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望めないもの 2

 藍時の座るソファが、もたれかかる彼の背を伸ばして矯正をしている最中、左側にある扉が横へ流れるように開かれた。 「須中さん。須中藍時さん。奥の診察室へどうぞ」  現れたのはナース服を身に纏う中年の女性だ。穏やかかつ事務的な調子で自身の名前を呼ばれた藍時は、それまで座っていたソファからゆっくりと立ち上がった。  白く短い廊下を進む中、柑橘系のほのかな香りが鼻腔を擽ってくるのも、これで何度目になるだろう。いちいち数えてはいないものの、ため息を吐きたくなる程度には通っている。  ここは精神科クリニックだ。統合失調症や躁鬱病といった心に疾患を抱える人間が、治療のためにかかる場所である。藍時はこのクリニックの患者の一人で、通院歴は今日でちょうど一年になった。  最奥で塞がるスライド式の扉を引くと、中には一人の男がシステムデスクの前に座っていた。挨拶を口にすることなく静かに入室する藍時とは目が合うなり、男は緩やかに自身の口角を持ち上げた。 「やあ、藍時君。こんにちは。その後、調子はいかがかな?」  手にしたシマエナガのパペットをぴょこっと向けつつ、柔和な態度で尋ねかけるこの男は精神科医だ。日々多端な医療という業界に身を投じる人間だというのに、くたびれた様子を一切見せず、清潔さを保ちつつ常に整えた身なりで彼は患者を迎え入れている。その半分は白衣が成せる業だろうが、もう半分はこの医師自身が人目をさらうほどの容姿をしているからだろう。自分の容姿を美しいとは思わない藍時でも、自分とは真逆の雄々しい顔つきと、それに見合った身体を持つこの医師のことは、美形の部類に入ると認識している。少なくとも、丸いフレームの眼鏡をお洒落につけこなすことのできる人間であることは確かだ。  診察当初はこれほどの美形を前にしたせいか、身体が強張り、緊張で身動きが取れなくなってしまった。だがその美麗な容姿を上回るほどの、お茶目かつくだけた調子で接する医師に藍時が心を開くまで、さほど時間はかからなかった。  藍時は自身の前に両手を出すと、手指と唇を動かしながら医師へ答えた。 『こんにちは。鷹木(たかぎ)先生。調子はいつもと変わらずです。夜は眠れません』  声なき言葉に、医師は「うん」と頷いた。 「そのようだね。目にクマができている」 『バイト先で、メイクの趣味が悪いと言われました』 「あははっ。アイシャドウは似合うだろうけれど、確かにブラックは濃すぎるかな」 『いっそパンダのようだったら、周りに受けたのかも』 「パンダはちょ~っと、可愛すぎるんじゃないかな?」  声をあげて笑うのは、医師ただ一人だ。対して藍時は困ったように愛想笑いを浮かべるだけ。代わりに親指と人差し指の指先を目の下に当てると、涙をこぼすように下へ落とした。 『酷いです』  唇はそう動いていた。医師は「冗談だよ」とつけ加える。  藍時は失声症だ。聴力と言語能力はあるものの、声を介して話すことができない。発症したのは二十三歳の時で、原因は炎症や外傷などの声帯の器質によるものではなく、心因性によるものだった。  声を出せなくなってからしばらくは筆談で過ごしていたものの、症状が治るには時間を要すると知り、藍時は代わりの言語を学んだ。それが手話だった。 「もし本当に藍時君がパンダだとしたら、その場にいるみんなから愛されてしまうよ」  その言葉に、藍時はピタリと手を止めた。 「愛している」という言葉は、藍時にとって楔のようなものだった。それは決して目に見えるものではない。人の口からただ発せられるだけのその言葉には、拘束力も、強制力もありはしない。しかし彼にとって「愛している」とは、自身から自由を奪い、支配し、屈服させるだけの力があった。  たかが言葉だ。手足を押さえつけられているわけでも、身体を組み敷かれているわけでもない。それなのに、藍時は愛の言葉を紡ぐ恋人に逆らうことができなかった。そして声を失った。  恋人と別れてからもう一年も経つというのに、藍時はいまだ声を介して会話ができない。そして彼がこのクリニックへ通院する理由でもあった。  当時の恋人はαの男だった。αとは、男女とは別に第二次成長期にて判明するα、β、Ωという三つの性のうちの一つだ。全体の八割を占めるとされる、ごくごく一般的なβとは違い、生まれながらのエリートとして特別視されるその性は稀少であり、αというだけで無条件に尊ばれる性だ。実際、αとして生まれた人間のほとんどが、様々な分野で特異的な能力を発揮し、活躍している。藍時の恋人もまた例に漏れず知能が高く、その上人当たりもよく、人望があった。覚えていないが、仕事も多岐に渡っていたらしい。  はじめは誰にでも優しく接する彼に憧れていただけだった。いや、きっとそのように見ていたのだろうが、当時抱いていた明確な気持ちはもはや覚えていない。彼という人間を知っていくうちに芽生えた憧憬も、畏敬も、懸想も、恋人同士になったその日から、すべてが畏怖へと塗り替えられてしまったのだから。歪んだ愛情は、藍時の心と身体を蝕み、消えない傷痕を残した。  変わらなかったのは周囲からの羨望の眼差しだった。「αと付き合えるだなんて羨ましい」、「勝ち組決定だ」、「あなたは恵まれたΩね」。藍時が口を開く前に、それらは蓋のように被せられた。  自分がせめてβであれば、少しは周囲の対応も違っただろうか。そう思わない日がなかったわけではない。だがΩとして生まれた藍時は、α以上に稀少の存在であるものの、彼らとは真逆の意味で特別視をされていた。  Ωとして生まれた人間は男女としての性差は関係なく、子どもを産むことができる。それがΩであるがゆえの役割ともいわれており、彼らは定期的に発症するヒートと呼ばれる発情期に苛まれる。  ヒート中は人としての理性が機能しなくなり、その身が鎮まるまで盛るため、日常生活を送るどころか動くことすらままならなくなってしまう。これは意図して発せられるものではない。毎回唐突に、かつ衝動的に起こり、また他者をも惑わすフェロモンをうなじにある分泌腺から放ってしまうのだ。人を惹きつけるほど美しい藍時の容姿も、Ωの特徴の一つだった。  Ωの特徴のすべてが、子どもをその身に宿すための本能によるものだ。しかしこれらが原因で、Ωは低能というレッテルを貼られてしまう。就職はおろか学校すら通う場所を限定されてしまうのが現状だった。  そんな性に生まれた藍時もまた、不遇な人生を歩んでいた。施設育ちだった藍時はバース性診断にてΩと判明した後、退所を余儀なくされた。義務教育を終え、施設を出てからはアルバイトで食いつなぎ、貧しくも一人で生きてきた。

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