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第4話 接近
寿司屋を出ると、木村は菊地を2階へと促した。ショッピングモールのエスカレーターは、吹き抜けを登って行くせいか、なかなか見晴らしが良かった。
「服を買いましょう」
「え?」
「以前住んでいたアパートは引き払いまして、それに伴って荷物は全て処分されているんです」
木村がすまなさそうに言ってきた。
「そう、なんですか」
菊地はとりあえず納得した。
「色々と思い出の品もあるかと思いますが、規則なので許してください」
木村に謝られても困る。処分したのは木村では無い。それに、実際に処分した職員だって、仕事だからやったのだ。
「服なんですけどね」
木村が、話しづらそうに言ってきた。
「サイズが変わったかと思います。」
言われても、菊地には不思議でしか無かった。そもそもこの服はここにきて渡されたものだ。サイズが変わったなんて、実感はない。
「その、ですね。腰回りとか、二の腕とかですかね」
言われて腹の辺りを触ってみる。今しがた寿司を食べたばかりだから少し出てはいるが・・・
「筋肉、どうなってます?」
木村が小声で言うので、菊地も臍の辺りをそっとなぞってみる。元々、そこまで筋肉かあった訳では無いが、自分の体はこんなであったか?と疑いたくなる部分があった。
「その…妊娠しやすい体なので、ヒートが来る度にそう言った変化が、起きるかと思います」
なるほど、つまり、そういう事か。オメガのフェロモンは女性ホルモンに似ているというわけか。
「えっと、じゃあ、下着も含めて買い物をすればいいわけですよね?」
菊地は改めて木村に確認をして、ショッピングモールの中をゆっくりと歩き出した。
今朝のこともあり、とにかく下着はたくさん欲しかった。アレがなんなのか、今ならわかる。分かるからこそ、替えの下着がそれなりに欲しい。
最初に下着を買ったら、自室に届けてくれると言うので菊地は驚いた。手ぶらで買い物できるとは、なんと素晴らしいことか。
「このショッピングモール内の店舗でしたら、就職出来ますよ」
買い物をしながら木村が教えてくれた。残念ながら菊地の前職は接客業では無い。けれど、新しい生活を送るのだから考えの中に入れるのもありだろう。
今履いている靴がシンプルなデッキシューズだったので、靴も買った。こだわりはないけれど、歩きやすそうなスニーカーにした。
シャツを買って、それに合わせられるカーディガンを探している時、菊地はなにかの匂いを嗅ぎとった。
「どうしましたか?」
鏡越しに木村が聞いてきた。明らかに菊地の表情が変わっている。
「なんか…臭う…ん、です」
唾を飲み込むのも億劫に感じるほど、何かを感じ取っていた。すごく、思い出したくない、重苦しい匂いだ。
「木村さん…俺、ダメ……です」
菊地の顔が死んでいた。
木村は手にしていたカーディガンを店員に渡すと、菊地の腕を引いて慌てて店を後にする。菊地の喉元に表示される数値は、ヒートとは真逆な警告を出していた。菊地が、明らかに萎縮しているのは明白で、スマートウォッチからも警告音が鳴っていた。
菊地の腕を取り、木村はバックヤード入口の扉を開ける。菊地のスマートウォッチがバックヤードに入ったログを刻む。そのまま奥へと進んで、使われていない会議室を菊地のスマートウォッチで解錠した。
「どうしたんですか?一体」
ヒートとは真逆な状態に陥った菊地をみて、木村は動揺していた。ショッピングモールでは、意図しないアルファとの遭遇がままある。それによってヒートを起こす場合もあるのだが、今の菊地は全く違う。
苦しそうに肩で息をして、シャツの胸元を握りしめている。
「無理、無理、頭痛い。気持ち悪い」
まるで独り言のように呟いて、菊地は力なく座り込んでいる。木村は屈みこんで菊地の喉元の表示を見た。見慣れない赤い数値が点滅している。
木村がポケットから電話を取り出すと、タイミングよくかけたい先から着信があった。
「はい、木村です」
施設から、菊地の状態異常についての問い合わせだった。菊地の見た目を伝えると、施設から救護班が向かうと告げられた。
───────
菊地がぼんやりと目を開けると、そこには今朝の医者が見えた。
「お、気がついた」
医者は嬉しそうに菊地を見る。
「あっ、俺」
不意に頭の回転が良くなって、考えがまとまった。
「一之瀬」
思い出した名前を口にする。
「一之瀬が来てましたよね?」
菊地がハッキリとそう言えば、少し離れた場所にいた木村が頷いた。
「来てました。施設の定期視察です」
一之瀬匡は、アルファの名家の息子である。施設運営のために一之瀬家は出資している。そのため、施設を定期的に視察するのだ。もちろん、オメガとの出会いも兼ねている。
アルファであるから、オメガの匂いは嗅ぎ分けられる。施設に接続されたショッピングモールを視察しながら、新しいオメガの匂いを探していたのだ。
が、一之瀬が気付く前に菊地は逃げ出した。高校の頃の嫌な記憶から、一之瀬のフェロモンを嗅ぎとったのだ。
「もちろん、この建物にも来ましたが、こちらにも守秘義務があります。新しいオメガが入所したことは知らせましたが、誰とは教えていません」
木村が淡々と話すので、菊地は逆に怖かった。自分が一之瀬のフェロモンを嗅ぎ分けて逃げ出したことは話したのだろうか?
「もちろん、ショッピングモールで、ニアミスした事もお話してません」
木村は仕事を優先してくれた。
自分が唯一知っているアルファが、よりにもよって名家の息子で、定期的に施設を訪れるとあっては気が気ではない。あの匂いを嗅ぐとどうしようもなく苦しくなるのだ。
しかし、この施設内にあるコテージと呼ばれるアルファとオメガ専用の娯楽施設は出会いの場として、外部のアルファとオメガも利用する。番のいないオメガが、安全にヒートを過ごすための施設でもあるからだ。
身元の確かなアルファに、ヒートの間共にすごしてもらう。そういう事ができる場所でもある。
未だベータの思考で過ごしている菊地には、まだ未知の施設だ。
「ヒートが来る前に、コテージも体験して頂きたかったのですが、今日はやめておきましょう」
体調も優れないので、今日は部屋に帰って買い物を受け取ることにした。
「お荷物をお預かりしております」
コンシェルジュがそう言って、ショッピングモールで買った品物を出してきた。受け取ろうとしたら、そのまま部屋まで運んでくれたので、菊地は内心ショックを受けた。ここでの生活は、恐ろしいほど上級すぎる。平凡なベータとして生きてきたのに、本当にもう戻れなくなりそうだった。
洗面所で、手を洗って気がついた。
「洗濯物」
今朝脱いだものがそのままだった。
「ああ、すみません、気が付かなくて」
何故か木村が謝ってきた。
「この洗濯機、乾燥までしますから干すことは考えなくて大丈夫ですよ」
木村がやってきて、使い方を教えようとしたので、菊地は慌てて木村を押し出した。あの下着を見られたくはなかったのだ。
「大丈夫です。一人暮らししてましたから、使い方は分かります」
新しく買った服から丁寧にタグをとる。下着はまぁ、袋からあけてそのまま使っても問題は無いだろう。実際、今はいているのはそうだ。洗濯ネットを買い忘れたとおもっていたら、ちゃんと用意されていてさすがに驚いた。
洗面所に用意されていた洗剤は、何故かアパートで使っていたものと同じだった。そこまで確認されていたのかと思うと、背筋が寒くなる。洗濯機を回して、再びリビングに行くと、木村に夕飯はどうするのか聞かれた。
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