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残酷な真実 1
ヒートが起きてからちょうど一週間が過ぎた頃、フェロモンの分泌が止み、藍時はようやく発情から解放された。
その間、秀一は藍時が苦しむたびに彼を抱いた。秀一にとって、その行為は不貞行為ではなく、処置のようなものだったのだろう。
ヒート中はこれでもかと秀一を求め、我に返るたびに藍時は罪悪感に苛まれた。その繰り返しだった。
今日は久々に、純を保育園へと送り届けることができた。純は大いに喜び、元気よく登園した。
「ママ! いってきます!」
ブンブンと手を振る偽りの我が子に、藍時は微笑み、小さく手を振り返した。そして彼の姿が完全に見えなくなったところで、藍時はその顔から笑みを消し、悲しそうに眉を下げた。
(ごめんな。純。本当に……ごめん)
藍時は今日、扇家を出ていくつもりだった。秀一にも純にも、それは話していない。住み込みは止めても、仕事を辞めることは許さないと秀一は言っていた。たとえ申し出たとしても、受け入れてはもらえないだろう。しかし、ヒナが帰ってくるまで、待つこともできなかった。
事故のようなものとはいえ、配偶者のいる男と幾度も身体を重ねてしまった。それは紛れもない不貞行為。加えて、藍時は過ちを犯した相手に対して、特別な感情を抱きつつあった。当初に抱いた憧れとも違うその感情は、秀一の傍にいればいるほど、そして身体を重ねれば重ねるほど高まった。きっと、ヒートさえなければ生まれなかったものだろう。
荷物はすでに纏めてある。書き置きも用意した。後は扇家に戻り、自分がいたという痕跡を消して出ていくだけ。藍時は目に溜まる涙を拭いながら、脚を動かした。
扇家に戻ると、藍時はそれまで使わせてもらっていた部屋に入り、充電コードに繋げているスマホを手に取った。ヒートが起こってからスマホを手にする余裕すらなかったため、この数日は電池が切れたまま放置していた。
久々に電源を入れると、画面には十件以上もの着信履歴とメッセージがズラリと表示された。発信源は通院しているクリニックからで、メッセージは登録していない番号からのものだったが、内容を確認するとそれが主治医の鷹木であることがわかった。
メッセージには、二日前に予約していた受診を連絡もなしにキャンセルしていたことについて、心配している旨が書かれていた。本来なら翌週が受診日なのだが、処方内容を変えたことで様子を見たいと鷹木に言われ、受診日が早まっていたのだ。
クリニックのことをすっかり忘れていた藍時は、「しまった」と思いながら、メッセージに表示されている番号へ電話をかけた。本来なら、今日はクリニックの休診日だ。内心、申し訳ないなと思いながら、相手が出るのを待った。
三コール目の後に電話は繋がり、鷹木は『はい』とやや焦ったような声で応答する。当然、藍時は声を介して返事ができないため、ペンを手にして控えめにスマホを叩いた。
『藍時君だな? ああ、少し待ってくれ。互いの顔が見えるようにしよう』
相手が藍時だとわかるなり、鷹木はビデオ通話ができるメッセージアプリとそのIDを紹介すると、通話を終えた。続けて、そのメッセージアプリを介してビデオ通話に切り替えると、互いの顔が見られるようにしてから、会話が始まった。
藍時は受診しなかった理由について、手指を使い、訥々と鷹木に語った。久方ぶりにヒートが発生したことを明かすや否や、鷹木は『まさか、そんな……!』と口ごもり、酷く驚いた様子を見せた。
『あの抑制剤を使ってヒートが起きるなんて……それで、身体の方は大丈夫なのかい?』
そう尋ねられて、藍時は返答に困り、手を止めた。住み込みを止めるよう言われていたというのにそれを守らず、どころか妻子のある雇用主と一線を越えてしまったことをあけすけと話せるほど、彼は人間ができていない。
目を泳がせ、手指をただ動かしているだけのその様子に、鷹木も気づいたのだろう。『なんてことだ……』と、彼は愕然としたように額に手を当てると、そのまま項垂れてしまった。藍時は事の重大さを、改めて思い知らされた。
軽蔑されたかもしれない。藍時は落ち込みながらも、自業自得だと自身に言い聞かせ、鷹木が顔を上げるのを待った。
鷹木は嘆息のような長いため息を吐いた後、ゆっくりと話し出した。
『君が罪を犯してしまったことは、もうこの際仕方がないとして、だ。藍時君も軽率だったとは思うけれど、その雇い主も……はあ。いくらヒートが起きたとはいえ、本来は互いが気をつけていれば防げた事故のはずだ。それに、裁かれないとはいえ、君達がやったことは不貞行為に変わりない。いいかい、藍時君。今から言うことを、よく聞くんだ』
落ち着きを取り戻したらしい鷹木は顔を上げると、藍時に向かって嗜めた。
『もうわかっているだろうけれど、そのお宅から今すぐ出ていきなさい。不在とはいえ、配偶者のいる相手と寝るなんて、決して許されない。厳しいことを言うけれど、君がやったことは泥棒と同じなんだよ』
ぐうの音も出ない。藍時はただただ鷹木からの叱責に耳を傾けた。
『しかしまあ、過ぎたことをネチネチと言っていても仕方がない。それにこれは、言おうか言うまいか迷っていたんだが……藍時君。そこに扇さんはいないんだね?』
藍時は首を傾げつつも、コクリと頷いた。
『扇秀一さん。彼のことについて、調べさせてもらったんだ。あまりにも不自然な偶然が多く、妙な胸騒ぎがしていたからね。そこでわかった事実なんだが……』
そして、その直後に語られたことは、藍時にとって信じ難い内容だった。
『彼は……かつて君を支配していた、元恋人のαだよ』
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