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「この子のママになりませんか?」 3

 しばらくして純を残した大人二人の食事が終わり、せめて食器くらいは洗って片付けようと藍時は席を立つも、「ゆっくりしていてください」と秀一に言われて、おずおずと座り直した。  やはり秀一は苦手だ。昨夜、助けられただけではなく、食事まで用意をしてもらったというのに、この男がαというだけで藍時は怖いのだ。申し訳ない気持ちはもちろんあった。これだけ親切にしてもらっているというのに、勝手に怖がってしまい口を開けずにいる。「ありがとう」もろくに言えない自分を歯痒く感じた。  隣の純は食事の最中、藍時や秀一に逐一味の感想を求めていたため、オムライスがまだ半分も残っていた。大人二人が先に食事を終えてしまったので、今は静かに目の前の料理に集中し、スプーンと口を動かしていた。  そんな純の口周りがケチャップで汚れ、気になった藍時はテーブル上にあるティッシュを一枚手に取り、彼の口元を拭ってあげた。純は嫌がることなくそれを受け入れ、口元が綺麗になるとニコッと笑い、再びオムライスを食べ始めた。  やがて秀一がキッチンから戻ると、藍時の前に温かいコーヒーとビスケットを二枚置いた。 「どうぞ」  馥郁とした香りが鼻腔を擽り、藍時は控えめに頭を下げた。僅かではあるが、純とは声を介して会話を行っているものの、秀一とはまだ一言も言葉を交わしていない。今はまだ、首を縦に振るか横に振るかで成立する受け答えも、この先ずっとというわけにはいかないだろう。 (スマホがあればメモ機能を使って話せるけれど、持ってきたバッグがどこにあるのかわからない。それに、紙とペンを借りようにも、それをこの人にどう伝えれば……)  純が相手ならそれを口頭で伝えられる。だが、食事中の彼にそれを伝えるのは、いささか憚られた。  そこへ、スッと藍時の前にメモ用紙とペンが差し出された。秀一だった。 「どうぞ。使ってください。須中藍時さん」 「……っ?」  フルネームを言われて驚く藍時は、秀一を見つめた。一方の秀一は頬杖をつきながら、こちらに向かってニッコリと微笑んでいる。 (まだ、俺はこの人に名前も名字も教えていないのに……どうして知っているんだ?)  怪訝に思いながらも、藍時は差し出されたペンを手に取ると、メモ用紙の上に秀一への感謝と質問を書いて彼の目の前に掲げた。 『ご馳走してくださり、ありがとうございました。とても美味しかったです。昨夜も助けてくださってありがとうございました。でもどうして、俺の名前を知っているんですか? それになぜ、自分が口を利けないことも知っているんですか?』  内容が少し長くなってしまったが、一言ずつ書いて見せるよりもこちらの方が相手もスムーズに返答を出せるだろう。  藍時は警戒する。子どもがいる家庭であっても、名乗ってすらいない相手がこちらのことを見透かすかのように知っているのだ。万が一ということも、ないわけではない。  秀一は「どれどれ」とメモ用紙を見つめた後、藍時に向かって真剣な面持ちでこう答えた。 「あなたの心の声を聞いたんですよ」 「……ぇ」 (何を……言っているんだ? この人……心の声って……え、本当、に?)  呆気にとられ、一瞬信じかけた藍時だったが、「ふふっ」と笑う秀一に気づき、睨むことで真面目に答えろと促した。 「ああ、うそうそ。冗談です。冗談。ただ持ち物の中からお名前を知っただけです。急に倒れてしまったものだから、あなたに持病でもあったらまずいと思って。勝手に漁ってすみませんでした」  そう言って、秀一は藍時のボディバッグを渡した。すぐに中を確認すると、入れていた財布と身分証、そしてスマホと判子があることに、ほっと胸を撫で下ろす。財布の中身は大して入ってはいないものの、それが今の全財産だ。藍時のバッグを掴む手に、ぎゅっと力がこもった。  秀一はそれを見届けてから説明を続けた。 「あと、口が利けないのかなと思ったのは、以前お会いした時にご自分の前で両手を翳されたでしょう? それであなたが口語ではなく、手話をされる方なのかなって。バッグにヘルプマークも掲げてらっしゃったし……まあ、なんとなくですよ」  藍時はバッグを抱きながら、秀一の観察力と洞察力に声なく感心した。ヘルプマークは普段、クリニックへ受診する時にのみ、身に着けている。そうしないと、鷹木から「つけていないの?」と尋ねられるからだ。 (すごいな。よく見てる……)  自分だったら注意深く観察していたとしても、そこまで察することはできないだろう。再びメモ用紙に言葉を綴ると、今度は丁寧に頭を下げた。 『お手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。すぐにお暇致します』

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