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望めないもの 3
昔と違い、今はヒートを抑制する薬が開発されている。症状はゼロにならないものの、かなり抑えられるため、薬物の接種はΩが身を守ることのできる自衛の一つとして認められ、浸透している。薬は飲み薬、注射ともに保険が適用されるため、藍時も欠かすことなく服薬をしているものの、人々は重箱の角をつつくように藍時を追いやった。
そんな境遇だったからこそ、恋人の優しさが身に染みて嬉しかった。分け隔てなく接してくれる相手の告白に、当時は疑念を抱くこともなく、藍時は素直に受け入れてしまったのだ。
あとは番になるだけだと、周囲は口々に捲し立てた。番とは、αとΩにのみ発生する特別な関係を指した。ヒート中の性行為の際、Ωのうなじをαが噛むことによって生まれるその繋がりは、二人を恋人や婚姻関係以上のものとさせる。Ωにとっては煩わしいヒートも軽減され、フェロモンも抑制されるため、番となることをこぞって勧められるその意味をわかってはいたものの、藍時は頑として拒み続けた。番となってしまったら、もう二度と恋人の支配からは逃げられなくなる。その拒絶は理性ではなく、もはや本能によるものだった。
元来、Ωは不意に番とならないよう自衛目的で専用のチョーカーをつける習慣がある。藍時も例に漏れず、チョーカーをつけていた。だが、己を守るためのそのチョーカーが日に日に首輪のように感じられ、「愛している」と囁かれるたびに苦しかった。
ある日、帰宅が遅くなった藍時が当時一緒に住んでいた恋人のマンションへ戻ると、激昂した彼によって厳しく責め立てられた。自分の行動の何が彼の気を害したのかはもはや覚えていない。記憶のところどころが抜け落ちたように覚えていないのだ。癇癪を起こしやすい人間だったのでそれ自体は珍しくもなかったが、この時は服で隠れる腹や脚だけではなく、頭や顔にまで暴力をふるわれた。
痩身で華奢な藍時が一回り以上も大きな体躯の恋人に抵抗できるはずもなく、藍時はあっさりと意識を手放した。血で霞む藍時の目には、怒号する恋人の般若のように険しい顔が映った。それが彼を見た、最後の姿だった。
藍時が再び目を覚ましたのは病院だった。経緯は不明だが、道端で倒れているところを発見され、保護されたのだ。付き合ってから、ちょうど三年が過ぎた日のことだった。
全治二か月の怪我を負った藍時は、警察から事情を聞かれたものの、説明することができなかった。記憶が曖昧だったから、だけではない。この時から、藍時は言葉を発することができなくなっていたのだ。
被害届は出さなかった。自暴自棄になり、何もかもがどうでもよくなっていた。
心を閉ざした藍時は精神科にてカウンセリングを受けることになったものの、治療の甲斐なく、元は茶色だった髪が白髪へと変わり、瞳からは生気が失われ、穏やかだった顔つきもどんよりと暗いものになっていった。元来の美しさは留めたまま、別人のように変わり果てた藍時は、身体が動けるようになるのと同時に、誰にも知られることなくひっそりと町を出た。担当医師の勧めによるものだった。
恋人がいる町に住み続ければ、また元の木阿弥になってしまう。それを避けるべく、藍時は二つ隣の町に引っ越した。県を越せなかったのは藍時に金銭的余裕がなかったことに加え、保険が適用されている抑制剤が他県では実費になってしまう可能性があるからだった。
「私から逃れられると思うなよ」
今では恋人の顔どころか名前すら思い出せない藍時だが、まだなお彼の呪縛からは解き放たれずにいる。
現在、カウンセリングを受けているクリニックは住んでいるアパートから歩いて三十分くらいのところにある。藍時を担当するこの鷹木という医師は心理士の資格ももっており、一人でカウンセリング、診察を行っている。まだ三十代と年若いが、専門は精神科のみならず、時には他の病院へ出向き、内科医としても活躍しているという噂だ。医師会の中でも広く顔が知られており、表立って性別をひけらかしてはいないものの、その優秀さからして彼もまたαだと推測できる。
診察では毎回三十分ほど、時には一時間ほど医師と他愛ない会話を行う。藍時が独学で覚えた手話の通じる相手は、今のところこの鷹木のみだ。間違いは大いにあるだろう。自信のなさから、鷹木以外に試したことがないというのが実状だが。
そもそも他の人間相手に手話は通じないことが多いので、必要な会話は主に筆談や、スマホのメモ機能を使って行っている。だからこそ、藍時との会話は誰が相手でもゆっくりだ。しかし藍時からしてみると、声に出して会話をしていた時よりも、不思議と今の方がスムーズに行えているような気がしていた。おそらく、長年虐げられてきたことによる弊害で、失声症になる以前から口に出して発言することが苦手となっていたのだろう。
カウンセリングが終わると、鷹木はパソコン上に表示したカルテを眺めて、処方している薬の内容を見直した。
「眠剤を少し増やそうか。抑制剤との兼ね合いで副作用が出るだろうけれど、電子操作に影響が出るくらいだからさほど心配はない。それに今の君にはよく眠ることの方が先決だ。でないと、身体が持たないからね」
藍時の今の仕事は郵便局での仕分け作業だ。業務に問題がないことを知り、ほっと胸を撫で下ろした。
「ところで」
と、鷹木がカルテに処方内容を打ち込みながら藍時に話しかける。
「この後は空いているかな? 美味しいパスタの店を見つけたんだ。今日はお昼を食べ損ねてしまってね。よければ一緒に食べないかい?」
突然の食事の誘いに、藍時は戸惑いを見せた。食事は嬉しい。だが、それを拒む以上に金銭的余裕がない。日々の食事は自炊がメインで、外食など久しくしていなかった。物価高の昨今ではそれが余計に厳しく、最近では割引シールの貼られた物しか買っていない。
藍時はおずおずと、『お金がないので』と断った。
鷹木は「やだな」とキーボードから手を離し、藍時へと笑いかける。
「もちろん、ご馳走するよ。私から誘ったのだから、当然さ」
『でも、先生は結婚されているんでしょう? 奥様に申し訳ないです』
藍時は鷹木の左手薬指を見ながら言った。そこには年季の入ったプラチナのリングが密かに輝きを放っており、それはつまり恋人ないしは配偶者がいることを示していた。
もしかしたら恋人とのペアリングかもしれない。だが、鷹木の年齢から考えると、結婚の方が可能性として高かった。
鷹木は藍時の視線に気づくと口元に微苦笑を浮かべ、自身の左手を眺めながら言った。
「ああ、それも大丈夫だよ。妻は一年以上も前に亡くなってしまったから」
藍時はしまったと、即座に俯いた。
『ごめんなさい』
鷹木は気にしていないと、首を緩やかに振った。そしていつものにこやかな笑みを浮かべると、
「大丈夫。あくまで私と君は医師と患者という関係だ。けれど、ここ以外ではただの友人の一人として接してくれたらいいなと思っているよ。私はね、君が弟のように可愛くて仕方がないんだ」
だからご馳走させてと、鷹木はもう一度藍時を誘った。藍時は少しだけ間を開けた後、根負けしたように「よろしくお願いします」の意味を込めて頭を下げた。
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