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『解雇してください』

 ・・・  押し寄せる波は荒く、熱く。ただ目の前の何かを欲していた。まるで獣にでもなったかのように、藍時はひたすらそれだけを求めた。 「はあっ……んっ……はあっ……あああっ……!」  自分の声が煩い。これは夢の中だろうか。声を失った自分が、鼓膜が破れんばかりに叫ぶなどありえない、と。藍時はそれを否定する。 「あっ……っ……ん、ああぁっ……!」  ズン、と重い衝撃とともに、熱く滾る何かが藍時の中に押し込められた。これは何だ? 重く、熱く、硬く、苦しい何かが藍時を襲う。だが、それこそが藍時の求めていたものでもあった。 「はあっ……はあっ……あっ……う、ごい……動、いて……俺、を……俺を……んんぅ……!」  また、別の何かが藍時の口を覆うように塞いだ。それは湿った蛇のようなもので、藍時の舌を絡めとった。まるで言葉すらも奪うかのように、それは深く、深く、藍時の中へと入っていく。  呼吸をすることすらも奪われそうになるほど、それは藍時を襲うことを止めない。溢れる唾液は顎へと伝い落ち、しかし雫となる前に絡めとられる。まるで藍時から溢れ出るものすべてを、奪い尽そうとしているかのように。 「んんっ……はっ、はあっ……ん、あつ、い……あつい……んああっ……!」  藍時の中に満たされた何かが、さらに膨らみ増幅する。  深く、浅く、そしてまた深くを繰り返し、それは藍時の中を抉り、侵していった。  藍時はそのたびに悲鳴をあげ、そしてそのたびにそれを求めた。 (ああ、気持ちいい……満たされる……)  全身が真綿で包まれるかのように心地よい。全身が槍で刺されたかのように苦しい。それでも藍時は、「もっと……」と手を伸ばした。 (もっと欲しい……もっと……もっと……ぜんぶが欲しい……)  飢餓のような苦しさは、満たされては消え、満たされては消えていく。そうして何度目かに満たされた後、藍時は意識を失った。  ・・・ 「う……ん……」  頭が重い。最初に感じたことはそれだった。生まれて初めて酒を飲んだ時、数時間後には激しい頭痛が藍時を襲った。今はそれによく似ている。だが、痛いのは何も頭だけじゃなかった。 (身体……全身が、重い……)  鈍痛と疼痛が入り混じるような不快感が藍時を襲い、起き上がるのが億劫になった。風邪だろうか。しかし風邪にしては怠さの質が異なった。何より心当たりがない。 (今、何時だろ……?)  カーテンが開け放たれた部屋の中が明るい。窓から差し込む陽の光が、直接入ってきているからだ。それにしても、普段より太陽の位置が高いなと、藍時はぼんやりとした頭で思った。  続いて時計を探した。昨夜に寝たのは何時だったのか。その時、自分はアラームをセットしたのか。そもそも…… (そもそも、風呂から出たのって……)  刹那、藍時の顔から、サッと血の気が引いていった。そしてベッドで跳ねるように起き上がると、すぐに自分の身体を見下ろし確認する。  やけに涼しいと思っていた。それも当然だった。藍時はその身に何も纏っておらず、傍には被せてあった布団が一枚、あるだけだったのだから。 (うそ……嘘……嘘っ……!?)  藍時はガタガタと身体を震わせた。ここは扇家。住み込みを始めてから使わせてもらっている部屋だった。つまり、自分は勤め先の家の中で、一糸纏わず寝ていたのだ。  それだけではない。その身は胸から下にかけて……特に両脚の付け根周辺に、赤い花弁のようなものが散っていた。それがいったい何を意味しているのか、わからないわけがなかった。 (俺……俺は……昨夜……秀一さんと……!?)  起き上がったことで蘇りつつあるのか、だんだんと記憶が鮮明になっていく。  なぜこんなことに。どうしてこんなことに。いくら考えても、時間が巻き戻ることはない。なかったことにはならない。  自分は雇用主と一線を越えてしまった。それも、妻と子どものいる家庭を持つ男と。  恐れていた事態が、起きてしまったのだ。 「ああ、起きていたか」  ちょうどタイミングよく……いやタイミング悪く現れたのは、ノックもなしに入室する昨夜の相手だ。 (秀一、さん……)  藍時は震えながら、こちらへとやって来る秀一を見つめた。彼はトレーを手にしていた。その上には、水と牛乳が入った二つのグラスと、シリアルが盛られた皿があった。おそらく、自分用の食事だろう。藍時はサッと、布団を羽織のように身体へ纏わせた。  一方の秀一は、ワイシャツにスラックスを穿いた姿だった。相手がきちんと服を着ている分、藍時は自分の姿が情けなく、そして恥ずかしかった。