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おまけのようなエピローグ 4
・・・
「よかったわ~。ヒナちゃん、妙なお薬を処方されてなくって! 私はてっきり、あのお坊っちゃんからいいようにされてるんじゃないかって、心配で心配で~」
開店前の「L’oiseau」のバーカウンターでココアを作っている熊田が、店内に響き渡るほどの声量とともに深く胸を撫で下ろした。
そんな彼に対して、カウンター席に座る秀一が自分で淹れたコーヒーを飲みながら頷いた。
「今朝の検査結果を聞きに行くまで内心ヒヤヒヤものだったけれどな」
二人が話しているのは、先日藍時が受診した病院での検査結果についてだ。再会した藍時を扇家に招いてからというもの、秀一は彼が服薬する薬剤を気にしていた。それが本当に藍時の身体に合うものならよかったが、処方をしていた人間はその藍時を自分のものにしようとしていた陸だ。いったい何を飲まされているのか、秀一は気になって仕方なかった。
あわよくば薬の情報を盗み見ようとしていたのだが、それはついぞ叶わなかった。それほど藍時による薬の管理は徹底していた。幼い純が誤って口にしないよう、薬を飲み終えた後の包装シートすら、個別の袋に入れてからゴミ袋に捨てていたほどである。
仕方なく、日々の様子を見るだけに留まっていたのだが、今回の問診と血液検査の結果、幸い藍時の身体に悪い影響がなかったことが判明した。
「万が一、藍時が別の病院にでもかかったりすれば、採血を始めとした検査ですぐにバレる。それを恐れたのか、良心が働いたのかはわからねえが、藍時の身体に合っていなかったのは眠剤だけだったよ」
不眠となるそもそもの元凶が度々顔を合わせていた陸本人なので、どんなに薬剤の種類を変えたとしても意味はなかった。結果、藍時は日に日に増していく副作用に、これまで悩まされていたというわけだ。
「その眠剤の方もいきなり断薬するんじゃなくて、処方内容を変えて減薬してみようという話になった。頓服として安定剤も処方されたよ。藍時をこんな目に遭わせた元凶から逃れたとはいえ、しばらくは通院を余儀なくされる」
「そうね。それだけのことをあのお坊っちゃんはヒナちゃんにやってきたんだものね。……それで、今回被害届は出したのね?」
確認のような熊田の質問に、秀一は頷いた。
陸が熊田によって警察へと突き出された翌日、藍時は秀一とともに警察署へ赴いた。本来なら陸が捕まったその日に事情聴取を受ける必要があったのだが、元は警察官で「そこそこ」いい地位に身を置いていた熊田の計らいにより、特にお咎めもなく事が進んだ。
被害届を出すことを決意した藍時に、迷いはなかった。前回のように許してしまえば、陸がまたどんな形で自分を狙ってくるかわからない。何よりも、幼い純に危害が及ぶことだけは避けたかった。
「だが、訴えるとなると藍時に多大な負担がかかる。特に精神面だな。時間がかかればかかるだけ、体力、気力ともに確実に削がれていくし、場合によってはセカンドレイプも覚悟しないとならない。まったく……被害を受けた方が覚悟しないとならない法律なんて、クソ喰らえだがな」
「やるなら徹底的に戦いなさい! って、言いたいところだけど、ヒナちゃんにとっては、トラウマをほじくり返される話だものね。もちろん私もできる限りのことは協力するわ。でも、秀ちゃん。第一にアンタがフォローしてあげるのよ」
「ああ。わかってる」
「純ちゃんも、ママが戻ってよかったわねぇ」
熊田が声色を変えてニコッと微笑む先には、両手でサンドウィッチを頬張る純がいた。
大人二人が話す内容に口を出さず、黙々と目の前の食べ物に集中していた純だが、名前を呼ばれて嬉しそうに微笑み返した。
「うん! 明日の花火はね、ママも一緒なの! それでね、それでね、花火はお家のべらんだからみられるんだって! とくとーせきなんだよ!」
「あら。それは楽しみね。さあ、お待ちかねのココアができたわよ~」
「ここあ! ぼく、ここあ大好き! ママも作ってくれるの。ふわふわの雲を入れてくれるんだよ!」
「マシュマロかしら? ごめんね、純ちゃん。うちに雲はないんだけど、いいかしら?」
