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第2話 順応

 熱くてたまらないのに、体は布で覆われていて、全く熱が逃げる要素がない。  荒い息を繰り返していると、腕の辺りだけ布を取られて、身動きが取れないのをいいことに針を刺された。血を抜かれているらしい。 「あっ……あぁ」  一瞬の喪失感がやってきて、肌に何かが貼られた。  頭がふわふわとして、何かを考えることが出来ない。 「菊地さん、菊地和真さん、気分はどうですか?」  声をかけられるけれど、まともに返事ができる気がしない。 「いま、検査用の血液を抜きました。」  そんなことを言われても、なんと返事をすればいいのやら。相変わらず頭の中がぼんやりとして、考えがまとまらない。これから自分はどうなるのだろうか?  分かっているのは、自分が『オメガ狩り』にあったことだ。多分、生中に入っていた。追加注文したのは自分と島野だけだった。そして、おそらく、男子トイレの換気扇からアルファのフェロモンをかけられた。自分しかトイレにいないタイミングで、換気扇から出したのだろう。確実に発情させるためにそこまでされたのだ。そう考えると女子とは、恐ろしいものだ。  今頃島野はどうしているのだろうか?月曜日、出社した時にあちらの島の女子社員から質問攻めにあうのだろうか?  ああちがう、俺の家族はどうなるのだろうか?一人暮らしをしていたから、その部屋は片付けられてしまうのだろうか?  取り留めもなく、自分ではどうにもならないことを考えていたら、自分を覆う布が外された。 「菊地和真さん、着替えますよ」  声をかけてから作業をするらしい。  ネクタイを外されて、シャツをぬがされ、ベルトを緩めてズボンを脱がされた。薄い緑色のワンピースみたいな服を着させられて、布団をかけられた。 「弱い薬だったから、明日の朝には治ってますからね」  ぽんぽんと優しく布団を叩かれて、ベッドサイドにペットボトルの水を置かれた。 「トイレはあちら」  目線だけで確認できた。  扉が閉まると、部屋の照明がゆっくりと暗くなった。 「……っはぁ」  ようやくため息がつけた。ゆっくりと息を吸うと、鼻を通り抜ける時にミントのような香りがあった。  今まで、匂いには無頓着に生きてきたけれど、急に気になるようになった。  いや、匂いが気になるのは久しぶりだ。  いつ以来だろうか?ずい分前だ。  あんなに匂いが気になったのは、学生の頃。高校の時だ。あの頃、3年間、ずっと匂いが気になっていた。嫌な匂いで、ずっと避けていた。オメガになった今、あの匂いを嗅いだら違うのだろうか?  そんなことを考え始めたら、腹の辺りに溜まっていた熱が急速に冷えてきた。それと同時に、眠気もやってきて、菊地はそのまま眠りについた。  ─────── 「っなんだ、これ?」  微妙にかすれた声が出た。  首に、何かが巻かれている。  そっと指先で触れてみると、滑らかな質感の布?金属の箇所もある。  慌てて起き上がり、昨夜聞いたトイレに駆け込む。  洗面台があって、鏡もついていた。  その鏡に映るのは、ワンピースのような服を着た自分だ。そして、その首には布が巻かれている。洗面台に手を着いて、身を乗り出して鏡を見た。 「首輪?」  幅広の布状の物が自分の首に巻かれていて、のどの辺に金属のプレートがあった。そのプレートには、時折文字が浮かび上がる。 「───っ」  そのプレートに触れた時、自分の体の違和感に気づいた。 「喉仏………」  昨日はあったはずの喉仏が、無くなっていた。あればプレートに、ぶつかって痛かっただろう。  喉を触りながら、鏡を見つめる。プレートに、時折浮かび上がる数字は何を意味しているのだろうか?鏡に映った数字を見ると、心拍数だけはすぐに分かった。あとは、考えたくないが、オメガとしてのなにかの数値。 「菊地さん、起きているんですか?」  見知らぬ男性の声がして、そちらを見ると、人の良さそうな顔をしたスーツの男性が立っていた。 「それ、ネックガードです。菊地さんのメディカルチェックも兼ねてます」  サラッと言われても、受け入れにくい。要は自分を管理しているということだ。 「あ、お水飲んでくださいね」  フラフラとそちらに移動すると、手を掴まれてベッドに腰掛けさせられた。程よく冷えたペットボトルを渡されて、それを口に含む。  昨夜は生中を2杯飲んだから、確かに喉が乾いていた。いや、そもそもまだ、トイレに行っていなかった。 「朝食はこちらに運びます。着替えはあちらのクローゼットにありますから、お好きなのをどうぞ」  そう言って、スーツの男性は部屋を出ていってしまった。  ペットボトルの水を飲み干して、ようやく菊地はトイレに入った。朝食を運ぶと言われたけれど、そもそも今は何時なのだろう?  ぐるりと部屋を見渡すと、扉の近くの壁にアナログ式の時計があった。8時前。  あのスーツの男性は、早朝勤務なのだろうか?公務員なら8時半から業務では無いのか?などと余計なことを考える。とりあえず着替えようと言われたクローゼットに向かった。 