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第6話

 しばらくは子どもたちの近況とおやつを肴にビールを傾けた。田辺とバーで飲むときの雰囲気とはなにもかもが違っていて、岡村はリラックスした気分になる。ソファの足元にもたれた。 「浮かない顔、してる」   ソファの上で足を崩した静香が、顔を覗き込んでくる。 「こんな夜中に来るなんて、珍しいんだもの。変だと思うわよ、誰だって」  静香はそう言ったが、女の勘の良さは侮れない。 「ひとりでいたくなかっただけだよ」  岡村は薄く笑って答えた。 「……ちょっと、やつれたんじゃない? ちゃんと、食べてる? お酒はごはんじゃないのよ」 「食べてるよ、食べてます」 「本当に?」  うたぐり深い声で言った静香が、ソファの座面から床へ、するりと下りてくる。隣で膝を揃え、手に持っていた缶ビールをテーブルへ置いた。片手が岡村のあごの下をかすめて伸び、顔を引き寄せられる。 「居場所がわからないから、追わないの?」  真面目な声で問われ、ごまかせなかった。女の真剣な瞳は嘘を許さない。これがセックスをしているだけの相手ならかわせるが、静香とは付き合いが長すぎて無理だ。  最後までしたことがないだけで、互いに酒に呑まれた挙げ句の失敗は何度かある。それでも、いつのまにか姉と弟のような関係に収まってしまった。疑似家族の真似を定期的に続けていると、他人と家族の境界線はあやふやになってしまう。 「……どうなんですかね」  頬を引き寄せられたまま、岡村は視線をさまよわせた。右へ左へ。そしてうつむく。 「わかったからって、簡単には追えない。……あのふたりが別れたのも、書類上の話だ。きっと元に戻る。だから、俺は動けないじゃないですか」 「仕事があるから?」  静香の問いにうなずくと、頬に当たっていた手がずり落ちた。  岩下から任されているデートクラブの収益は、佐和紀の今後の活動資金に充てられる予定だった。いっぱしのヤクザになるには金がかかる。 「……必要とされてないんです」  思わず言葉がこぼれてしまい、岡村は自分でも驚いた。ハッと息を呑んで、静香から顔を背ける。  デートクラブの仕事については、支配人を社長職の代理に立てることも不可能ではない。すべては必要とされていない現実から逃げるための言い訳だ。 「そんなことを考えて、沈んでたの?」  なにげない一言が胸に突き刺さった。『そんなこと』なんて軽い言葉で片づけられたくない。しかし、そう言えなくて黙り込む。  自分以外には理解できないだろうことはわかっている。  思えば、初めから危うい関係だった。  どんなに求めても、佐和紀は他人の妻で。  そして、その亭主は、よりにもよって、どうあがいても勝てないと知っている兄貴分で。  佐和紀から性的にからかわれても、岡村からの冗談は許されない。  あやふやな基準に反してしまい、理不尽に機嫌を損ねることもあった。そんなときでさえ、身勝手だと非難できないぐらい特別な相手だ。  無神経な言葉で自尊心を傷つけられても、そばにいることを許されたら、一瞬にして忘れてしまう。  身体を繋がず、肌にも触れない。だから、気持ちはいっそう純化して、プラトニックこそが至高の愛のように思えた。  愛され、必要とされているのだと、思い込んで疑わなかった。 「慎一郎くん。岩下さんと支倉さんが、あなたを組に戻そうとしてることを知ってる?」 「え? いや……」  そう言ったきり、言葉が出てこない。 「ふたりは追って欲しいんじゃないの? 慎一郎くんが仕事を理由に動かないと思ってるのよ」 「そんなに優しい人たちだと思いますか」  問いかけながら、身体中の毛が逆立った。くちびるがわなわなと震え、床の上で片膝を抱く。 「デートクラブの社長を辞めさせられたら、組事務所の仕事に逆戻りだ。……佐和紀さんを探す資金も得られない」 「それならいっそ、いまのうちに」 「だから……っ!」  膝を抱えたまま、岡村は叫んだ。くちびるを噛み、それでも耐えられず奥歯を噛む。身体がぶるぶる震えて、止まらなくなる。  佐和紀に捨てていかれただけでも崩れ落ちそうな世界に、岩下と支倉は、容赦のない追い打ちをかけようとしていた。  出奔に気づかなかったことを責めるような仕打ちだ。  岡村は憤りを覚え、顔を歪めた。激しい感情は、胸の中で渦を巻き、岩下と支倉を飛び越えて佐和紀へ向かう。 「佐和紀さんは自分勝手なんだ。いつだって、自分のことしか考えてない。俺の気持ちをわかってるような顔で振り回して……。あんな人、好きになるんじゃなかった」  「ねぇ、ちょっと……」  戸惑った静香になだめられそうになり、岡村は肩を引いた。 「どこにいるのか、本当にわからないんですよ。アニキとの間になにがあったのかも知らない。本当に……本当に、戻ってくるのかも、俺は知らない、のに……」  息が喉に詰まり、視界がぼやける。けれど、涙はこぼれなかった。悲しみや怒りの感情の方が速くて、涙が追いついてこない。まるで佐和紀と自分だと思う。  追いつけないのだ。いつだって背中を見つめるばかりで、佐和紀の成長に手が届かなくなる。 「……探す手立ては、あるじゃない」  慰めようとする静香の声は願望を含んでいる。そうであって欲しいと思うのだろう。 「ないわけじゃ、ないですよ」  首筋を引きつらせた岡村は顔を歪めた。 「でも、俺を待ってるわけじゃない。もう誰かが隣にいて、あの人を支えてるかもしれない。……追いつけないんです。俺は……、ずっと……、いまのままでいたかった……」  岩下に守られながら、岡村に頼る。そういう佐和紀を望んでいた。 「俺のこういうところが、気に食わなかったんだと思う」 「言われてもないでしょう」 「言われたら、首を吊って死にます。……黙って消えたのは、せめてもの情けだ」 「慎一郎くん……」  言葉を探す静香の手が肩甲骨に押し当たる。さすりながら、首まで上がり、そっと首の付け根を掴まれた。 「かわいそうに」  小さなささやきが耳まで届く。女の憐憫は、男の同情とは比べものにならないほど優しく聞こえ、若い女にはない大人の女の成熟した匂いが寄り添ってくる。  ローブ越しの胸がトレーナーを着た腕に当たり、ブラジャーをつけていない乳房の豊満さを思い出す。  吐息を耳元に感じたときには、くちびるが押し当たっていた。 「……する?」  耳元へのキスで誘ってくる静香から逃れ、岡村はまるでウブな童貞のように顔を背ける。 「岩下さんが決めたら『絶対』よ。……知ってるでしょう」  痛々しげな静香の口調に、岡村は顔をしかめる。  結局は、あきらめるしかない。  佐和紀に置いていかれ、岩下には仕事を取り上げられるのだ。  それもこれも、右腕として連れていってもらえなかった自分の未熟さが原因だろう。もっとうまくやるべきだったと後悔しても、その手段は考えつかない。  たとえ時間が巻き戻っても無駄だ。それならいっそ、佐和紀に出会う前の自分に戻して欲しいと思う。  きっと、今度は間違わない。好きになんかならない。  そう決意する裏側で、何度でも巡り合いたいと願う本心に打ちのめされる。  もう一度、出会いからくり返して、確かに存在した信頼関係を味わいたい。  甘えたように意地悪く笑う佐和紀を、岡村はいまでも見ていたかった。

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