「ぼく、クマちゃんのここあも大好きだよ!」
「ま~! 嬉しいこと言ってくれるわね~!」
自分の隣で上機嫌に笑う純の頭を撫でながら、秀一は壁掛けの時計に目をやった。
「そろそろだと思うんだが……少し、外の様子を見てくるわ。純を頼む」
「あっ、ぼくも! ぼくも行く!」
「お前はそのサンドウィッチを食ってからな」
自分の後を追おうとする純に、頭を撫でていた手でそのままポンポンと軽く叩くと、秀一はワイシャツの上からジャケットを羽織り、「L’oiseau」を後にした。
裏口から路地に出て少し歩くと、見覚えのあるキャスケットを目深に被る人間が、派手な身なりの男に絡まれている姿を目撃し、秀一は小さなため息を漏らしつつ前髪を掻き上げた。
(迎えに行くから、連絡しろって言ったのになぁ)
もう少し、自分を頼ってくれてもいいのに……という不満を持ちつつ、その場から必死に離れようとしている「彼」の姿を見て、今度は微苦笑を浮かべた。
(まあ、そこがあいつのいいとこなんだけど)
だんだんと近づくにつれ、彼らのやり取りが秀一の耳に入ってきた。内容はこうだ。
「いいじゃん、いいじゃん。少しくらい。君みたいな可愛いΩ、初めてなんだよ~。大丈夫だって。うちの店、君みたいな子もちゃ~んと満足させてあげるから!」
「……ぃ、ぇ……結構、です……から……その…………ぉ、夫も、待ってる……ので……」
「えー? 旦那? 結婚してんの? ほんとだ、指輪してんじゃーん! しかもプラチナ! でもさー、その旦那さんは君をちゃんと満足させてあげられてんのー?」
「そ……ゆ……ことは……お答え、できません……」
「何~? てか、ちっさいけど、声も可愛いねー!」
まるで会話になっていない。またタチの悪い人間に絡まれているなと、秀一は派手な身なりの男の背後からヌッと顔を出した。
「そうですね。少なくとも、こんなところで質の低いポン引きをしているあなたよりは、体力も精力もあると自負していますよ」
「あーん? ひっ、ひいいっ!!?」
「ぁ……」
派手な身なりのその男は、突然邪魔をしてきた秀一へ振り返りつつ凄んでみせたが、自分よりも頭一つ分は背の高い彼を前にして、その両目をひん剥かんばかりに見開き悲鳴を上げた。
(何だ。この程度か)
予想通りの反応を見せる男に秀一はニヤリと口角を持ち上げると、続けて不気味に囁いた。
「なんなら、試してみましょうか?」
身長も体格も一回り以上は大きな強面の男から見下ろされ、キャスケットを被る人間にそれまでしつこく絡んでいた彼は、
「い、いえっ! 大丈夫ですっ! も、申し訳ありませんでしたあああ!!」
と、声を上擦らせながら走り去っていった。秀一は自分の腰に手を当てると、やれやれといった様子で頭を振った。
「声をかけられただけで逃げるとは、根性がないですね」
そう言うと、キャスケットを被る人間が、秀一に対して申し訳なさそうにペコペコと頭を下げた。
「ごめんなさい。秀一さん……遅くなってしまって……」
「謝んなくていいって。それより、大丈夫だったか? 藍時」
秀一が心配そうに声をかけると、キャスケットを目深に被った人間……藍時は、左右に首を振り、
「はい。絡まれただけで、それ以外は何もなかったので……」
と、秀一に答えながら、左手を上げて頭の上のキャスケットに触れた。彼の細い薬指には、秀一の首元にある指輪と同じデザインの指輪が、キラキラと光輝いている。
「ったく、あの野郎。既婚者だってわかるように印もつけてんのに、わざわざ人の嫁に手を出そうなんて……ふてぇ野郎だな」
「ふてぇって……ふふっ」
秀一が来たことでホッとしたのか、肩を揺らして静かに笑う藍時は、目深に被っていたキャスケットを取り外した。
「いいか、藍時。ああいう輩にはまず、鼻の下を狙って……っ」
「秀一、さん?」
ナンパやしつこい勧誘への対処としてはあまりに物騒なことを伝授しようとしていた秀一だったが、頭からキャスケットを取った藍時を目にするなり息を呑んだ。
それに対して、突然言葉を失ったかのように語るのを止めた相手を心配した藍時は、首を傾げながら名前を呼んだ。
すると、
「ママ!」
