110 / 110
第十八話
翌日、名凛は乳母に一人でお散歩したいと伝えると、乳母は余計なことは一切言わず、ただあまり遠くまで行かないようにと優しく声をかけ名凛を送り出した。
名凛はいつでもどこにでもついてくる乳母が来ないなんてと思ったが、もしかしたら光安先生が昨日のことを乳母に話して、ついでに自分の好きにさせるよう乳母に言ってくれたのかも知れないとも考えた。
名凛はあてもなく気の向くまま森の中を歩いていたはずだったが、何故か行き着いた先は昨日光安と変な男がいたあの屋敷だった。
名凛はあの変なお調子者に出くわすと嫌だなときょろきょろと周りを見渡したが、屋敷は昨日と同じく人の気配がなくひっそりとしていた。
「なんだ、いないのね。つまらない」
名凛は修練場に引き返そうかと思ったが、少しだけ屋敷の周りを探索してみようと考え直した。
名凛は人がいないことをいいことに屋敷をあちこち見て周った。
昨日屋敷にたどり着いた時、こじんまりとした屋敷だと思ったが、よくよく見ると友安国にはない繊細な細工や装飾が至る所に施されており、異国の様式美が見てとれた。
「なんて素晴らしいのかしら!よくこれだけのものを……。昨日、全然気が付かなかったのはあのお調子者のせいね!」
名凛はぶつぶつ言いながらも、自らのあくなき探究心と好奇心を満足させるべく、時間を忘れて見入っていた。
「それにしても、これはなんて言う造りなのかしら。前に読んだ本にあったと思うんだけど。思い出せない……」
「教えてやろうか、お嬢ちゃん?」
名凛の背後から軽やかな男の声が聞こえると、名凛は一瞬両肩を縮め小さな悲鳴をあげた。
「ちょっと、あなた!なんでここにいるのよ!びっくりするじゃない‼︎」
名凛は振り向きざまに男に文句を言った。
名凛が振り返って見上げると、あのお調子者とやらがいたずらっこような笑みをたたえて名凛を見つめており、左手に小さな酒壺、薪の束を右肩に担いだ姿で立っていた。
男は「おぉ、こわっ!」と驚いたような素ぶりを見せるが、男には名凛の勇ましさはただ微笑ましいだけだ。
「あはは、それはこっちの台詞だよ。人の家を勝手に覗いて、一体何をしてるんだ、お嬢ちゃん?」
男は名凛の困惑する顔をさも面白そうにちらりと見たが、それ以上言うこともなく、屋敷裏に向かって歩いていった。
名凛は男の後ろ姿を眺めていたが、何を思ったか男の後についていった。
屋敷裏は鬱蒼とした茂みがあり、男は胸の高さほどあるその茂みをかき分けながら、さらに茂みの奥へと入っていく。
名凛は自分よりも高く覆われている茂みを前に男の後を追うか躊躇していたが、それも一瞬。
やはり好奇心が勝ると、名凛は意を決して茂みの中へ入っていった。
名凛は勢い勇んで茂みの中に入ってはみたが、すぐにその好奇心と浅慮を後悔した。
男の姿はすでになく、道なき道をどう歩き進めていけばよいのかわからなかったからだ。
「私って馬鹿だわ。あのお調子者の後を追うだなんて……」
名凛が引き返そうかと思った矢先、どこからか口笛が聞こえてきた。
その口笛を合図に名凛を覆い尽くさんばかりだだた茂みは「さぁ、ここを通って行きなさい」とばかりに名凛を避けるように両端に分かれ、首を垂れるかようにしなだれると、そこには人が一人通れるくらいの隙間ができたのである。
名凛は何が起こったのか分からなかった。
草木が生きている、いや生きているのは当たり前だが、自分のために道を開けてくれるなどありえるはずもないのだ。
名凛は目の前の出来事を信じられないといった表情で見ていたが、我に返って目線を少し先にやると男が悠然と構えて名凛を見ているのに気づいた。
男は名凛と目が合うとにやりと小さく笑い、踵を返すと口笛を吹きながら歩き出した。
名凛ははっとなって男のすぐ後ろまで駆け寄ると、今度こそ置いていかれないよう男の後をついて行く。
男は後ろを振り返ることはなかったが、名凛の歩調に合わせてのんびりと歩いた。
男はしばらく鼻歌を歌っていたが、興がのってきたのだろう、即興で歌い始めた。
男の透き通った心地よく響く男の歌声は、なんとも心地よく、そっと寄り添うように名凛の琴線に触れ、心に沁み渡っていく。
名凛は次第に気持ちが和んでくるのを自覚した。
門下生の一人による侮蔑的な言葉は鋭い刃物となって名凛の心を切り刻んだ。
その心の傷は額のあざと同じく決して消えることはないだろう。
だが男の歌声を聞いていると、それすらもどうでもいいように思えてくるのが不思議だった。
「やっぱりこの人、変な人だわ……」
名凛は男の背中を見上げながら、名凛だけにしか聞こえない声で呟いた。
男が歌い終わると、柔らかな風が男と名凛の頬を優しくかすめた。
風は草木をも優しくを揺らし、隣り合う葉と葉が重なり合うと、それは拍手喝采にも似て、男の歌を控えめに称えているようでもあった。
男は不意に立ち止まり後ろを振り向くと、名凛も無条件で惹きつけられるほどに美しい笑顔を見せると、こう言った。
「着いたぞ、お嬢ちゃん。今度あったら面白いもの見せてやるって言ったの、覚えてるか?これからそれを見せてやるよ!」
男は酒壺をもったままの手を伸ばし、二棟並んだ小屋を示した。
何の変哲もない小屋だった。
名凛にはここに一体何があるのか見当もつかなかった。
それでも名凛は何故かここで面白い体験ができるという確信を抱いていた。
「うん、見たい!見せて‼︎」
名凛は好奇心の光を両眼に忍ばせ、頬を上気させながら弾けるような笑顔で男に応えた。
名凛にはもう男に反発する気持ちなど微塵もなかった。
それからというもの、清蓮や友泉の心配をよそに名凛は時間を見つけては男のいる屋敷へと足繁く通ったのである。
ともだちにシェアしよう!