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『ありがとう』

 熊田お手製のサンドウィッチは藍時の舌を感動させた。使われた材料はパンにハム、レタスのみで、これだけで見ればサンドウィッチの中でも定番の組み合わせだが、使われている素材の一つ一つが、まず美味しかった。サンドウィッチをサンドウィッチたらしめるふかふかの柔らかいパンはバターが香りほんのりと甘い。そこに挟まれた厚みのあるハムは程よい塩味があり、噛む度にじわりとした脂が舌に乗る。その隣には脇役であり主役でもあるレタスがシャキシャキとした食感でおもしろく、加えて控えめに塗られたデミグラスソースがそれらの良さを最大限に引き出していた。  本来なら作った相手に対して感想の一つでも口にするのが食する者の礼儀だろうが、藍時が夢中になってサンドウィッチに齧りつく様を見て、熊田は満足そうに言った。 「お口に合ったみたいでよかったわ」  見た目通りのボリュームと確かな味に舌鼓を打ちながら、藍時はふと、スタッフと話している秀一に視線を向けた。こうして客観的に秀一が仕事をしている様を見るのは初めてのことだった。  当然といえば当然のことだろうが、遠目から見る秀一の横顔は父親の時とはまた違う印象を受けた。陳腐な表現だが格好いいと藍時は思うのと同時に、つい昨日まで、自分もあの「仕事兼接客モード」の秀一と接していたにも関わらず、その姿がすでに懐かしいと感じていた。  そうして眺めていると、秀一以外のスタッフの首には、自分がつけているものと同様のチョーカーがあることに気がついた。  すると、自分がそれに気づいたことを悟ったらしい熊田が、藍時に向かってこっそりと説明する。 「珍しいでしょう。あの子達、ここで働くアルバイトなんだけど、全員Ωなのよ。ここは……」  と言いかけて、熊田は何かを考えるように一呼吸を置いてから、説明を続けた。 「このビルのオーナーなんだけど、身内がΩということもあってか、困っているΩを見るとほっとけない性格でね。身寄りのない子や番を解消されて行き場を失くした子を見つけては声をかけて、ここに連れてきちゃうのよ。あそこにいる子達はみんなそういう子達。さながらここは、Ω専用シェルターね。上の階はその受け入れ先なのよ」  番の解消と耳にして、藍時は表情を曇らせた。αとΩの間にのみ発生するとされる番は、Ωから発するフェロモンを抑制し、番となった相手以外の人間を誘惑することもなくなるとされる利点がある一方で、番を解消されてしまうとそれまで抑制されていたフェロモンやヒートも戻ってしまうという。この番の解消はそうそうあるものでないとはいえ、相手がΩの自分よりも先に亡くなる場合や、αの都合により一方的に解消される場合に起こってしまうのだ。また、後者に関しては強い精神的ストレスを負ってしまうため、Ωは二度と番を作ることができなくなるという。  藍時がかつての恋人と番になりたくなかった理由は、捨てられた際のΩの末路を知っていたからだ。いや、捨てられた方がまだマシだったのかもしれない。一度でも番となってしまったら、Ωの方から解消することはできない。とすると、藍時は一生、恋人による支配の下で生きることになっていたのかもしれないのだ。  額からじわりと汗が滲んだ。店内の空調はよく効いているはずなのに、と思いながら、藍時は手の甲でそれを拭った。  そこにふわりと、チョコレートの甘い香りがカウンターの方から漂い始めた。ミルクパンに入れた牛乳とチョコレートを温めながら、熊田がしんみりと語った。 「Ωに対して、世間様はまだまだ厳しいからね。かといって、うちも保護した子達を特別扱いするわけじゃないの。あくまで一時的な避難場所よ。あの子達にはあの子達のペースがあるけれど、元気になったらリハビリを兼ねてここで働いてもらったり、就職や資格取得を目指して次の段階へ進んでもらったりするの。そのままここに就職させてくださいって頭を下げてくる子もいるんだけれど、しばらくするとみんなね……自分から次の目標を見つけて卒業していくわ」  だからここでの仕事はやりがいがあるわ、と締め括り、藍時は深く納得した。 (だから秀一さんも、面倒見がいいんだ……)  ただΩに対する扱いが上手いだけでなく、自分のように心に傷を負った人間達にどうアプローチをかけていき、ケアをしていくのか、それを熟知しているのだろう。慣れているようにも感じていた秀一の接し方も、この店自体にそういった下地があるのならば納得だ。  良い人間の下で彼が働いているのだな、と。藍時は一層、秀一を頼もしく感じた。  おしぼりで手を拭いてから、藍時はスマホを使い、熊田に言葉を返した。 『オーナーさんは立派な方なんですね』 「まあねぇ。でも、他人のことばかりにかまけてて自分のことはおざなりだもんだから……まったく。そんなんだから、意中の相手には捨てられるし、婚期を逃すのよ。あの男は」 『オーナーさんは独身の男性なんですか?』  会話の流れから何気なく尋ねると、熊田は喉を詰まらせたかのように咳払いをしたかと思うと、「ええ……そうよ」と藍時から目線を逸らしつつ頷いた。 (自分よりも他人を優先するなんて、秀一さんみたいな人って結構いるんだな)  藍時は呑気にそう思いながら、二切れ目のサンドイッチを頬張った。  ・・・  スタッフ達との話し合いが終わったのは、それから三十分も経った後のことだった。結局のところ、秀一はサンドイッチを食べ損ねてしまい、腹を満たした藍時とともに一旦家まで帰ることになった。  店の外に出るなり、秀一が藍時に「あのクマ野郎、本当にオレの悪口を言ってなかったか?」と耳打ちした。スマホをボディバッグに戻した藍時は唇を動かし、手話で答えた。 『言っていないですよ。オーナーさんが困っているΩの人達を保護していることと、彼らへの支援に一生懸命でご自分は独身でいらっしゃることをお話しされていました』 「あー……」  それを聞いた秀一は、なぜか店の方を睨むように目を細めた。  藍時は怪訝に思いつつも、秀一に対しこう伝えた。 『オーナーさんは素晴らしい人ですね。俺もΩですから、そういった支援がいかにありがたいかがよくわかります。なかなかできることではありません』 「そんなことはねえよ。金とやる気さえあれば、誰でもできることだ。別段、すごいことでも何でもない。オーナーの野郎には、そうするだけのきっかけと金があったってだけの話だ」  秀一はつっけんどんな口調で答えた。 (秀一さんは、オーナーさんが嫌いなんだろうか?)  藍時はそう思ったが、顔も知らぬオーナーについてそれ以上は語れない。何より彼が世話になっているのは、その素晴らしい男ではなく、目の前の大男だからだ。 『やる気があっても、それを実行に移すのと移さないのとでは、全然違います。心配だけで終わる善意は、失意の底にいる人間に何ももたらしません。俺も、純と秀一さんに出会わなければ、きっと今頃のたれ死んでいました。だから……』  そして藍時は、それまで純にだけ見せていた笑顔を、秀一に向けた。 『俺と出会ってくれて、ありがとう』  タレ目がちの瞳が嬉しそうに弧を描き、秀一を見つめる。すると秀一は、呆気にとられたかのようにうっすらと口を開くと、藍時を見つめ返した。  どうしたんだろう? と、藍時が小首を傾げると、離れたところからガン! と何かが強く当たる音が耳に飛び込んだ。驚くあまり笑むのを止め、すぐに音の鳴った方へ顔ごと向けると、通行人らしき男が頬を押さえながら電柱の前で蹲っていた。どうやら電柱に顔をぶつけたらしい。 (歩きスマホでもしていたのかな?)  ちなみにこの通行人は歩きスマホをしていたわけでなく、通行中にたまたま目に入ったΩが百年に一度の奇跡ともいえるほどの笑顔を浮かべたので、見惚れて注意が散漫し、顔をぶつけてしまったという可哀想なβだった。備考としてつけ加えるなら、初めてできた彼女とラブホテルへ向かう最中であった。 (鼻血まで出してて痛そう……でも、連れの人もいるみたいだし、こっちから声をかけなくても、大丈夫だよな)  思わず口元を手で押さえながら秀一に向き直ると、秀一もまた通行人の痛みを自分のことのように感じてしまったのか、手の甲を向けて自身の口元に当てていた。 (こんなに大きくて強い人でも、人の痛みには敏感なんだな)  新たな一面を発見した藍時だったが、彼は気づいていなかった。秀一の耳輪がほんの少しだけ色づいていたことに。

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