と、元気の良い声が自分を呼び、藍時は顔ごと動かし、声のする方へ視線を移した。
パタパタとこちらへ駆け寄ってくるのは、血の繋がらない我が子の純だ。彼は「おかえりなさい!」の掛け声とともに、藍時の脚に抱きついた。
「お待たせ。いい子にしてた?」
「うん! クマちゃんからココアをもらったの!」
「よかったな。熊田さんに、ありがとうは言った?」
「うん!」
脚にぐりぐりと顔を擦りつけながら純は頷くと、すぐに藍時の顔を見上げながら、
「前のママの色だ! わあ、お耳のところ、パパとおそろいだね!」
と、母親の髪型と色について褒めるように笑いかけた。そう、藍時は先程まで近くの美容室に行っていた。時間が経てば戻るかもしれない髪色も、これから純の母親としてやっていくのであれば彼が誇れるような人間でありたいと、切って整えるだけでなく、色も地毛に近い茶色に戻るよう染めたのだ。うなじは隠れるほどではあるものの、すっきりと切り揃えられており、前髪も眉より下で整えられている。ただ、以前と少しだけ違うのは、耳にかけている右側の髪色だけが白いままだということ。髪を下ろせばわからなくなるのだが、今は敢えてそれがわかるように緩く編み込んで耳にかけている。純がパパとお揃いだと言ったのは、その部分のことだろう。
続けて、純の後からやって来た熊田が、
「あら~! いいじゃない、いいじゃない! やっぱりプロね。色も髪型もよく似合ってるわ」
純同様に藍時の髪型について、感想を口にした。
二人からの絶賛の嵐に、藍時は照れたように視線を下げて微笑んだ。
「熊田さん。ありがとうございます。純も、ありがとな」
しかし、黙ったまま何も口にしない人間が一人。
「えっと……秀一さん。へ……変、ですか?」
「パパ~?」
「ほら、秀ちゃん。黙ってないで何か言ってあげなさいよっ」
キャスケットを取ってからというもの、秀一は心ここにあらずといった様子で黙ったまま何も言わない。ただぼうっと藍時を見下ろすばかりで、反応すらしないのだ。
だが、熊田に小突かれてようやく我に返ったのか、秀一は「ああ」と気の抜けた声を出した。
「悪い。最高過ぎて見惚れてたわ」
真顔で返ってきたのは直球の感想。藍時は驚いたように一瞬肩を震わせると、
「みっ……そ、そう……ですか……」
と、たちまち赤くなる顔を握っているキャスケットで隠した。短くはあるものの、それだけでも充分な感想だった。
しかし、秀一はなおも真顔で、とんでもないことを口にした。
「よく似合ってるよ。路上じゃなきゃ押し倒してたわ」
「し、秀一さんっ!? 純の前っ!」
「ラブホならそこの角がおすすめよ」
「く、熊田さんっ!?」
まさかの援護射撃に、顔を真っ赤にさせた藍時は秀一と熊田を交互に見た。
「ああ、あの角にあるとこか。『L’oiseau』から近いしいいな」
「料金も良心的だし、衛生面もバッチリよ」
あれよあれよと進んでいく大男二人の会話。どこから突っ込めばいいのかと藍時がおろおろとしていると、秀一はその身を屈めてきょとんと首を傾げている純に言った。
「純。今日のお昼寝は熊田んとこになるけれど、いいか?」
「ろわぞーの上?」
「ああ。二時間で帰ってくるから。夕飯はパパのオムライスだ」
「オムライス! わあい! クマちゃんのところでお昼寝する!」
純から懐柔ともいえる承諾を得た秀一。藍時はそれが冗談ではないことをようやく察すると、
「しゅ……え、ほ、ほんとに……? あの……」
「行くぞ、藍時」
「ちょっ……き、昨日もしたばかり……秀一さんっ」
たちまち夫によって攫われるように、街角にあるホテルへと消えていった。
残った純は熊田に抱き上げられると、共に「L’oiseau」へ戻ることになった。
「ねえ、クマちゃん。パパとママ、どこへ行ったの?」
「パパとママはね、仲良ししに行ったのよ」
「仲良し! たくさん仲良しできるといいね~」
「そうね~。ニ時間程度で終わるかしら?」
その後、「仲良し」をしに行った二人が延長料金を支払ったのは、言うまでもない。
END!
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