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第7話
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「さて。今日は一季君待望の帽子を買いに行こうと思います」
「待望じゃないです。もう家にある木実さんの帽子借りるのでいいです。貸してください」
「嫌です。何故なら今から買いに行くからです」
「別に何でもいいですってば」
「いいから、いいから。今日はさ、駅のあっち側に行ってみようよ」
「ぇ、それって……」
もしかしてあの事務所に行くとか?
とたんに一季の顔が不安に曇る。
「ばっか。ただの好奇心だよ。こんなこと滅多にないじゃん? 別にそこにお邪魔するわけじゃない。ただ本当に存在するのか確かめたいだけ。なっ、いいだろ?」
本当にただの好奇心だったし、どうせなら駅のあっち側で買い物もしたかったからだ。駅のあっち側はおしゃれな店が多い。そこで気に入った帽子があるかどうかは分からなかったが、この場合多少高くても彼が気に入れば購入しようと心に決めてのことだった。
「分かりました。でも気に入った帽子あったら、高くても買ってもらいますからねっ」
「任せとけって」
ポンっと胸を叩いて嬉しさを表す。これで堂々と名刺の事務所探索に出かけられる。
で、何だ? ってことでもないんだけどね。
ただの答え合わせをしてみたかっただけの木実だった。
駅裏から駅の表側に歩いて十分。
そこから放射線状に伸びた道の一本に足を運ぶ。こちら側は新しいビルもある代わりに脇道に入ると昔ながらの古い建物もふんだんに存在する。まるで新しいビルがニョキッと生えているような感じだった。その中でも一部が鏡のように光を反射するような建物があり、そこがお目当てのビルだとすぐに分かった。
「あそこのビルのワンホールが事務所らしいね。変わったビルだな……」
「……」
「ぁ、見に来ただけだから」
「……分かってる」
「もしかして心細い?」
「そんなことないけどっ」
帽子を買うと言う名目でこっち側に来たので、今日一季はまだ帽子を被ってはいない。だからか、あまり乗り気じゃない顔つきが家を出てからずっと続いてるのだった。
「にしても凄いよね。一季あんなに立派な会社からスカウトされるなんて」
「……もう見たんだから満足したろ。早く帽子買いに行こう」
「うん、ごめん」
もう一度珍しいビルを見上げると踵を返して駅ビルにでも行ってみようと歩き出す。
「あそこには、こっちの情報は何も伝えてないんだろ?」
「うん」
「ならこっちから連絡しない限りしつこく言われることもないだろうから安心だね」
「うん」
「じゃ、まじめにウエイターとか探してみる?」
「まだ何するかは決めてないし。人前に出るのは嫌かも」
「帽子買いたいくらいだもんな」
「分かってるなら、それ以上言わないで」
「ごめん」
ちょっと臍を曲げて口を尖らせている一季に軽く体当たりをすると並んで駅まで歩く。近道だからと言う理由で脇道に入って古い街中を歩いている時、出会ってしまった。
「ぁ……」
「ああ、この間の」
目の前にいたのは、この間一季がテレビ電話で話したと言っていた大物俳優・真野真司(まの しんじ)だった。
彼はテレビや映画・CMなどで活躍しているが、芸能人自体を生で見た二人、と言うよりも木実のほうが動きが止まってしまうほどの驚きようだった。
「来たんだ。いや、嬉しいねぇ」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「芸能人って本当にいるんだ……。ぁっ、すみませんっ」
言ってしまってから、自分は部外者だと言うのに気付いて慌てて口を手で塞いだ。
「君は? えっと……」
「俺が居候させてもらってる家主です」
「そうなんだ」
よろしく、と笑顔を向けられて思わず叫んでしまいそうになるのをグッと抑えて激しく頷いたのだった。
「事務所、誰もいなかったの?」
「いえ、行ってませんから」
「何で? ここまで来て何言ってんの?」
「見に来ただけですから。この人が事務所あるトコ見てみたいって言うから」
「だったら中まで見ようよ。ほら、君も一緒に」
言われながら肩を抱かれて事務所への道を引き返す。
真野は木実と一季の間に入って両手に花のごとく二人の肩をガシッと抱いて離さなかったのだった。
でも一季のことを考えるとこれは途中で失礼するのが賢明と考えた木実だったが、ガシッと掴まれた肩を放してもらうことが出来ずに結局事務所に通じるエレベーターに乗り込んでしまっていた。
「ぇっ……と……」
「見るだけ、見るだけ」
「……」
何を言っても解放しもらえそうもないのを察した木実はチラリと一季を見たのだが、間に真野がいるので意思の疎通が出来ないどころか顔を見るのも十分に出来ないくらいだった。
ウイーン……とエレベーターの上がる音だけが静かに響く。
十階が事務所で、エレベーターはそこ直通の専用だったとボタンを押されてから初めて知った。そしてエレベーターの扉が開くと、そこはもうワンフロア事務所と言う形になっていて、人気者の真野が入ってきたせいか、フロアにいたみんなが一斉にこちらを振り向いて挨拶してきた。
「おはようっ」
「おはようございますっ」
「おはようございます!」
