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残酷な真実 2

 頭を鈍器で殴られたように、強い衝撃が走った。藍時は「信じられない」と言わんばかりの表情で、左右に首を振った。 (そんなはずはない。だって秀一さんは既婚者で、あの人は独身だったはず……それに、それに……あんなに、優しい人が……)  そこまで思いかけて、藍時の頭にはかつての恋人から虐げられてきた日々が蘇る。その恋人も、付き合う前は藍時に対してとても優しかった。 (で、も……でも、純には優しいままで……純だって、秀一さんにあんなに懐いていて……そんな人が、俺に暴力なんて……) 『信じられない気持ちはわかる。だが、これは事実だよ』  葛藤している藍時に対し、画面向こうの鷹木は残念そうに頭を振った。  ハッとした藍時は、自分が疑問に思うことを鷹木に尋ねた。 『先生はどうやって、秀一さんのことを調べたんですか?』 『彼の店に行って聞き込みをしたんだよ。前回、受診した日に彼が働いているという店の名刺を見せてくれただろう? こちらは顔を知られていないから客として入店して、スタッフの一人から彼のことを聞き出すことができたんだ。お酒を入れたら、快く話してくれたよ。彼が妻に出て行かれた、本当の理由をね』 『本当の……理由?』  藍時が眉を顰めると、鷹木は言いにくそうに視線を逸らしながら、彼に答えた。 『君と一緒だ。扇さんの妻もまた、彼からDVを受けていたんだ』 『そんな……』  藍時は手話も忘れて、パクパクと唇を動かした。  鷹木は続けた。 『それが本当なら辻褄が合うんだ。母親が幼い我が子を置いて、連絡も入れずに長らく帰らない理由など限られているしね』 『ですが……!』  藍時は手指を震わせながら、鷹木に伝えた。 『俺が付き合っていた時、あの人は独身でした。秀一さんのように結婚もしていなければ、子どもも……』 『そこから騙していたんだろう。αはただでさえ、Ωにとって魅力的に映る存在だ。逆もまた然り。気に入ったΩがいれば、たとえ家庭を持っていたとしても、愛人として囲う者も多いという。扇さんはそれができる人だったんだよ。君を騙し、妻を騙し、周りを騙し、家庭を持ちながらも器用に二重生活を送っていた。君が扇さんの妻に顔が似ているというのなら、なおさらだ』 『でも……でも……!』 『わかるよ。君が言いたいことは。だが、これが真実だという裏付けはまだあるんだ。君は前回のカウンセリングで、扇さんの話をしてくれたね。彼は仕事の時と普段の時とで、接し方が変わると話しただろう? DVを行う加害者によく見られる行動パターンだ。いわゆる外面がいいというやつだね。まさかあの人が……! なんて話は、残念ながらよくあるんだよ』  そこまで言われて、藍時はだらんと両手を落とした。 (嘘だ……嘘だ……嘘だ……!)  頭の中で必死に否定の言葉を繰り返す。逆を言えば、それしかできなかった。  藍時は知らなかった。顔も名前も覚えていない相手を否定することが、こんなにも難しいことだとは。 『不自然な偶然が多かったのはそのためだ。何度も起こる都合のいい偶然というのはもはや偶然ではなく、意図して引き起こされる必然だ。扇さんはこれまでずっと、必死になって君を追っていたんだろうね。……とにかく、今は混乱しているだろうから、可能であれば今日、クリニックに来なさい』 『今日はお休みじゃ……』 『私は君の主治医であり、経営者だよ。ヒート用の抑制剤も改めて見直す必要があるし、処方した他の薬ももうないだろう? 服薬を急に中断してしまうのは身体に負担がかかる。午後でも、夜でもいい。受診しなさい。いいね?』  鷹木との通話はこうして終わった。  藍時は変わらず、否定の言葉を繰り返しながら、ふらふらと無断で秀一の部屋に入った。目的はもちろん、今しがた知った衝撃的な事実が、嘘であることを調べるためだ。ちょうど部屋の主が仕事で外に出ている今がチャンスだった。  初めて入る秀一の部屋は書斎のような造りになっており、整然としていた。本棚には隙間なく埋められた数々の書籍と、書類が纏められたファイルの山。そして壁側に設置された大きなシステムデスクと、その上に置かれたパソコンが一台あった。  藍時はごくりと唾を飲み込んだ。 (部屋をくまなく調べれば……あるいは……)  望みは薄い。