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最高の仕事 2

 秀一は、今度は茶化すことなく、「悪い」と謝った。 「口んとこに髪がくっついていたから、つい……驚かせて悪かったな」  藍時も呼吸を整えながら、「いいえ」と首を振った。 『俺の方こそ、ごめんなさい……』 「男は苦手か?」  核心をつくその質問に、何かを恐れるような表情で藍時は秀一を見上げた。 (どうしよう。何を……いや、何から話せばいいんだろう……)  正直に話すべきか。それとも濁すべきか。その質問の意図するところがわからず、どう答えればいいのかと、考えあぐねてしまう。そうしていると、秀一が自身の前で制止するように片手を翳した。 「ああ、変な意味じゃなくてさ。純相手……いや、子ども相手か。そういった、ちびっ子の前でなら藍時は声を出すことはできるけれど、大人の……とりわけ俺みたいなαに対しては、声を出すことができないんだろう? 住み込みで働いてもらうようになって、こっちはすげえ助かるけれど、その実かなり無理をさせているんじゃないかって、少し心配でさ」  その後に、これまで純同様に頭を撫でていたことについても謝られたが、その行為が怖くなかったのは、きっと恋人だった男が藍時の頭だけは攻撃を避けてきたからだろう。しかし今のように触れられると、無理やり顔を掴まれ唇を奪われてきた時のことを、思い出してしまうのだ。  二人の間に流れる空気のことなど、一切お構いなしの蝉達の鳴き声が、あちらこちらから聞こえてくる。茹だるような暑さを感じつつも、藍時はゆっくりと、手話で秀一に告白した。 『実は今日、カウンセリングで住み込みは止めるようにと言われました』 「そっか」  秀一は特に落ち込んだ様子なく頷いた。 「それで、藍時はどうしたい?」 「……ぇ?」  秀一は落としたアイスキャンディーの棒を拾い上げ、コンビニ外に設置されているゴミ箱の中に捨てた。 「とりあえず、移動するか。このまま外にいると茹で蛸になっちまう」  そう言って、それ以上は無理に踏み込まない秀一の気遣いに、藍時は胸のあたりが苦しくなった。 (この人は、きっと……本当のことを話しても、俺のことを否定しないんだろうな。聞いたら少しは……引いちゃうかもしれないけれど)  急かされたわけでも、促されたわけでもない。だが、藍時は秀一の袖を握り、彼を引き留めた。 「藍時?」 『俺は……』  手指を前にして、秀一を見上げた。最初の頃は、逃げ出してしまうほど怖かった男だというのに、今では不思議と、抱きついて泣きついて、すべてを受け入れてもらいたいという衝動に駆られていた。 (もしも拒絶されてしまったとしても、きっと後悔はしない)  藍時はゆっくりと、そしてたどたどしく語り始めた。 『俺にはかつて、恋人がいたんです。αの男性でした。その人は、はじめはとても優しくて、なんて頼りになるんだろうって……俺は彼に惹かれていました。憧れだったと思います。俺はその人をいつの間にか好きになっていて、でも告白をする勇気はありませんでした。彼はみんなから好かれていて、俺なんかは相手にされないだろうって思っていたから。だから、相手の方から告白された時は、天にも昇る思い……だったと思います』  医師の鷹木相手には、当時どうやって語っただろう。そんなことを頭の片隅で思いながら、話を続けた。 『それが、付き合って間もなく……本当に間もなく、恋人によるDVが始まりました。あの人の支配は言葉を始め、俺の心と身体を支配しました』  Ωは低能。それが人々のΩに対する認識だ。それはあの男も同様で、「私がいないと、お前は何もできないのだから」と、藍時の耳元で繰り返し囁いた。その言葉がどんどん自分を卑屈にさせていき、藍時から何かをやろうという意欲も、意思も、削いでいった。 『こんな細くて頼りない身体の俺ではいくら男であっても、秀一さんのような男性には勝てません。また、あらゆる暴力を受けても、周りの人達には気づかれず、当時の俺は何も話せませんでした』  ここまで話して、思い浮かぶ記憶があった。誰も気づかなかったわけじゃない。聞いてくれる人間は僅かにいた。一人、いや二人だったような気がする。それでも、自分から語ることは、しなかったように思う。 『結局、病院沙汰になるまで、彼とは別れることができず、子どもも……』  そっと自分の腹を見下ろした藍時は、震える唇を動かした。 『子ども、も……産めない、身体に……』  病院で発覚したこの事実を、誰かに話したのは初めてだった。だから頭の中ではとっくに受け入れたと思っていたこの事実が、こうして言葉にしようとするとこんなにも辛くなるのだとは知らなかった。 (だって本当は……まだ、諦めきれない。絶対にできないなんて、そんなの……わからないじゃないか……) 「藍時」  秀一の自分を呼ぶ声に、身体を震わせる藍時はそのまま引き寄せられるように彼を見上げた。  大丈夫。