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第5話 難事

 木村は、菊地がこの施設に来て一週間経つと、一日中張り付くのをやめてくれた。とりあえず、菊地がこの施設にそれなりに慣れたからだとは思うのだけど、菊地としては急に暇になった。  最初のヒートを経験しなければ再就職先を斡旋して貰えないとなると、もはやお手上げだ。  アルファのフェロモンを感じてみるといい。と、言われたので、施設内にあるコテージに向かってみた。安全にアルファと出会える施設だと言うので、昼間にお試し感覚で行ってみた。   外部から利用しに来る者もいるからか、コテージの前には駐車場もあった。何台か停められた車をぼんやりと眺めながら歩道を歩く。アルファが乗っているだけに、高級車が多い。菊地の少ない知識から拾い集めても、国産の高級スポーツカーやSUV、海外の車に至っては、マークだけは知っているレベルのものだった。 「俺の年収で買えないレベルの車ばっかり」  思ったことをうっかり口にした。  周りに誰もいないと思っていたからだ。  誰もいないと思っていたのに、停められた車のなかから人が出てきた。  驚いて一歩後ろに下がると、今度は可愛らしい顔をした男性が立っていた。染めているのか金髪に近い明るい茶色の髪をして、耳には見た事のあるブランドのロゴの刻印された輪っかがはめられていた。 (すげーでけー穴空いてる)  親指の爪程の大きさの輪っかが、耳朶にしっかりとハマっているのを見て、菊地は驚いて目線がそこに止まってしまった。 「なに?僕が気になるの?」  声を聞いてなんとなく理解した。目の前にいるのはオメガだ。そして、車から降りてきたのはアルファ。  どうやら、二人の待ち合わせの邪魔をしてしまったらしい。 「あ、ごめん」  思わす謝ると、菊地は相手の反応を確認せずに背中を向けた。 「待ってよ、君初めてみる顔だね?」  車から降りてきたアルファが、いつの間にかに菊地の隣に立っていて、しかも腕を掴まれていた。 「へ?」  菊地がぼんやりしすぎていたのか、それともアルファの動きが機敏なのか、全く訳が分からないと言う顔を菊地はしてしまった。 「このコテージの利用は初めて?」  腕を掴んだままアルファが聞いてくる。  なんで菊地にそんなことを聞いてくるのか分からない。そこにいるオメガと待ち合わせをしていたんじゃなかったのか?そんな疑問しか菊地の頭に浮かんでこない。 「え?あ…そ、う……ですけ、ど?」  だからなんだろう?そんな、疑問があった。なぜ、自分に声をかけてくるのかが分からない。そこにいるオメガと約束していて、これからデートでも、するのではなかったのではないだろうか。 「コレしてるってことは、フリーなんだよね?」  ちょいちょいと、菊地の首のあたりをつついてくる。  指先が触れているのは、ネックガードだとわかるけれど、首の辺りを触られるのはなんだか嫌だった。 「俺もしかして、警戒された?」  おどけたようにアルファは言うけれど、オメガの首周り、特に項は触れてはいけない場所だ。ネックガードに触れるなんて、下着に触るようなものだ。  もしかしなくても、菊地は警戒した。 「やめなよ、卓哉」  笑いを含んだ声が聞こえた。  さっきのオメガだ。 「どーして、出会いは大切だろう」  口元に浮かべる笑いが下品だと思う。そんな笑い方をして、どうして自分に絡んでくるのか、菊地には分からなかった。 「だって、そのオメガ、どー見てもお兄さんじゃない?」  当たり前のような顔をして、卓哉と呼んだアルファの腕にまとわりつきながら、オメガが菊地をバカにしたような言い方をする。  菊地は意味が分からずに瞬きを数回した。 「番が見つからなくてコテージ変更したの?お兄さん」  なんの事だか分からなくて、菊地は返事が出来ない。 「お兄さん、僕より結構年上でしょ?