だが、もしかしたら何かがわかるかもしれない。秀一を信じているからこそ、いや信じたいからこそ、藍時は否定の材料を探し始めた。  かつて、恋人だった男は藍時の姿を画像として収めていた。趣味だったのだろう。それを常に見られるようにしておきたいからといって、パソコンのストレージに保存するのはもちろん、紙に出力して写真としてわざわざアルバムに収めていた。 (秀一さんが本当にあの人なら、どこかに俺の写真があるのかも……)  藍時は本棚の一角に並んでいるアルバムらしきファイルを取り出した。パラパラと捲ると、出力された写真がたくさんあった。しかしそこに写っているのは、秀一と純の二人だけのものしかない。時折、秀一以外の男が赤ん坊の純を抱いているものが交ざっていたが、その顔は自分とは似てもにつかず、ましてやヒナでもないだろう。  あの熊田も、藍時をヒナと間違えるほどだ。単にページを捲っているだけだとしても、見落とすということはないはずだと、藍時は次から次へとアルバムを引き出し、調べ続けた。  そうする中でふと、ランプがチカチカと光るパソコンに視線がいった。電子機器の類に明るくない藍時は、それが何の光なのかはわからなかったが、なぜか吸い込まれるように、パソコンの前に立った。  どのボタンをどうすればいいのか、そこからしてわからない藍時だが、机の上のマウスを手に取ると、くるくると円を描くように動かした。  その瞬間、黒一色だった画面がフッと明るくなり、すでにパソコンが起動していたことを知った。スリープモードになっていたらしい。 (何これ……パスワード? って、何を入れればいいんだ……?)  純の画像を背景に、パスワードの入力画面が表示され、藍時はうろうろとキーボードの上で指を動かした。 (えっと……確か、パスワードは大事な人の誕生日って言っていたから……)  以前に秀一が言っていたことを、藍時は思い出した。パスワードが大切な人の誕生日ならと、試しに純の誕生日である「0901」を入力した。続けてエンターキーを押したが、またもやパスワードを求められてしまった。 (これは、違うってこと? じゃあ、他に秀一さんの大切な人となると、ヒナさんの誕生日……? でも、ヒナさんの誕生日なんて、俺は知らない……)  過去の記憶を振り返ってみても、ヒナの誕生日は聞いていない。ならば、一月一日から順番に始めてみるかと、キーボードの上に指を翳したその時だった。 (まさか、な……)  藍時はある四桁の数字を思い出すと、再びキーボードを叩いた。  すると、画面は「ようこそ」の言葉とともに、背景も純の画像から別のものへと変化した。 「……っ!?」  藍時が声なき悲鳴を上げた。そこには信じられない画像が写し出されていたからだ。 「……ぁ、……ぅ、ぁ……!」  今よりも少しだけ若く、そして少しだけ髪が伸びた秀一と、隣で茶色の髪が懐かしい過去の自分と思しき人物。それがパソコンの壁紙に使われていた画像だった。 (何、で? 何で俺が、秀一さんと一緒に写っているの?)  この家で働き始めてからというもの、純にせがまれ一緒に写真を撮られることはあっても、秀一と一緒に写真を撮られたことはなかった。しかも、この画像の自分は頬や腕などの至るところに、ガーゼや包帯を巻いていた。 (ヒナ、さん……? ううん。違う。だってこのパソコンのパスワードは……) 「1231」。それは藍時自身の誕生日だった。  つまり、ここで秀一と一緒にいる人物は、過去に恋人から暴力を受けていた頃の自分だということだ。 「う、ぐっ……!」  藍時は急ぎ、トイレへ駆け込んだ。膝から崩れるように便器の中へ顔を落とし、胃の中が空になるまで吐き出した。 (違う。違う……俺の恋人は、秀一さんじゃない……!)  短く荒い呼吸と引き換えに、ポロポロと涙が零れた。  頭の中でいくら否定しても、あの画像が何度もそれを事実だと言ってくる。なぜなら、画像の中の秀一は少しだけ照れたように、しかし嬉しそうに笑っていて、儚げに微笑む自分の肩を抱いていたのだから。  言葉の否定など無意味だった。自分に暴力をふるった男の顔が思い出せないのなら、それが秀一でないという証明など、できはしない。

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