「全部Mサイズ」  上衣は全てMサイズのシャツや、Tシャツだった。空調がきいているらしい室内では、寒くもなく暑くもない。 「風呂、入ってないなぁ」  ふと思い出して、めぼしい服を手にして洗面所に向かった。  トイレの逆の扉は脱衣場だった。その先に風呂の扉があった。 「シャワーぐらい浴びよう」  一気に服を脱ぐと、下着が離れた時、妙な違和感があった。 「うっ」  臀の辺りにきた、違和感は肌着が剥がされるような何かが乾いた感じがした。チラリと下着を見たけれど、何がどうなっているのかは怖くて見られない。  温度設定で、少し熱めにすると、すぐに熱いお湯が出てきた。 「っふぅぅぅぅ」  頭から浴びると、気持ちがスッキリしてきた。ボトルに書かれた文字から、シャンプーとリンスを確認して、頭を洗って、そのままの流れでボディーソープも使ってみた。今までに使っていたのと違い、柔らかな花の香りがする。 「なんか、凄いな」  勢いのある水流で洗い流したけれど、風呂場には匂いがこもっている気がした。  タオルで、体を拭きながら着替えを取ろうとしたら、1番上にパッケージに入ったままの下着があった。  そういえば、下着は持ってきた覚えがない。 「気にしても仕方がないか」  居心地の悪い気もするが、仕方が無いのでその、新しい下着を身につける。何故かズボンはウエストがピッタリだった。  タオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、朝のスーツ姿の男性がいた。 「ああ、良かった。サイズピッタリですね」  言われてなるほどと思う。おそらく用意したのは彼なのだ。脱がせた自分のスーツから、サイズを確認して服を用意した。下着は、自分が気が付かなかっただけで、クローゼットにあったのかもしれない。 「…どうも」  お礼を言うべきなのか、なんなのか、まったく分からない。そもそも、来たくて来たわけでは無いから、着替えがないのは菊地のせいではなかった。 「菊地さん、朝食です」  テーブルには、洋食系の朝食が用意されていた。  席について食べ始めると、彼は穏やかな笑顔になった。 「何か?」  なぜそんなに嬉しそうな顔をするのだろう? 「すみません。今までの方でこんなにあっさりと受け入れてくれた方がいなかったもので」  随分と簡単に言ってくれたものだ。つまり、自分が単純だと言うことなのだろうか? 「そんなことを言われても、腹が減ってるし」  菊地はそのまま食事を続けた。 「そうですね」  彼は穏やかに笑いながら、菊地の食事を眺めていた。タブレットに何かを入力しているのが分かったけれど、菊地は気にしないことにした。  どう足掻いても、自分がオメガ狩りにあったのは間違いない。  食後にコーヒーを出されて、ゆっくりと部屋を見渡すと、なかなか贅沢な空間だとわかった。ワンルームながら、菊池が昨日まで住んでいた、2DKのアパートより広い気がする。窓はあるが、はめ殺しだ。開けることは出来ない。 「これをつけてください」  差し出されたスマートウォッチは、今は時計が表示されていた。 「この部屋の鍵も兼ねたIDです」 「どーゆー事?」  首に付けられたのと、何が違うのだろう? 「この施設内での全ての決済がこちら出てきます。ネックガードは、菊地さんの健康管理をしています」  言われて無意識に首に触れていた。そんなことを言われても、どうせネックガードには、GPSも備わっているのだろう。国の管理下に置かれたオメガの証だ。 「この施設?」  不思議に思って聞き返す。  まだ、この部屋しか知らない菊地にしたら、なんの事だか分からなかった。 「これからご案内します。それと、申し遅れました。私、菊地さんの担当になりました施設職員の木村と申します」  礼儀正しく頭を下げられて、菊地はなんだか居心地が悪かった。担当ということは、つまり監視役ということなのだろう。 「歯磨きも用意してあります」  言われて席を立った。  洗面台には、昨日まで使っていたのと同じメーカーの歯ブラシと歯磨き粉があった。歯ブラシは色まで同じだ。思わす喉が上下する。  歯磨きをして、また、トイレに入って、食事をしたリビングの方へ戻ると、既に片付けられていて、代わりに冊子が置かれていた。 「タブレットの、取り扱い説明書です」 「タブレット?」 「ベッドの壁にはめ込まれているものがひとつ、それと、こちらです」  目の前に新しいタブレットが出された。 「AIが、音声認識しますから、話しかけるだけで大丈夫なんですけどね」  木村は笑いながら説明をしていく。サラリーマンであったから、職場ではそれなりだったけど、自宅はそこまでAIを使ってはいなかった。 「ヒートが起きるとタブレットを使っている余裕がないでしょうから」  そーゆー物なのかと納得するしかない。菊地の経験したヒートは、薬によるもので、短時間で終わってしまった。 「最初に、医療施設にご案内します」  木村に促されて、菊地はようやく部屋を出た。

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