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秘密 1

 それから、藍時はどうやってそこまで来たのか。気づけば、自分は「鷹木こころのクリニック」が入っているビルの前で立ち竦んでいた。  乗り込んだエレベーターの行き先は三階。ゆっくりと上昇する大きな箱は、藍時を目的地まで送り届けた。 「藍時君っ。ああ、びしょ濡れじゃないか。なんだってこんな……とにかく、入って」  扉が開くなり、心配した様子の鷹木が藍時の下へ駆け寄った。外は夕立のような雨が降っているというのに、藍時の手には傘がなかった。また、普段は被っているキャスケットも頭にはなく、所持しているのは肩から下げたボディバッグのみだった。  水気を含んで色が濃くなったTシャツとジーンズは、彼の身体にしがみつくようにべったりと引っ付いている。まだ夏場だからよかったものの、これが秋や冬のことであれば低体温症になっていたかもしれない。とはいえ、このままの状態で冷房の効いた室内にいれば風邪を引きかねない。鷹木はエアコンのスイッチを切ると、ほんの僅かに窓を開けた。 「すぐにタオルと温かい物を持ってくるから。ソファに掛けて待っていてくれ」  そう言うと、鷹木は受付奥の方に行き、姿を消した。  被った雨を頭からポタポタと滴らせながら、藍時は目の前のローテーブルに視線をやった。そこには、何かを飲み干しただろう空のマグカップが五つも置いてあった。いったいどれだけの時間を、この待合室で過ごしていたのだろう。自分が来るまで、鷹木はここで待っていたようだ。  訪ねる時間を予め伝えておけばよかったのかもしれない。しかし、今の藍時にはそうする余裕すらなかった。 (ただ、普通の生活を送りたかっただけ、なのにな……)  多くを望んだわけではない。ただ、人並みの生活を欲しただけだ。それがどうして、自分はこんなにも苦しめられなければならないのだろうと、藍時は嘆いた。 (やっと抜け出せたと思っていたのに……やっと……やっと……)  ようやく掴むことができたと思っていた幸せも、そこから抱きつつあった希望も、芽生えつつあった自信も、何もかもが根こそぎ奪われた気分だった。  この人なら大丈夫。この人なら裏切らない。秀一のことを信じていたからこそ、絶望は大きかった。 (もう、疲れた……)  藍時の美しい瞳から、光が消えつつあった。  しばらくして、マグカップとタオルを手にして戻ってきた鷹木は、それぞれを藍時の前に置いた。温かい湯気の立つマグカップには、赤みがかった茶色が綺麗なミルクココアが入っていた。 「さ、飲んで。熱いから、気をつけてね」  促されるまま、藍時はマグカップを手に取ると、ふうっと息を吹きかけながらそれを飲んだ。  鷹木が重い口を開いた。 「確たる証拠が、あったんだね」  藍時は俯くように頷いた。鷹木が「そうか」と同情の眼差しを向けた。 「ともかく、抜け出すことができてよかったよ。そのまま扇さんの家で過ごしていたら、もっと酷いことに……それこそ、取り返しのつかないことになっていたかもしれない」  言いながら、鷹木は藍時の隣に座ると、彼の肩を優しく抱いて自身に引き寄せた。  ビクッと身体が大きく跳ねるものの、藍時は大人しく鷹木を受け入れる。  マグカップをローテーブルの上に置いたところで、鷹木が頭上で息を吹きかけるように語り始めた。 「扇さんも、本来は優しい人間だと思うんだ。彼の生育歴を知るわけじゃないから、これはただの憶測だけど……彼にとって頼れる身内が近くにいないことからして、きっと不遇な人生を送ってきたんだろう。αは一見、尊ばれる存在に見えるけれど、その分周りからの期待が大きいからね。そういった重圧に耐えられない人も少なくない。また、まともな愛情を受けてこなかった者は、まともな愛情がわからず成長してしまう。だから自分がされて嫌だったことも、無意識のうちに我が子や配偶者に対して行ってしまうことがある。いわゆる、負の連鎖というやつだ」 『でも……』  そこまで聞いて、藍時はゆっくりと手指を動かした。 『純は……彼の子どもは暴力を受けていません。素直で、まっすぐな……いい子に育っています』  一か月も一緒にいたのだからよくわかる。純の天真爛漫な性格は、一日や二日でできあがるものではない。ましてや純が本当の自分を押し殺して、日々を振る舞っていたとは思えなかった。  鷹木は「いいや」と首を振った。 「扇さんにとって、その純君だけは特別だったんだよ。実の子どもには優しく接し、ごくごく一般的な愛情を向けられるものの、配偶者に対しては態度を変えるという話は珍しくない。アルコールが入ると特にね。扇さんは仕事柄、アルコールは避けられないだろう? そしてそれは妻だけではなく、囲う恋人にも同様に及んでしまうんだ」 (お酒の匂いは、秀一さんから感じたことはなかったけれど……)  と、藍時は思いかけて、しかし考えるのはやめようと、テーブルに置いたマグカップへ手を伸ばした。 「人格が別にある、という可能性もあるね」  鷹木がつけ加え、再び語り出した。  しかしその内容に、 「彼の店のスタッフが言っていたんだ。扇さんは血の繋がった我が子を心底可愛がっているけれど、アルコールが入るとまるで別人のように変わってしまうとね」  藍時の手がピタリと止まった。 「つまり、君や奥さんの前で切り替わっていたのも意識的にではなく、人格そのものが入れ替わっていたという可能性が……どうした?」

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