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「この子のママになりませんか?」 4
「いやいや、今日は仕事が休みなんですよ。公休。だから気にしなくていいですよ」
「そうふぁお! パパ、おやふみだからゆっくりできふよ!」
オムライスを口に入れながら慌てたように、純が援護射撃をしてきた。父親だけでなく、子どもの方からもゆっくりしていけと言われては、決心が鈍るというものだ。
その上……
「ね。ママ」
藍時は困ったように眉をハの字にさせる。秀一が「ああ」と藍時が気になっていた核心を語った。
「すみません。いきなりママって言われても驚いちゃいますよね。実は私の妻……つまりはこの子の母親ですが、出て行っちゃったんですよ」
「ぇ……」
秀一は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「私がふがいないせいでしょうね。仕事にかまけてばかりで、家のことはないがしろで、この子の世話も妻に任せきりでしたから」
(じゃあ、あのオムライスも……)
施設を出てから自炊をしている藍時からすると、オムライスは家庭料理の中で定番中の定番料理だ。ある程度フライパンを扱う人間なら、卵の焼き加減や具材の炒め加減も、もう少し上手く調理することができる。今回、ご馳走してもらった料理は、明らかに慣れていない人間が作ったものだった。
藍時は静かに納得しながら、続きに耳を傾ける。
「出て行かれてから気づいたんです。自分は妻の気持ちをまるで汲み取れていなかったことに。それでかれこれ、妻不在の扇家は一年以上経ちましてね。こんな不甲斐ない父親の下でも……いや、こんな父親の下だからこそでしょうか。純は素直で元気な、とてもいい子に育ちました。ですが、あなたを見て、母親のことを思い出したみたいです」
それはどうして? という疑問に、秀一は自身の顔を突くように指差した。
「似ているんですよ。須中さんの顔が、私の妻に」
きょとんと、藍時は目を丸くさせた。そして秀一と同じく、藍時もまた自分の顔に指を差し、小首を傾げてみせる。
「そうそう。そんな表情をされるところとか。本当によく似ていますよ」
「似てるんじゃないよ! ママはママだよ!」
「はいはい。そうでしたね」
純がフン! と鼻息を荒くして反論する。子どもがここまで言うのだ。よほど顔が似ているのだろう。目元が隠れるほど髪が長い自分を一目で「ママ」に似ている人だとわかった純の洞察力には、目を瞠るものがあった。
(目線が俺よりも低いから、わかったのかな)
しかし髪の色はどうだろう。今の髪は、地毛だった茶髪から色素が抜け落ち白くなったものだ。そのため、旋毛周りは色が濃く、ところどころが茶色がかっている。もう少し上手く脱色できなかったのかと揶揄されることが、しばしばあるくらいだ。
(さすがに、髪の色まで似ている……なんてことはないよな)
湯気の立つコーヒーカップに手を伸ばし、ふーふーと冷ましながら中身を啜る。
(初めて飲む味……チョコレートみたいだ)
藍時の知るコーヒーとは、コンビニで売られている缶のものかインスタントだ。だがこれはそのどちらでもない。奥のキッチンを見遣ると、ガラス張りの戸棚にはコーヒーミルや、キャニスターに入れられた様々な豆が陳列されており、電子レンジの隣には専用のコーヒーマシンまでが設置されている。
(コーヒーが好きな人なんだ……)
どちらかといえば紅茶派の藍時だが、それは本当に美味しいコーヒーを知らないがゆえの「好き」だったらしい。一口、そして二口と飲み、ついには冷ますことなく、すべてを飲み干してしまった。
「ちなみに須中さんは、普段は手話がメインですか?」
『普段は筆談の方が多いです。手話が通じる相手は限られますから。それに、俺が手話を学び始めたのは一年ほど前のことです。独学なので正確さにも欠けています』
「なるほど。発声が困難なのは後天的なものですか」
藍時は咄嗟に身構えた。この後に続く質問は、決まって「何で話せなくなったのか?」だからだ。
だが、秀一が続けた言葉は予想外のものだった。
「すごいですね。一年で別の話術を会得されたなんて。よければ私にも教えてください」
藍時はうっすらと唇を開き、秀一を見つめた。すごい、という言葉をかけられたのは、何年ぶりだろうか。腹の底がカッと熱を帯びたように熱くなった。
(すごいことなんて、ない。だってこんなの……全然、めちゃくちゃだし……教えてもらったものじゃないから、合ってるかどうかもわからないのに……)
いたたまれなくなった藍時は、両手を膝の上に乗せて亀のように背を丸めた。
すると二人の会話に参加しようと、純が再びケチャップだらけの口元を見せながら手を上げる。
「ぼくも! ぼくもやる!」
「ふふっ。何をやるのか、わかっているんですか?」
「わかるよ! わかるもん! ええっと……ま、ママ? ぼくにも教えて?」
褒められることも、人から頼られることも知らない藍時は、その場でただ頷くしかなかった。
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