見た目もベータっぽいし」  明らかにバカにした口調で言われて、菊地はようやく理解した。確かに医者から、男オメガの出産適齢年齢の説明を受けた。その話からいけば、確かに菊地は高齢になる。 「この間までベータだったけど…」  言わなくてもいいかとは思ったけれど、この手のタイプは言わない限り解放してくれそうもない。仕方なく菊地は口を開いた。 「えー、なにそれぇ、お兄さん『オメガ狩り』にあったんだ。その年齢でとか笑えるんだけど」  若さゆえなのか、目の前のオメガは、男性だけど小柄で可愛らしい外見をしていた。二十歳すぎまでベータとして生きてきた菊地は、身長も肩幅も十分すぎるほどに育っていた。  そんな会話を黙って聞いていたアルファが、菊地の顔をまじまじと見つめてきた。じっくりと菊地を見つめて、それから唾を飲み込んだのか、アルファの喉仏が上下した。 「もしかして…君って……名前、聞いてもいい?」  先程とアルファの様子が明らかに変わったけれど、オメガに言われたことで、頭がいっぱいになってしまった菊地は気づかなかった。聞かれたので素直に答える。 「俺?俺は菊地和真」  そう言ってからゆっくりと視線をアルファに向けると、アルファの目が明らかに動揺していた。 「…あ、あっそう、なんだ。菊地…さん、ね。コテージの使い方って、知って…る、よね?」 「施設の人に一通りは聞いてるけど?」 「そ、そうかぁ……じゃ、じゃあ…俺の案内は不要だよね」  アルファはなにか慌てている様子で、自分の腕に絡みつくオメガを引っ張るように自分の車に押し込んだ。強引にドアを閉めると、菊地の方に笑顔を向ける。 「ごめんね、俺たちこれから出かけるんだ。中にいる人たちと楽しんでね」  ヒラヒラと手を振って、アルファは運転席に乗り込んで、何やら言ってくるオメガを無視して車を動かす。  菊地はそれを黙って見送った。  荒っぽく駐車場を出ていく車中で、オメガが強引にはめられたシートベルトを調整する。 「なんなの!」  ようやくオメガが口を開いたとき、運転するアルファの顔は見たことがないほど青ざめていた。 「な、なに?」  隣のアルファから、かつて感じたことの無いフェロモンを感じる。 「お前、コテージ変えろ」  こちらを見ないでそう言ってきた。 「なにをいきなり」  いつもなら、楽しいドライブだけれど、様子が違う。そもそも今日は、コテージでまったりデートのはずだったのに。 「あのオメガ、ヤバいんだ」  うわ言のように呟くアルファを信じられない物をる目でオメガが見つめる。 「どーゆーこと?」  事情を知らないオメガは首を傾げる。べつに、先程の菊地和真と言うオメガからは、何も感じなかったけれど。 「あのオメガは、一之瀬様のお手つきなんだ」  耳を疑うレベルの名前が出てきて、オメガは鼻で笑った。 「何言ってんの?この間までベータだったような男だよ?」 「そうじゃない」  ハンドルを握るアルファは、運転しながらいつも以上に周りを気にしている。 「何年も前から言われてるんだ。『菊地和真』と名乗るオメガに手を出すな。って」  アルファの顔が、やけに白い。 「眉唾物じゃなくて?」  まだ信じたくないオメガは、何とかおどけてみせる。 「最近、コテージとかショッピングモールに一之瀬様が来ていなかったか?」 「……来てた」  オメガはそう口にして、ようやく理解した。 「見られていたかもしれない。と、とにかく」  アルファはそう言って、高速の入口に車を進めた。 「離れないとだめだ。見られたかもしれない。いや、見られたはずだ」  車は下り車線に入っていく。 「お前はとにかくコテージを変えるんだ。荷物は送って貰えばいい。俺は、何も無いことを祈るしかない」  祈るようなその言葉を聞いたけれど、アルファのカバンの中のスマホから、着信を告げる音が車内になり響いた。

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