口々に明るい笑顔が飛び交う。真野は二人の肩をガシッと掴んだまま奥へ奥へと歩いて行った。
「ぁ、ここは企画考えてるところ。マネはもう少し奥にデスクあるから」
「あのっ、俺帰ります」
「ここまで来てるのに?」
「別に興味ないしっ」
「だったら何であんなに近くまで来たの」
「だからこの人が見たいって言うから、付き合って見に来ただけですから」
「だったらオマケ。オマケだと思って事務所見て行きなよ。あ、おい晴美! いたいた。この子に名刺渡したの、覚えてる?」
「ぁ、はいはい。わざわざ会いに来て下さったんですか? 光栄だなぁ」
デスクで書類を片付けている手を止めてスーツ姿の男がひとり、真野のほうに近づいてくる。その顔は本当に嬉しそうだった。
「ちょっとどんなところか見に来ただけですっ。そしたらこの人に捕まっちゃって……」
「うん。捕まえた。駐車場に車置いて事務所行くまでの間に落ちてた」
「落ちてません」
「その方は?」
「一緒に住んでるらしいよ」
「恋人さんですか?」
「いっ、いえ! 同居人ですっ! って言うか、部屋主です。こいつはただの居候でして……」
「あ、保護者的な?」
「ぁ、そうですね。そんな感じです」
「だったら好都合です」
「俺、自分の意志で来てませんけど⁉」
「そうなんですか?」
「まあ。今日は俺がホントにこんな近くに芸能事務所なんて存在するのか確かめたかっただけで……一季はその気はなくて……ですね」
これは一季のためにも是非言っておかなければと木実が口を挟む。
「でしたら今日は見学だけってのは、どうでしょう」と晴美が明るく言う。
「…………ならいいけど」
渋々了承する一季にホッと胸を撫で下ろす。
ごめんな、一季……。
「一般的に考えて、君ならその辺で働くよりも十分稼げると思うよ。それに、ちゃんと寮だって用意出来るし。そしたら居候なんてしてなくても良くなるんだから……」
「それは俺が決めることだし、俺は木実さんのところを出るつもりもない」
「ぁ、そっかそっか。別にね、今日は見学だけだし、至急決めなきゃいけないことでもないしね」と手早く晴美は訂正した。
事実木実から見ても一季はこの仕事には向いている容姿を持っていると思う。ただ本人にその気がないだけで、それが重要なんだけど。
「ここは主に打合せとか企画を出す場所だから、見学できるエリアも少ないと思うよ」
「じゃ、後頼むね」と真野が時計を指差して晴美に託す。
晴美は二人を連れていったんエレベーターのところまで戻ると階段を使ってひとつ下の階に案内してくれた。
「ここは稽古場とか会議室、配信室、とかレッスン室が設けられてる。所属しているタレントたちがいるのはこっちのほうが多いと思うよ」
「ふーん」
「……もし、もしもだよ。君がここで働いてもいいなって思うなら」
「思ってないから」
「うん。もしもって話なんだけどね。レッスン料は無料なんだ。けどそれじゃあ生活出来ないから、現役のお付きをして稼いでもらってるんだよ」
「お付き?」
「君なら真野君に付いてもらうのが一番手っ取り早いだろうけど、要するにアシスト係みたいなヤツだよね」
「……」
「君ならすぐにモデルとして働けると思うけど、抵抗あるんだよね?」
「だからその気がないって言ってんじゃん」
「うーん……」
「でもそのお付き、とか言うのはちょっと興味あるかも」
「ほんとっ⁉」
「それ、表に出ないんだよね?」
「うん。裏方だからね」
「お金出るんだよね?」
「出来るだけ出すように会社と交渉するよ。ぁ、立場はバイトってことだけど」
「……」
どう? と言った表情で一季がこちらを見てくる。
業界でも表に出ない仕事ならそんなに気合入れなくても大丈夫だろうし、何よりお金が稼げる。ちょうど働きたいと思ってる時だったので、ある意味ラッキーだと思えた。でもすぐに結論を出すことは控えて、今回は木実の携帯番号を教えて帰路に着いた。
駅までの路地を歩きながら隣の一季に尋ねてみる。
「付き人、してみる?」
「俺に出来ると思う?」
「どうだろう。やってみないと分からないよな……。でも」
「やってみるだけの価値はある?」
「その気があるのならね」
「考えてみる」
「無理しなくていいからね」
「うん」
〇
結局こだわりたかった一季の帽子は適当な店に入って適当な値段のものをチョイスして家に帰った。一季もそうだが、木実も上の空状態でその日は終わったように思う。電話番号は教えたが、相手からかかってくることはなかった。そんなこんなであたふたしている内にあっという間に一週間近くが過ぎようとしていた。
あれから、一季はあの日適当に買ったキャップを深く被って買い物に出かけるようになっていた。木実から見ると頭隠して尻隠さずみたいな感じで、いくら顔を見せなくても背の高さや体付き、醸し出す雰囲気で周りの人には誰だかすぐに分かってしまっていると思う。が、そこはあえて言わない。言わないほうが、彼が安心するからだ。
「今日も残業?」
「続いてるから今日は定時で帰りたいと思ってるけど、行ってみないと分からないな」
「分かった」
そしてこの日を最後に彼はいなくなった。
いたって普通の日々の中でバイトも後は心持ちひとつで出来たと言う時に、だ。
七話終わり
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