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望めないもの 1

 まるで鷲のように大柄な男が、可愛らしい寝息を立てている幼子を片手に抱きながら、白髪の青年……藍時(あおじ)に向かって、ある提案を口にした。 「この子のママになりませんか?」 「はぇっ?」  人間は驚くと失声症でも声が出るということを、藍時はこの時初めて知った。  まさに寝耳に水。彼はその場から、一歩後退した。 (こ、恐い……)  口元には笑みを浮かべつつも、鋭い目つきでこちらを睨むように見つめる男に、藍時は畏怖にも近い感情を抱いていた。  しかし、藍時に残された道は二つしかなかった。この男の提案を受け入れるか、それとも見知らぬ男達相手にこの身を売るか。 (何で、こんなことになっちゃったんだろう……)  藍時は手にするスマートフォンを強く握り締めた。  事の発端……いや、目の前の男との出会いは、一週間前に遡る。  ・・・ 「ママ!」  喜びを乗せた子どもの甲高い声が耳に飛び込み、藍時は反射的に振り返る。肩にかかる綿のように柔らかな自身の白髪が風に靡くのを感じながら、彼は声が聞こえた方に視線をやった。そこには彼の膝下ほどしかない背丈の男児が、見知らぬ大人の男性に向かって無邪気に笑いかけているところだった。  子どもから「ママ」と連呼されている人間は、どこからどう見ても男性だとわかる出で立ちをしている。「ママ」は本来、子を産む者に対して向けられる呼び方だ。その男性はそれを受け入れているのか、「はいはい」と困ったように、かつ嬉しそうに、手を繋ぐ子どもへ微笑みかけていた。長い髪から覗く男性の首元には、自分の首元にあるものと同じ形態のチョーカーがあり、藍時は静かに納得する。 (いいなぁ……)  微笑ましい親子の姿に、藍時は目を細めて羨んだ。同時に、子どもが親を呼ぶ声に、どうして自分が過剰に反応してしまうのかが不思議でならない。彼はそっと、自身の平らな腹に手を添えた。 (嘘。本当はわかっている癖に、とぼけるなんて……)  頭の中で自分自身に鋭い指摘をしつつ、藍時はくるりと身を翻した。腹に添えていた手を払い、歩みを進める彼の目元は、白い前髪ですっかり隠れてしまっている。そんな彼の表情を周りから窺うことはできないが、なだらかで卵のような円を描く顎と、その上にある薄い唇は真一文字に引き結ばれている。子どもの声が次第に小さくなっていくのを猫背気味の背中で感じながら、自身の諦めの悪さに呆れていた。 (羨んだところで無理だよ、もう。そう言われただろ)  声には出さず、頭の中だけで否定の言葉を繰り返し、藍時は自分自身に言い聞かせる。もう何度繰り返したか知れない、無意味な自問自答だ。それでも子どもの顔を見るたびに、そして「ママ」と呼ぶ声を耳にするたびに、胸が締めつけられるような思いに駆られるのだ。  なぜそうなるのかはわからない。だが、自分が欲しいものがこれから先の人生で、どんなに徳を積もうと手に入らないことだけは知っていた。  歩くこと十五分。藍時は小さなビルの前で立ち止まった。三階建てのそこは複合ビルで、一階から法律事務所、調剤薬局と各階に異なる職種が構えられている。藍時はビルの敷地内に入ると、併設されているエレベーターを使って最上階の三階まで昇った。  エレベーターの扉が開くと、その向こうには清廉さを感じさせる白を基調とした部屋が現れる。奥にはカウンターがあり、小さく「受付」と標示が出ている。そこで控えている女性の一人が現れた藍時の存在に気づくと、にこりと笑みを作った。頭だけを下げつつ、彼はエレベーターから降りると、まっすぐ女性の方へ向かった。 「こんにちは。診察券をお預かりします」  受付の女性に言われるがまま、藍時はボディバッグから一枚のカードを取り出し、目の前に差し出されたトレーの上に提出する。カードの表面には「鷹木こころのクリニック」というロゴがあり、その下には五桁の番号の後に「須中(すなか)藍時」と印字されている。  続いて、「では順番にお呼びするので、ソファへお掛けになってお待ちください」と案内され、藍時はカウンター前のそれに腰を下ろした。  辺りにはソファ以外に時計や雑誌が収納されている本棚などの調度品が、絶妙な余白を残しつつ設置されている。そこに華美な装飾は一切なく、質素で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。  人間は、カウンター向こうにいる女性二人の他に、同じくソファに座っている壮年の男性が一人いるだけだ。やや小太り気味のその男は、それまで手にしていた雑誌を読んでいたにも関わらず、後からやって来た藍時を見るなりポカンと口を開けた。その視線に気づいた藍時が不思議そうに首を傾けると、長い前髪がさらりと流れて隠れていた顔を覗かせる。現れたのは、男が息を呑むほどの美貌だった。  男とも女ともつかないような中性的な顔立ちの藍時は、Tシャツにジーンズといった簡素な服装を纏っているにも関わらず、ただそこにいるだけで感嘆の声を漏らしてしまうほどの美しさを持っていた。顔のパーツの一つ一つが、他者が羨む形をしているのも彼を美しいと捉える要因の一つだろうが、中でもひと際、人の目を惹きつけるのは真っ白な髪……ではなく、その瞳だ。やや垂れ気味の瞼の中に潜む大きな瞳は、ペリドットのような緑で、美しい顔立ちをさらに引き立たせている。  また、紺色の半袖から覗く小枝のような腕は日焼けをしない体質なのか、色素がすっかり抜け落ちた髪色ほどではないものの、色が白い。華奢で痩身な体格もどちらかといえば女性的であるものの、それでも彼の性別がはっきり男だとわかるのは、丸みのない骨格と平らな胸のお陰だろう。ただし、これは男女の性別だけで判断した場合だ。彼がこれほどまでに美しく、中性的な容姿をしている要因は別にあった。  藍時と目が合うなり、男は慌てて手にしている雑誌へと視線を落とした。その後もチラチラと、不躾な視線を藍時へ向けていたのだが、まもなく受付から名前を呼ばれた男は慌てるように席を立つと、会計を済ませ、タイミングよく到着したエレベーターにそそくさと乗り込んだ。男は最後まで、藍時を見るのを止めなかった。  扉が閉まると同時に、藍時は仰け反るようにソファへもたれかかった。視線を浴びることに慣れているのか、男の行動に気を害した様子はない。むしろ「やっと出て行った」という安堵感から出る長い息が、彼の口から吐き出された。自分が他者からどう見られているのか、その理由を藍時は嫌というほど知っていた。しかし自分の容姿が美しいなどと思ったことは、一度としてなかった。 (こんなに人目を惹いても、生まれ持った役目が果たせないんじゃ、意味がないしな……)  半ば自虐的に、心の中で呟いた。そして空いた右手が自然と、自分の腹に被せられた。

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