪を感じてしまう。
岩下のように、寛大にはなれない。離れていても、置き去りにされても、佐和紀が自由ならそれでいいとは思えなかった。
そばにいなければ意味がないと思う。どんなふうにでもいいから、必要とされていなければ、佐和紀を求める心は乱れる一方だ。
シャワーを止めて浴室を出ると、酔いも眠気も薄れていた。
まだまだ酩酊の中にいたいと思いながら髪を拭いていると、スーツの山からバイブ音が響いた。携帯電話の存在を思い出し、足で山を崩す。転がり出た携帯電話に表示されているのは、桜河会(おうがかい)若頭補佐の道元に割り当てた偽名だった。
そのまま足の指で通話ボタンを押し、ハンズフリーに切り替える。
応答の声を発することもなく髪を拭いていると、携帯電話から男の声が聞こえた。
『……話してもいいか』
「どうぞ」
そっけなく答えて、携帯電話を拾いあげた。寝室へ行き、下着を身につける。Tシャツとボクサーパンツだけで、枕を背に挟んでベッドに足を伸ばした。
『岩下が離婚したって噂が出回ってる』
身体の脇に置いた携帯電話から聞こえる道元の声は、本人のスタイリッシュな容姿を想像させる美声だ。低すぎず、甘く響いて、よく通る。
「おまえはとっくに知ってただろ?」
道元吾郎(ごろう)は、大阪にある阪奈会(はんなかい)石橋組(いしばしぐみ)の美園と合わせて、関西ヤクザのエースと名高い。遠く離れた関東の情報であっても、大滝組幹部に関わる事項であれば早急に報告されるはずだ。
『やっぱり本当なのか。……なにがあった』
「どこまで噂になってるんだ」
『北関東で揉めごとがあった話は聞いてる。抗争に発展しかねない事件を、岩下と嫁が、押さえたんだろう?』
「……ちょっと違うな」
湿った髪をヘッドボードに預け、引き寄せた煙草に火をつける。
『声が遠い。ハンズフリーだろ』
「酔ってるんだ。大きい声は出せない。……男の声を耳元で聞くのも嫌だ」
『近々、東京へ行く。出てきてくれ』
偉そうな誘い方だ。岡村は表情を変えずに、煙を吐き出した。
携帯電話を手に取り、水平にして口元に引き寄せる。
「横浜まで来いよ。呼びつけるな、なに様だ」
強い口調で言い返す。すると、電話の向こうで道元が怯んだ。
桜河会は京都で一番の組織だ。西を牛耳っている高山組(たかやまぐみ)にも屈せず、独立を守っている。その組織の若頭補佐のひとりといえば、若手でも地位は高い。
大滝組の一構成員に過ぎない岡村とは立場が違う。
しかし、ふたりには関係のないことだ。岡村は、短く息を吐いて笑った。
「道元。あの人はそっちに流れたんじゃないのか」
佐和紀を関西に呼び寄せようとしていたのは、美園と道元だ。
佐和紀をオヤジたちに侍らせるのかと思うと、虫唾が走る。
岩下と佐和紀が別れた原因も、そこにあるのかもしれないと岡村は思う。
力試しをしたい佐和紀と、ケガを恐れる岩下。
離婚だけでなく荷物の処分までしたのは、佐和紀が岩下の意向に背いたためとも考えられる。
いくら、岩下が寛大な夫だとしても、嫁がハニートラップの仕掛けに使われるとわかっていて行かせたりはしないはずだ。評判を落とすことがあっても上がることはありえない。
『うちには来てない』
道元が真剣な声で答えた。
『美園に、離婚の真相を聞いたら、同じ質問を返された。俺が隠していると思っていたみたいだ。もしも、岩下の怒りを買って身を隠しているのなら、早めに匿いたい』
岩下と仲違いしても、岡村とは連絡を取り合っているはずだと思い込んでいる。
これまでの佐和紀と岡村を知っていれば当然だ。
「勝手に話を進めるなよ。居場所なんか、知らない。知らないんだ」
うんざりとした気分で岡村が言うと、
『……じゃあ、今度、あらためて聞くから』
道元はあっさり引いた。いまはそういうことにしておく、と言いたいのだ。岡村の言葉を初めから信用していない。
「ホテルの部屋を取るなよ」
釘を刺すと、電話の向こうの道元ははっきりと動揺した。
『俺は、と、泊まるんだから……』
「うちの店に来いよ。若い男でも女でも接待させてやるから。……なんなら、俺も含めて三人でするか」
『乱交の趣味はない』
冗談に対して、道元の声は固い。しかし、硬派でも堅物でもない。道元はそれなりに遊んできたタイプで、女関係もヤクザらしく派手だ。
「目覚めさせてやれば、文句ないんだろ」
岡村はひっそりと笑う。道元が、ぐっと黙り込んだ。
「おまえが犯られてるところを見ながら飲んでも、たいしてうまくないだろうけどな」
『じょ、冗談……。言うな、よ……』
乾いた笑いでごまかそうとする声が、かすれて聞こえる。
意地の悪い笑みをくちびるの端に乗せ、岡村は、やはり岩下のことを思い出した。
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