まっすぐな彼の両目は、鋭くもそう言っているような気がした。  藍時は目に溜まる涙を拭い、言葉を続けた。 『俺は住んでいた町を出て、それからはずっと一人で生きてきました。周りには家族も、友人と呼べる人もいません。俺の話を聞いてくれるのは、今通院しているクリニックの主治医だけ。家に帰れば当然一人で、誰と話すこともなく、シミだらけの天井を見上げながら、どうして自分ばかりがこんな目に遭うんだろうって考えて、毎日を自堕落に過ごしていました。だから、秀一さんの下で働かせてもらえることは、とてもありがたくて……何より純と一緒にいると楽しくて……嫌なことも考えなくて済むんです。住み込みだってそう……俺は自分をママだと言って懐いてくれる純を、自分の逃げ場にしている。だからあの子を利用している俺は最低で……本当はきっと、ママの代わりになることも……ふさわしくありません』  あんなに幼い子を利用して、自分が救われようとしているのだ。最低以外の何ものでもない。 『住み込みは、止めます……』  と、藍時は語るのを止めた。  自分の子が利用されていると知って、秀一はどう思っただろう。さすがに気を害しただろうか。  藍時は再び視線を落として、秀一からの言葉を待った。  だが、返されたのは言葉ではなかった。秀一は藍時の頭からキャスケットを奪ったかと思うと、その白い頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でまわした。 「ぅ、あぁっ!?」  そうしてひとしきり撫でまわされた後、藍時は鳥の巣のようになった頭を両手で押さえながら、驚いた顔で秀一を見上げた。そこには、瞼を半分伏せた顔で、呆れたようにため息を吐く彼がいた。 「藍時が最低なら、こんなことをするオレはもっと最低だな?」 「ぁ……ぁ、ん……で?」  なぜ、このような行動に出たのか。両手の塞がった藍時はそう問いたかった。  しかし秀一はその問いには答えることなく、藍時に言った。 「それ以前に、顔が似ているからってだけの理由で、藍時には純の母親代わりを頼んでいるんだ。こんなにも打算的で利己的な提案、普通はしないだろうよ」 (お、怒ってる……? でも、なんだか、気を害したというよりは……)  藍時は両手を頭に乗せたまま、「そもそもだな」と続ける秀一を見つめた。 「今の時代、人間ってのは生きるために、まずは働くだろう? じゃあ生きていくために何が必要か? 金だよな。自分一人なら食っていくため、必要なもんや好きなもんを買うためにまず働く。そこにはただ金だけが必要だから働く場合と、趣味や夢なんかとの実益を兼ねて働く場合がある。だが、先立つものは全部金だ。金がなけりゃ、何もやれねえ。つまり、仕事を介して他人様に与える享受というやつと、こっちが果たす目的は別の話だ。オレの場合は生きていくため、プラス純を養っていくために働いている。対して藍時は独身だし、まずは自分の生活のために働いて金を稼ぐよな。そんで今、自分のメンタルを癒すことを、仕事を通じて幼い純に求めている。だがそれの何が悪いって? 純の顔を思い出せよ。あいつはお前に求められて悲しんでいるか?」  と、秀一から振られて、藍時は首を横に振った。秀一は「だろ?」と言う。 「純は今日も笑顔で、元気いっぱいで、美味い朝飯を食って保育園に行った。それが今じゃ毎日だ。最近じゃパパよりもママの方ばかりに行っちまってオレのやることがないんだよ。その上藍時は、純を甘やかすだけじゃなくて、叱ることもやっちまうから、父親の出る幕が全然ねえんだよ。しかも料理は美味いわ、洗濯と掃除は完璧だわで、大助かりなんだよ。これ以上の何を求めろって? そんなことしたら罰が当たるわ」  ポカンと半開きになる口が塞がらない。秀一の怒涛のような言い分は怒っているようなのに、なぜか内容は藍時自身を褒めちぎっている。これまでの仕事で単純な作業ばかりをしていた自分が、こんなにも評価されたことは、いまだかつてないことだった。 『俺は、役に……立ってるんですか?』  藍時は手指を動かさず、秀一へと尋ねた。 「役に立ってるかって? 馬鹿言うなよ」  秀一は心外だとばかりに言った。 「藍時はオレ達家族にとって、日々最高の仕事をしてくれているよ」  その言葉を皮切りに、藍時の瞳からはボロボロと真珠のような涙が零れた。 「ぅ……っ……うぁっ……ぅ……うあぁ……!」  疎まれ、蔑まされ、虐げられてきた人生の中で、それは初めて藍時を認めてくれた言葉だった。  嗚咽を漏らし、子どものように泣きじゃくるその頭を秀一は、今度は髪を梳くように優しく撫でた。 「うっ……ううっ……うぅ~……!」 「なあ、藍時。お前はこのまま、住み込みで働くのを止めたいか?」  藍時はブンブンと、首を横に振った。  秀一の鋭い眼差しは、そんな藍時を慈しむようだった。

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