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大きな勘違い

 藍時は静かに驚き、目の前の陽菜子と名乗る人物を見つめた。この国では同性婚が認められている。だから秀一の結婚相手が目の前のこの大男だとしてもおかしくはない。おかしくはないが、驚いたのはそこではなく、目の前の大男はどこからどう見ても、自分に似ていないということだ。 (いくら純が幼くても、この人と俺を見間違えるなんてことはないし、そもそもこの人が秀一さんの奥さんだというなら、秀一さんが俺を雇う必要なんてない……)  黙ったまま訝しむ藍時の隣で、秀一が呆れたようにため息を吐いた後、藍時に向かって補足説明をするように口を開いた。 「名前と見た目がかけ離れすぎていて驚いただろ。でも、このα男の本名は熊田(くまだ)(ひろ)だからな」 「やだもうっ! 勝手にバラすんじゃないわよぅ!」  陽菜子……もとい熊田は、照れたように秀一の肩をパシン! と叩いた。 「偽名を使うのは勝手だけれどな、昔のアイドルの名前をまんま持ってくんじゃねえよ」 「いいじゃないの。可愛いし、何より私に似合ってるんだもの」 「似合ってるぅ? たった今、三人ほど人を殺してきましたってツラをしておいて、よく言うぜ」 「だったらアンタはどうなのよ。睨むだけで人を射殺しそうな顔をしてるくせに。ねえ、あなたもそう思わない?」  まるでコントのようなやり取りを繰り広げ始めた二人を、ポカンと見つめる藍時に向かって、熊田はカウンターから身を乗り出しつつ同意を求めた。  ぐんと近づくその強面に、藍時は息を呑み身体を硬直させた。  すると、それまでキャスケットを被っていたことで見えなかった藍時の顔が熊田の目に飛び込み、彼は一段と大きな声をあげて仰け反った。 「ヒナちゃん!? やだ、ちょっとヒナちゃんじゃないの! もう、それならそうと早く言ってよね。陽菜子って名乗った自分がちょっと恥ずかしいじゃないっ」  驚き混じりに照れた様子を見せる熊田は、石のように動かない藍時の前で手をヒラヒラと振ると、続けて嬉しそうに秀一へと微笑んだ。 「でも、よかったわ~。秀ちゃん、アンタようやく自分の番を見つけられたのねぇ」 「……っ?」  その番という単語を耳にして、藍時は少しだけ目を見開いた。  番はαとΩの間にのみ生まれる特別な繋がりのことを指す。秀一に番がいるとするなら、それは将来を誓い合った妻のことだろう。それを裏付けるように、熊田は自分の顔を見てヒナだと言ったのだ。 (この店長さんは、秀一さんの奥さんのことを、知ってるんだ……)  純が自分のことを、ママだと断言するほど似ているという自身の頬を、藍時は指先でなぞるように触れた。 (やっぱり……秀一さんの奥さんは……俺と同じ、Ω)  それは純とともに入浴した際に判明したことだった。いくら顔が似ているとはいえ、純の母親が女性であれば裸になった時に気づくはずだった。しかし純は、藍時の身体を見ても、特に驚いた様子を見せなかった。このことから、ヒナは男性のΩである可能性が高いと、藍時は思っていた。  妻がΩであるなら、αである秀一と番になるのは必然というものだ。この辻褄に、何らおかしい点はなかった。 (なのに……なんで、今……嫌だなって、思っちゃったんだろ……)  秀一の妻に似ていることが、今は少しだけ煩わしい。藍時はきゅっと、下唇を噛んだ。 「あら? どうしたの?」  黙ったまま何も答えないでいる藍時に、熊田が不思議そうに声をかけた。  何か言わなければと、藍時は被っているキャスケットを頭から取りつつ、ボディバッグに手をかけた。どのみち、スマホがなければ挨拶もできないのだ。  しかしこういう時に限って、便利な道具がすぐに取り出せない。ゴソゴソとバッグの中を探る間、代わりに答えたのは秀一だった。 「クマ。彼は藍時……須中藍時だ」 「えっ? でも、だってこんなに……」 「ヒナじゃない」  この時の秀一が、いったいどんな表情を浮かべて熊田に伝えたのか、それは俯く藍時からは見えなかった。しかし熊田に対して、藍時が自身の妻とは別の人間であることを伝える彼の声は、普段よりも一層低く感じられた。  熊田はそれ以上、秀一に問うこともなく、「ごめんなさいね」と藍時に対して謝罪の言葉を口にした。 「藍時ちゃんって言うのね。あなたが私の知っている子にあまりにも似ていたものだから、ついはしゃいじゃったわ。でも、こんなことってあるのねぇ」  そう言う熊田はしみじみと、藍時の顔を見つめた。 「それよりクマ。腹が減ったから、何か作ってくれないか? お前も昼はまだだろ?」 「そりゃまだだけど、ここじゃサンドウィッチくらいしか作れないわよ? 藍時ちゃんはそれで充分でしょうし、私も充分足りるけれど、アンタにとっちゃサンドウィッチなんてツマミのようなものなんだから、アンタだけ外で食べてらっしゃい」 「何を可愛い子ぶってんだ。三日前、オレと一緒に二郎系ラーメンを平らげた上、シメとか言ってクレープ二個も食ってたじゃねえか。お前こそ足りないだろうが」 「え~? 金平糖の間違いでしょ~?」  ようやくスマホを取り出せた藍時は、再びコントのようなやり取りを繰り広げる二人を交互に見つめた。店長の熊田はともかく、雇われの身のはずの秀一がその熊田に対して遠慮がない。むしろ仲がいい。単なる雇い雇われの関係ではないのだろうかと、彼は首を傾げた。 (もしかして、秀一さんはこの店の古参ホストなのかな?)  そんなことを考えていると、スマホを握りしめたままの藍時に、秀一が「どうした?」と尋ねてきた。  声をかけられハッとした藍時は、手にしたスマホをカウンターに置くと、 『秀一さんはこのお店に勤められて、長いんですか?』  と、手話を使って秀一に尋ねた。それを目にした熊田が「あら」と呟き、秀一は「そうだなあ」と天井を見上げながら、指を折り曲げて数え始めた。 「藍時ちゃんは何て言ったの?」 「オレの勤続年数を聞いたんだよ」 「なら、五年だわ。なんたって秀ちゃんはこの店の……」 「古参ピアニストだからな。いや~、五年も続くとは思ってもみなかったよ」 「……っ!!?」  しみじみと呟くように言う秀一に対し、藍時は一人、稲妻にでも撃たれたかのような衝撃を受けていた。 「ん? 何だ、その顔? オレがピアニストだとそんなにおかしいか?」  心外だな、と眉を顰める秀一に、自分がいったいどんな顔をして彼を見つめているのか、藍時にはわからない。わからないが、そんなことはどうでもよかった。 (お、おかしいも何も……)  今の今までこの店がホストクラブで、秀一がそのホストだと思い込んでいたのだから、まずはそこから修正をしなければならない。これで、「わあ、秀一さんってピアニストなんですね。すごーい」などと都合よく頭が切り替わるのは、今頃保育園で楽しく給食を食べているだろう純くらいだ。 「ねえ、秀ちゃん。もしかして、アンタまた夜のお仕事とか言って、相手を勘違いさせてるんじゃないの?」 「嘘だろ? 誤解がないよう最初に名刺も渡しといたのに……」  その渡された名刺に、この店の説明が藍時にもわかりやすい言語で記載されていれば、彼も誤解はしなかっただろう。いや、正確にいえば、記載はされていた。裏面にQRコードという、便利な読み取り機能が。

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