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抗えない本能

 それから三日間、藍時は外へ一歩も出ることなく、トイレの時以外は住み込み用の部屋の中だけで過ごした。顔を合わせる人といえば、時折食事や飲み物を運んでくる秀一くらいで、一緒に暮らしているはずの純の顔は見ることすらできなかった。  当然ながら「ママは?」と尋ねる純には、体調が悪くて寝込んでいると秀一が説明したらしい。ヒートの説明は、まだ幼い彼には理解が難しいから仕方ない。自分が秀一でもそう言って聞かせただろうと、藍時は抑制剤を飲み続けた。幸い、その後はヒートの波が押し寄せるも、薬のおかげで耐えしのぐことができた。達したくてたまらない時だけ、自慰を行うことで昂りを抑えた。  秀一はというと、藍時の部屋に入ることはあっても、決して入り浸ることはなく、最低限の世話だけを行った。外から調達したであろう食事を運び、風呂にすらろくに入れない藍時の身体を、フェロモンが出ていない時を見計らい、濡らしたタオルで拭いていく。シーツの交換も、日が変わるたびに行った。  その間、お互い何も言わなかった。藍時はもとより、秀一も。笑うこともなく、怒ることもなく、それぞれの表情には確かな「無」が乗っていた。  四日目からは部屋を出て、けれど外には出ずに家の中だけで過ごした。フェロモンが完全に分泌されなくなるまで、長くても一週間はかかるからだ。  ようやく顔を合わせることができた純には申し訳なさが先に立ち、心配する彼の顔を直視できなかった。秀一とも顔を合わせる時間が増えたものの、気まずい藍時は彼を避けるようにしていた。秀一は変わらず、純の前ではいつもの「パパ」の顔だった。  そのように思っていた。 「ねえ、ママ。パパと何かあった?」 「え?」  寝る前の絵本の読み聞かせをしている最中に、仰向けに寝そべる純がこちらの顔色を窺いながら尋ねてきた。子どもは感情の機微に敏感だ。それまで仲の良い「パパ」と「ママ」を演じてきた二人が、自分を除いて二人きりになると急によそよそしさを見せる。特に「ママ」は、常に浮かない顔だ。これで疑問に思わない方がおかしかった。  しかし、次に彼の口から語られたことは、藍時にとって意外な事実だった。 「ママがお風呂で倒れてからね。パパがすごくさみしそうなお顔をしているの」 「パパ、が……?」 「うん。すごく、さみしそう」  寂しそうな、と感じているのは純の主観だろう。藍時からは怒っているような気がしてならない秀一の様子が、子どもの目からはそう見えているらしい。 (寂しいなんて……なんで、そんな……)  おそらく純の勘違いだ。そうに決まっている。藍時はそれを否定しようと口を開いた。  だが、それを純は言わせまいと、珍しく被せるようにして藍時に語った。 「パパはね、お仕事がたくさんだし、夜も帰ってくるのが遅いけれど、いつも誰かのために頑張ってるの。ぼくね、そんなパパが大好きなの。でもね、パパは頑張りすぎちゃうから、自分をがまんしちゃうの。もっともっと、自分を大事にして欲しいのに、ぼくのことを大事にするの。それがね、ちょっとだけうれしくて、ちょっとだけさみしいの。だからママも……ううん」  純はごろんと横に転がり、藍時の手を握って彼を見つめた。 「ママが、パパのことを大好きになってくれると、パパはきっと喜ぶの」 「俺……が?」  いや、違う。これはヒナに言っているのだ。自分ではない。藍時は心の中で自身に言い聞かせた。  そんな自分の心を純は見透かしているかのように、言葉を続けた。 「ぼく、ママとパパが大好き。いつも一緒がいいの。だから、今度の……えっと、らいしゅー? の、にちよーびにある花火をね、みんなでみるの。前もみたよね。だからまた、みんなでみようね」  そうして純は「ふふっ」と笑った後、すやすやと眠りについてしまった。  あどけない純の寝顔に、藍時は「ごめんな」と唇だけを動かし、その滑らかな頬にキスを落とした。 (秀一さんを好きになることはできない。それができるのは、許されるのは、本物の夫婦だけなんだよ。だから純。その望みだけは、聞いてやれない……)  藍時はそっとベッドから離れると、純の部屋を後にした。  廊下に出ると、ちょうど仕事から帰宅した秀一とばったり鉢合わせた。藍時は咄嗟に、何かを言おうと口を開いた。 「……ぁ、ぅ……」  本来なら「お帰りなさい」が正解だ。そんな簡単な挨拶でさえ、今の藍時には紡げない。  謝罪の言葉は受け入れてもらえない。それ以外の言葉が、見つからなかった。  藍時は胸の前で手を握り、秀一から逃げるように視線を逸らした。それを見て、秀一は「はあ」と短くため息を吐くと藍時に近づき、詰め寄るように彼を壁側へと追いやった。  そして顎に手を添えると、そのまま自分と目が合うように藍時の顔を上げさせた。  秀一は、一線を引いて藍時に言った。 「顔を合わせるのが気まずいというなら、住み込みを止めても構いません。しかし、こんな理由で『ママ』を辞めることは、絶対に許しません」  強く鋭い両目は、その瞳の奥に怒気を孕んでいるようだった。  どうやったら戻れるのだろう。どうやったら戻せるのだろう。どうやったら戻ってくれるのだろう。  藍時は目に涙を溜めながら、唇だけを動かした。 『俺は……どうやって償えば、いいですか?』  声は出ない。しかし唇の動きだけで、それは秀一に届いたようだった。  藍時に触れる手とは反対の秀一の拳が、壁に向かってガン! と強く叩きつけられた。怯えたようにその場で目を閉じる藍時は、反射的に身構えた。 (殴られる……!?)  だが、降ってきたのは拳ではなく、耳にしたことのない悲痛な声だった。 「いい加減…………早く…………」  耳元で囁くような微かな言葉を残した後、秀一は藍時の唇に自身のそれをそっと重ねた。 「んっ……ん、ぅ……やっ……!」  突然のことに驚く藍時は、秀一の胸を両手で押し返し、抵抗する仕草を見せる。僅かに開いた口からは、悲鳴のような小さな声を漏らすも、それは呆気なく彼の唇によって塞がれてしまう。どころか、その隙をついて舌の侵入を許してしまい、行為はより深いものとなった。 (何で……ヒートでもないのに。どうして秀一さんは……こんなことをするの?)  そう思ったのも束の間、抑制されていたフェロモンがじわじわと滲み出てしまい、藍時の身体は再びヒートを起こしてしまった。 「はあっ……はあっ……しゅ、しゅう……いち、さ……は、離れ……」  まだ残る理性で藍時は秀一を遠ざけようと、必死になって胸を押した。しかし僅かな抵抗も虚しく、秀一は藍時を抱きかかえると、そのまま住み込み用の部屋へと連れ込み、藍時を押し倒した。 「やっ……秀、いち……んんぅ……!」  Ωとしての抗えない本能が、藍時を支配し始めた。目の前の男が欲しい。もはや倫理観など、はじめからなかったかのように、藍時は相手の首に自身の両手を絡ませた。

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