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最高の仕事 1

 診察が終わり、今日から新しく服薬することになる薬を処方され、受付で会計を済ませた藍時はクリニックを後にした。 (あっつ……! 散歩には暑すぎるよ、秀一さん)  サンサンと容赦なく照り散らす太陽は、今日で八月も終わりだというのに、秋めく様子を微塵も感じさせないでいる。昨夜秀一から言われたように、散歩でもしようかと思っていた藍時は頭にキャスケットを被っているものの、思いの外日差しが強いせいで早々に諦めようとしていた。  太陽の光を直接見ないように空を仰ぐと、まさに晴天。雲一つない鮮やかな水色が、まるで湖のようだと陳腐な感想を抱いた。 (空って、こんなに綺麗だったんだな)  思えば、自分はずっと地面ばかりを見てきたような気がする。殴られれば顔を伏せ、暴言を浴びせられれば額を地に擦りつけていた。相手の気が済むまで、ごめんなさいという呪文を唱え続ける、そんな毎日だった。  それが今は、こんなにも清々しい。何も考えることなく空を見上げたのは、何年ぶりだろうか。こんなに綺麗な青空なら、飛び交う鳥達はさぞ気持ちのいいことだろうと、藍時は静かに口角を持ち上げた。 (俺もいつか、飛んでみたいなぁ……なんて。無理だけどさ)  そんなことを考えていると突然、ボシュッ、と頭の中でフラッシュが焚かれたように、ある一つの「記憶」が掘り起こされた。  そこは、エアコンの室外機が散らばるように設置された、路地裏のような見知らぬ場所。そんな場所の少し高いところから、こちらを見上げる人々を俯瞰している自分がいる。季節は夏ではないのだろうか? 下肢がジーンズ姿なのは変わらないが、両腕は二の腕までを隠している今と違って、手の甲まで覆うほどの長い袖のシャツを着ていた。  空を仰げば今のように雲一つない晴天だ。なぜ、自分がそこにいるのかはわからない。ただ一つ、はっきりとしているのは、こんなに綺麗な空の中を飛べたら、さぞ気持ちが良いのだろうなと、この記憶の中の自分が思っていることだ。  そして自分が片足を動かすと、下の方から複数の歓声……いや、悲鳴のようなものが沸き起こる。だがそれは、この記憶の中にいる自分の耳には入ってこない。「やめろ」、「動くな」、「大丈夫だから」。そんな様々な、自身を制止する言葉に反して、自分はもう片方の足を地面から離した。  そこでこの記憶は、映画のカットが入ったように終わっていた。 (これは……何だろう? 夢で見た記憶、とか……?)  それにしては感じたものすべてが生々しい。藍時はピタリと、その場で立ち止まり思考する。思い出したのに、思い出せない。その不思議な記憶はだんだんと、大切な何かだったような気さえしてきた。  してきたのに、それが急に飛んでしまったのは、ポンと頭に乗せられた大きな手と、背後からの快活な声だった。 「あーおーじっ」 「っっっ!?」  およそ悲鳴らしくない悲鳴が藍時の喉から発せられたが、彼の頭に手を乗せた当の本人は悪びれた様子なく、「悪い悪い」と謝った。  振り返るとそこにいたのは、ヒラヒラと手を振るワイシャツ姿の秀一だった。反対の手には、荷物がパンパンに詰め込まれたビニール袋を二つも掲げていた。 「お疲れ。散歩中か? 診察は終わったんだな?」 『はい。秀一さんは?』 「オレはこれ、買い出しだよ。買い出し。この辺りじゃなきゃ買えないやつがあったからな。こっちが店の分で、こっちが家の。明日はパーティーだからな」  言いながら、袋の片方を反対の手に持ち替える。店というのはホストクラブのことで、家の方は純の誕生日祝いのことだと藍時は察した。  重そうなそれを目にして、藍時は空いている手を秀一に差し出した。 『持ちます』 「さんきゅー」  秀一は遠慮することなく、袋の一つを藍時に差し出した。受け取ったそれは思いの外重くない。上から中を覗いてみると、ほとんどがお菓子の類だった。一方で、秀一が手にする袋の中を覗くと、そちらは酒瓶が何本も入っており、自分には軽い方を渡してくれたのだと気づいた。  藍時の口元が自然と綻んだ。 「それにしても、今日はあっち~な~。藍時、バテてないか?」 『このまま散歩を続けたら、きっとバテると思います』 「だな。……あ、ちょっとコンビニに寄るから、屋根の下で待っててくんね?」  そう言って、道すがらあったコンビニの中へ、秀一が駆け込むようにして入っていく。藍時は言われた通り、コンビニの屋根の下に入ると、中で何かを物色する秀一をしばし待った。買い忘れたものがあるのだろうか? そう思っていると、秀一はすぐに戻ってきて、「お待たせ」と言った。 「ほい」  手にしていたのは一つのアイスキャンディーだ。持ち手の棒が左右に二つ付いており、それぞれを持って力を加えると、半分に割れて二つになるというものだ。内一つを藍時に差し出す秀一はウインクをしながら、「純には内緒な」と、こっそり付け加えた。 「普段はこういうの、純相手とじゃないと食わないんだけどさ……こうも暑いとな。それに誰かと一緒じゃなきゃ、美味くないだろ?」  秀一はシャクシャクと音を立てながら、アイスキャンディーに齧りついた。受け取った藍時もまた、「いただきます」と唇を動かしてから齧りついた。  人工的なソーダ味が口の中を冷やしながら、舌の上でじんわりと溶けて甘さを滲ませていく。頭が少しだけ痛くなる感覚を味わいながらも、もう一口、さらに一口と、アイスキャンディーに齧りついた。 「あー、口ん中冷えるわ~」 「……ぉ、ぃ……し……」 「だな」  はっきりとした言葉ではなかったが、感想が口から漏れていた。それを耳にした秀一が、ニッカリと笑った。 (アイスキャンディーって、こんな味だったんだ)  初めて食べたわけでもないのに、藍時はこの味を今初めて知ったような気がしていた。百円そこそこで買うことのできる、なんてことのないアイスだ。しかし、かつての恋人にご馳走してもらったどんな高級なスイーツよりも、このアイスキャンディーは何倍も美味しく感じられた。 (今度は純と半分こしよう)  藍時よりも一足先に食べ終わった秀一が、まだアイスキャンディーを齧る彼の頬にそっと触れた。 「藍時、ここ……」 「ひっ!?」  秀一のその行動に驚いた藍時はカッと目を見開くと、即座に自身の顔の前で両手を翳した。 「はあっ……っ、はあっ……」  まるで防御のようなそれはほとんど無意識にとった行動で、それを目にした秀一だけでなく、藍時自身もまた酷く驚いていた。  あと一口分を残したアイスキャンディーが藍時の手から離れ落ち、みるみるうちに地面と同化していった。

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