しかし首元のボタン二つは外しており、秀一の首には例の指輪がついたネックレスがキラキラと光っていた。 (本当に……本当に……なんて取り返しのつかないことを、してしまったんだろう……)  そんな心の内を知ってか知らずか、秀一はトレーをチェストの上に置くと、藍時のいるベッドサイドに腰を下ろした。ギシ、と軋むベッドのスプリングが、沈黙の中でやけに響いた。  後悔してもしきれない。純の笑顔を守りたかったはずなのに、それを最悪の形で自分は裏切ってしまったのだ。  藍時は両瞼を強く閉じながら、秀一からの解雇通告を待った。  しかし落ちてきたのは通告ではなく、大きな手の平だった。 「身体は大丈夫か? 熱は? 痛みや怠さはないか?」  ポン、と頭に乗せられる秀一の手は、いつもと変わらない優しさで藍時を撫でた。叩かれても仕方がないと思っていたそれが、まさかの形で自分に触れたのだ。 (なん、で……?)  藍時は慌てて、それを振り払うように頭を振った。そして秀一に向かって、昨夜のことを詫びようと手話も忘れて、口を開閉させる。 「……ぁ、あ……ぅ、ぁ……」  しかし出るのは掠れたような音だけ。声帯なんてあるだけで、肝心な時に機能しない。詫びることすらさせてくれない自身の喉を、藍時は切り裂きたくなった。 「落ち着け。大丈夫だから」  取り乱し、チョーカーの上から自身の首元を両手で掻きむしり出した藍時の肩を、秀一は止めるように押さえつけた。  だが、悲痛な面持ちで秀一を見上げる藍時は、荒い呼吸を繰り返した後、手指を動かし謝った。 『ごめんなさい。ごめんなさい。俺、本当に、そんなつもりじゃなくて……!』 「問題ない」 『でも……!』 「いいか、藍時」  秀一の顔は、いつもの飄々とした様子でも、おちゃらけた様子でもなかった。そこには優しげな笑みも乗っておらず、初めて会った頃に見せた鋭い目つきで、藍時を見つめこう言った。 「藍時は昨夜、のぼせたんだ。風呂の中で。だからオレが介抱した。それだけだ」  嘘だ。そんな見え透いた嘘はすぐにわかる。なぜならこの身体には、あなたと交わったという紛れもない証が、蔓延るように残っているのだから、と。藍時は今にも泣き出しそうな顔で頭を振った。 『駄目です。そんなことは。俺は許されないことをしました。奥様にも申し訳が立ちません』  せっかく続いた仕事だった。本物の母親が戻ってくるまで、純の傍にいたかった。藍時は自分が守りたかったものを、自らの手で壊したのだ。その責任は取らなければならない。  断腸の思いで、秀一に伝えた。 『解雇してください』  しばしの沈黙が、二人の間をすり抜ける。藍時は目を伏せ、秀一からの返事を待った。この時の秀一がどんな顔をしていたのかはわからない。  しかし次の瞬間、彼の口からは憤りを含んだ声が、堰を切ったように発せられた。 「じゃあ、あのまま放っておけばよかったのか? 苦しんでいるお前を? できるかよ。そんなこと」  そう言われ、藍時の頬にそっと大きな手が添えられると、そのまま顔を上げさせられた。これは先日、自分が払いのけてしまった、男の手。αの手だ。それがいつの間にか、受け入れられるようになっていたことを、藍時はこの状況で知ってしまった。  当の秀一は藍時を睨みつけるように見つめた。そうすることで、藍時によそ見すらさせないようにした。  そしてどこまでも優しく、どこまでも残酷な本音を口にする。 「お前は悪いと思っているのかもしれないけどな。オレは微塵も思っていないぞ。間違いなど、起こしていない」  その台詞を皮切りに、藍時はポロポロと大粒の涙を零した。 (駄目だよ、それは……それは……ヒナさんに対する……明白な裏切りだ……)  藍時は声なく泣き続ける。それが気を害したのか、秀一は「チッ」と舌打ちをした。  彼は藍時から手を離すと、ガシガシと乱暴気味に自身の頭を掻いた。 「とにかく、今は休め。いや、少なくとも三日は休んでおけ。言っている意味はわかるな? でないと……脚に鎖をつけてでも、ベッドに縛りつけますよ」  トン、と藍時の隣に置かれたのは、わざわざ購入したであろう、ヒート用の抑制剤だった。  その後は藍時と顔を合わせることなく、秀一は部屋を出て行った。  今の秀一は、仕事の時の彼とも、父親の時の彼とも違った。まるで別人。人はいきなり、こうも変わってしまうものなのかと、藍時は愕然とする。 (あの人と……一緒だ……)  藍時は倒れ込むように枕へ顔を埋めると、静かに背中を震わせた。

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